野いちごのレビュー・感想・評価
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小さな変化や忘れてしまった感情に触れる表現が素晴らしい。
◯作品全体
老い先短い主人公・イサクが夢の中で後悔や「孤独という罪」に向き合うことで、少しだけ生き方を変える物語。
夢の中の表現は幻想的な要素もあったが、そこからイサクが理解する事柄は地に足が付いていて共感できた。後悔や妻への想い、そしてこれから過ごす孤独な世界への恐怖。年老いて忘れてしまっていたり鈍感になっていた感情と向き合うような夢の世界は、歳を重ねて頑固になってしまった感情に揺さぶりをかける。ガラッと世界を変えるわけではないが、確実に昨日のイサクとは価値観が変わっている。その小さな変化がイサクにとってはどれだけ大きなことだろう。
自分自身の過去を振り返ってみても納得できるものがある。劇的なドラマチックは存在しなくても、小さく意識を変えたり、世界が変わった瞬間は宝物のように残っている。そういった周りからすれば小さなことでも、自分自身にとっては大事だった一瞬を思い出させてくれるような、そんな作品だった。
ラストシーンではイサクにとって心地の良かった幼少期の景色を夢に見る。夢の世界は決して自分を傷つけるために存在しているわけではない、としているところも、とても良かった。
この作品にはイサクにとって明確な悪というものが存在しない。途中から相乗りする仲の悪い夫婦も危害を存在ではなく、イサクにとっての夫婦とは、というのを思い出させる起点となっていた。
3人の若者も、イサクにとっては人と関わり続けることの喜びを再び感じさせてくれる存在として登場する。
夢の中の出来事は偶然見たものではなく、イサクの無意識化にある忘れてしまった感情たちが旅で出会った人物たちを通して呼び起こされた結果なのかもしれない。
大きな出来事は起きないけれど、だからこそ、忘れてしまっていたり、自分自身でも触れづらい記憶や感情に優しく触れることができる。本作はそういった記憶や感情へ触れる表現が素晴らしかった。
〇カメラワークとか
・最初の夢の景色の不気味な表現が面白かった。横位置のカットとか、謎の男が振り向いたときのびっくり演出とか。意図的かはわからないけれど、白飛びしたような画面に暗闇を映す演出とも違う怖さがあった。
・宿についた時の廊下のカットはキューブリック感があった。
〇その他
・孤独という罪を宣告される夢のシーンは、すごくリアルな感じがした。自分のできることができなかったり、知っていることが言えなかったり。夢の中だと歩けなかったり運転できないみたいな感じが絶妙に表現されてた。
・若者3人組が宿の庭から別れを告げるシーンはちょっとウルっときた。孤独におびえている時に人間として好いてくれている人がまだいるって思えるのは、イサクにとってどれだけ救いになったんだろう。
・過去の回想や夢を挟むけど、一日だけの物語だった。短い時間の中でいろいろな出来事を経験するのも、夢の中っぽくある。
老年期の心の旅
偏屈な学級肌の老医師が、名誉博士号の受勲。授賞式への旅が人生の回顧への旅と重なる。婚約者を兄弟に奪われた傷つきによって支配された人生であったが、息子の妻から見た世界やヒッチハイクで拾った若者の愛に溢れる生命力に触れることで、自分の人生を肯定し、自分が元々持っていた周囲の人への愛情を回復する。/冒頭に出てくる悪夢がいい感じの悪夢である。
回想するに足りる人生が、きっと良い人生なのでしょう。
<映画のことば>
「私たちは夫婦じゃないぞ。」
「そのことを、毎晩、神に感謝していますわ。」
人づきあいの煩わしさから、意図して社会的な孤立を選びとってきたイサク教授―。
たしかに、人づきあいを省略することで、一時的な安息を得、学究に勤(いそ)しむ時間も産み出すことができたのでしょうから、ある意味、本望だったのかも知れません。
しかし、その反面、内心では人との交際を絶つことの不安や、自らの学究の成果について、潜在意識には常に不安がつきまとい、それがイサク教授の悪夢の根源だったことは、疑いようもないことでしょう。
世上、社会的な孤独は認知症発症の重大なリスク要因ともいわれますけれども。
そして、人づきあいは、確かに「ややこやしい」という一面はありますけれども、そういう煩わしさをなんとか解決していくことが、結局は「生きる」ということにつながる
のでしょう。
人間が「社会的な動物」ともいわれる所以(ゆえん)だとも思います。
ただ、評論子は、本作のイサク教授のような生き様を、アタマから否定するものではありません。
現に、もしイサク教授がただの変わり者の偏屈に過ぎなかったとしたら、家政婦のアグダは、あんなにも献身的にはボイル教授には仕えてはいなかっただろうと思うのです。
授賞式に向かう旅の途中、ヒッチハイカーの若者を拒むふうでもなく、(うまくはいってないのかもしれないけれども、同乗を拒むわけでもないという意味では)長男の嫁とも、これと言って折り合いは悪くなさそう―。
そんなこんなの事情に照らしても、イサク教授が偏屈で、取っ付きづらい人柄と断ずる要素は見当たらないと、評論子には思われます。
(上掲の映画のことばも、冗談めかして言われているものなのですけれども、その裏には、イサク教授への畏敬の念が隠されていたと思いますし、高い業績をあげたのであろう老教授の身の回りの世話を、妻亡きあとは一身に、彼の身近で焼くことに、ある種の誇りすら持っていたのかも知れません。)
要は、自身として満足のいく、得心のいく、つまり後悔のない一生を、自分として送ってきたかという「主観的な納得」こそが、その人の人生の価値を決めるものだと思うの
で。
そして、こういうふうに回想することのできる人生というものは、若い頃の婚約者をめぐる出来事を含めて、むしろ価値の高いものなのかも知れません。それに足りるのが(その人にとっては)「良い人生」だったとも言えることでしょう。
(邦題の野いちごは、その出来事をにまつわる大切なアイテムということなのだとも思います。)
本作は、私が入っている映画サークルの「映画についての評を語る会」というような集まりで、話題にする作品として選ばれたことから鑑賞したものでしたけれども。
さすがに映画サークルのメンバーお題作品として選ぶに足りる佳作でもあったと思います。
評論子は。
(追記)
まったくの余談ですけれども。
聖名祝日のパーティの席で、アーロンおじ様が使っていた補聴器は、いいなぁと思いました。
最近とみに加齢に伴う「聞こえの悪さ」を切実に実感している評論子としては。
あの補聴器なら、電池が切れることもないでしょうから省エネでしょうし、映画館で使えば、皆の注目を集めることは必定と思います(評論子は人気者だ!)。
唯一の難が、どこで売っているか、いくらくらいで売っているかが分からないこと。
レビュアーの皆さんで、もし、どこか店頭で見かけた方がいらしたら、是非とも評論子まで御一報をお願いいたします。(薄謝進呈)
【或る老齢の医学博士が、名誉博士号を授与されることになった道程で過去の思い出したくない出来事や、若者達や喧嘩する夫婦を乗せ乍ら様々な思いを胸にし、自宅に戻り静に眠りにつく物語。】
ー 今作は、イングマール・ベルイマン監督の古典的名作という位置づけにある作品だそうであるが、”私にはあと40年ほど人生経験を積まないと真の良さは分からないかな。”と思った作品である。-
◆感想
・イーサク博士が夢の中で自身の死の幻影を見るシーンなどは、針の無い時計や、棺桶からはみ出た自身の姿などシュールレアリスム的でもあり、印象的である。
・冒頭の、博士が若き時に恋していたサーラを弟のジーグフリードに取られるシーンや、その後授賞式へ向かう道程で出会った3人組の男女や、喧嘩ばかりしている夫婦の意味合いが良く分からない。
・彼の旅に同行する息子エーヴァルドの妻マリアンは、彼の事をエゴイストと言い、夫との関係も良くない。
だが、二人は結局仲直りをするのである。
<イーサク博士はそんな様々な経験をしても、自宅に戻ると穏やかな顔でベッドに入り眠りにつくのである。
年を取ると昔の悔やまれることを思い出したり、死の恐怖に苛まれたり、若者との価値観に疎外を覚えたりするのかもしれないが、イーサク博士はそんな思いを全て受け入れ、寛容な精神で穏やかに眠りに着いたのかな、と思った作品である。
所謂、達観した人生観を表した作品なのだろうか。もう少し年と人生経験を重ねないとイーサク博士の境地にはなれないのだろうか。
それにしても、イングマール・ベルイマン監督は今作を39歳で公開しているのである。老成した若者だったのか、真の天才だったのか、両方だったのだろうなあ。>
イングマール・ベルイマン監督の最高傑作‼️
わが敬愛するイングマール・ベルイマン監督作品の中でも一番優れている作品だと思うし、一番好きな作品ですね‼️ベルイマンの作品には夢や幻覚のシーンが多く見られ、時に難解と思われる作品もありますが、この「野いちご」はそれが最も美しく、そして最もわかりやすく表現されていると思います‼️ストックホルムで孤独に生きる78歳の老医師イーサクは、名誉博士の称号を授与されることになる。別居中の息子の妻マリアンと車で式典に向かう途中、イーサクは60年前の恋人サーラとの悲恋を回想する。サーラによく似た女性ら若者三人組や、喧嘩ばかりしてる老夫婦を車に拾うなどしながら目的地へ向かうが・・・‼️自分の死体と出会う奇怪な夢や、恋人が弟に奪われる回想シーン、妻が男と密会する現場を目撃したことを思い出したり、医師の試験を受けさせられたあげくの有罪判決、マリアンから子供を産むことを息子が許さないと相談されたり・・・‼️回想場面に現在の主人公自身が登場するのも独創的だし、夢と回想と現実が錯綜するような構成も印象的で、老いて死を予感している主人公の内面のイメージが見事に表現されていますよね‼️そんな夢と回想を織り交ぜながらのロードムービーを鑑賞しているうちに、イーサクのこれまでの様々な人生模様が浮かび上がってくる、まるで走馬灯のような映画ですね‼️そして若者三人組に祝福されたり、息子夫婦の仲直りを見ているうちに、名誉よりも心を開くことが大切であると気づいた主人公が、安らかな心でサーラの夢を見るラスト‼️なんて素晴らしい着地点なんでしょう‼️まさに人生に対するノスタルジー‼️ベルイマン監督の演出は静かで詩的で美しく、ホント心に沁みる‼️深みのあるモノクロ映像も格調を高めていてホント素晴らしいですね‼️
医学博士の車旅
映画は78歳の医学博士イサク(Victor Sjöström)の独白ではじまる。
『いわゆる「人づきあい」の主な中身は、そこに居ない誰かの噂をし悪口を言うことだ。私はそれが嫌で友を持たず、人とのつきあいを断った。歳をとった今ではいささか孤独な日々だ。・・・』
映画野いちごはイサクが学位の授与式に参列するためストックホルムからルンドまで車で移動する道中の様子を描いている。マップを開いたら直線で500キロほど、車で7時間──と出た。当時の車/インフラならもっとかかっただろう。
車旅は息子の嫁(イングリッド・チューリン)と三人の若者が道連れとなり、折々夢へ飛躍しながらイサクはじぶんの人生の再評価を余儀なくされる。
イサクは人々から尊敬され感謝される医者であり大学から叙されるほどの成功者だが、息子や亡妻に対して常に不機嫌で頑固で自己中心的であった──ことがイサクの見る白昼夢や息子の嫁の証言によって明らかになっていき、過去の自分自身を観察しながら次第に内省へと落ち込んでいく。
wikiの解説に『ベルイマンはストックホルムからDalarnaまでのドライブ中故郷のUppsalaに立ち寄ったときに映画「野いちご」のアイデアを思いついた。』とあった。
車を運転される方であればお解りになると思うが、ドライブ中はいろんなアイデアを思いついたり、あるいは嫌なことを思い出したりする。いいことはあまり思い出さず、不意に恥ずかしい失敗を思い出して車内で独りなのをいいことに、大声をあげてその記憶を振り払ったりする、こともある。
つまりベルイマンは「野いちご」のアイデアを閃いたことと、映画中でイサクが自省の念へ立ち戻っていく──という事象をドライブに紐付けながら語っている。
人生の黄昏期、集大成のような功労賞が与えられるという節に7時間のロングドライブをしたら、確かにあんなことやこんなことや、悲喜こもごもを思い出しながら、ひょっとしたら暗い気分になってしまうかもしれない──と思わせる普遍的な完成度をもった映画だった。
普遍的というのは、じぶんが78歳の医学博士に至っていなくても、まったく別の年齢で何も達成していなくても、この話はとてもわかる話だ──という意味であって、イサクが幻想でまみえる夢判断のような劇中劇も解りやすく、結果本作はベルイマンの代表作にもなり、キューブリックやタルコフスキーのような巨匠中巨匠でさえもが野いちごをAll Time Favoriteに挙げている。
ただしベルイマンの主潮流である神の不在とは印象が異なり別サイドの代表作という感じ。
個人的に普遍性と家族と、ある種の虚無感によって「東京物語のB面」というのはどうだろう。我ながらいい短評だと思う。
wikiによれば1957年撮影時のベルイマンは体調も悪く私生活も混乱していた。
前にも言ったことがあるがベルイマンという人は理知の塊のような映画をつくるのに反して結婚離婚を繰り返した人だった。それを「反して」というのは語弊があるかもしれない。ただすごく悟性に訴える映画をつくるのに何度も結婚離婚をしていることが日本人の見地からは違和があった。むろんそれがだめと言いたいわけではないしスウェーデンがそういう国なのかもしれないが、野いちごの撮影時には胃疾患とストレスでの入院後だったのに加え、出演者の一人であるBibi Anderssonとの関係が終焉していた──と概説にあった。ビビとは要するに不倫をしていたわけ。
わたしはどなた様の不倫にも感心がなくましてそれに善悪是非を裁定する権利がないと思っているがベルイマンが恋多き男だということは映画のピューリタンな印象とは異なっていた──という話である。
ただしもちろん、往々にして世の傑物がそうであるように、何度でも女性とくっついたり離れたりするような甲斐性や執着心がなければ人はクリエイターなんかになれない、というのは解る。(もちろんそうではないクリエイターもいくらでもいるが)
それらの絶不調に加えて主演のVictor Sjöströmが難物で、かれはサイレント映画時代の重鎮でベルイマンの大先輩でもあった。
ベルイマンは──
『Victorは憂鬱な気分でいて、映画をやりたがらなかった。彼は人間嫌いで疲れていて、老いを感じていた。彼にこの役を演じてもらうために、私はあらゆる説得力を駆使しなければならなかった』
──と述懐している。
つまりイサク役はVictor Sjöströmそのものだった。歳も同じくらいで、ベルイマンは時々脚本の細部について屁理屈を言われながら、最終的に撮影時間が変更されSjöströmが彼が日課にしている午後5時からのウイスキーを飲む時間に帰宅できるようになると、事態は好転した。──そうである。w
ベルイマンの苦労が報われ野いちごのVictor Sjöströmは迫真だった。Victor Sjöströmが遠くを見る目をするだけですでにドラマチックだった。
ラスト、イサクは幻想のなかでBibi Andersson扮するサラに誘導され、湖のほとりでピクニックする家族のヴィジョンが見えると、そこでやっとイサクは肯定的な歓びの表情をする。
あれはまもなく死ぬからだろうと思う。あれはハッピーエンドのイメージじゃなくて涅槃のイメージだ。だから野いちごは「人はどんな風に死んでいくのか」という映画だ、と(個人的には)思っている。
イーサクの遺作
何が彼をそーさせたのか、孤独で静かに頑迷だった親父の晩節が描かれている。夢は逃避の象徴として扱われることが多いですが、その逃避の夢が現実を変えるキッカケになり、ラストシーンでみる夢の慰めも深まる。
義理の娘は東京物語の原節子か。誰にでも女神はいる。
イングマール・ベルイマン
たった1日の些細な出来事たちが、ある1人の老人を成長させた。人はいつでも成長できる。生涯発達という考え方に則れば、精神の成長は、死ぬまで続く。そのきっかけさえあれば。素直で活発な若い男女3人に会ったり、見るからに険悪でこうはなりたくないと思わせるような不仲な夫婦に会ったりすることで動いたイーサクの心は、彼を少しだけ、成長させた。
今日あったことそれぞれは偶然なんかじゃなく、なにかしらの必然性があったんだと感じ、忘れないように書き留めておこう、とイーサクが感じているということが、すごく前向きで好きだなーと感じた。そして僕も、この映画を見てすごく感動したということが、きっと僕を成長させてくれるだろうと感じている。
黒澤明の「生きる」の上位互換って感じがした。「生きる」は、ちよっと説教臭く感じてしまってあんまり好みじゃなかったけど、「野いちご」は本当に好き。若い男女3人のシーンなんて、すごく楽しいシーンだったし。特に最後の部屋を見上げて歌ってるシーンは、イーサクの笑顔も含めてほんとに好き。
共感できれば良いってもんでもないとは思うけど、やっぱり強く共感した映画は、感動しやすい。「野いちご」は、精神的な未熟さの部分に共感した。「僕のヒーローアカデミア」で精神的に未熟である成人を子ども大人と呼んでいたことと、この映画における自己欺瞞の中に生きている人に対する生きる屍って言葉が、少しだけ重なったりもした。
イーサクが受ける孤独という罰や、悩みや不安から目を逸らし、逃げ続けるという姿勢は、すごく共感しながら見た。僕の場合は、悩みと不安と、あと理想からもなのだけど。この、理想から目を逸らすというのが結構つらくて、それはいつも自己欺瞞につながる。自己欺瞞ほど生きる上でつらいこともないだろう。それはわかっているのだけど、理想を見続けることは、あまりにも苦しい。中村文則の「掏摸」における主人公や死んだ元恋人のように、理想のメタファーである大きく美しい塔の幻影に憧れ続けながらも、そこに自分はたどり着けないと確信しているのだ。ならいっそ目を逸らして、そんな理想ははなから持っていなかったと自分を納得させようとしてしまう。だけど、この映画を見て、少しだけでいいから、自分の理想や希望、それから悩みや不安にも、しっかり目を向けてみようと思えた。本当の自分を偽って生きるのは、やっぱり悲しい。
老いや、死、ということに関しては、あまり共感できなかった。今21歳で見る「野いちご」と、例えば20年後の41歳になって見る「野いちご」は、絶対違う映画になっているだろう。それが今からとても楽しみだ。きっとその時僕は、もっとベルイマンや「野いちご」を好きになれるはずだ。
イングマール・ベルイマン
旅の途中の回想シーンはイーサクの人生の中でも辛いものばかり。弟に取られたサーラ。妻と男との密会。医師の試験まで受けさせられ、有罪判決を受けるというわけのわからない夢まで見てしまうのだ。
そんな嫌な記憶はあれど、三人の若者が純粋で楽しい。なぜだかその対比がイサークの人生の苦楽を象徴していて、生きる勇気をも与えてくれそうな雰囲気。一方、同じく医師である彼の息子も38歳という若さで死について考え込む性格らしい。嫁とも上手くいっていないことがイサークの気になるところだ。
たった1日の間に辛いこと、楽しいことをいっぱい経験した。若者たちが別れ際に歌を歌ってくれたのもうれしい。これが生きている喜び。就寝時には青春時代の楽しい思い出を夢に見る。
老いて省みる日々・・
タルコフスキーやキューブリックほか名だたる監督たちがリスペクトする巨匠イングマール・ベルイマンの映画ですから素人が感想を語るのもおこがましいのですが・・。
ストックフォルムの78歳の老医師イサク、40年来の家政婦アグダとの二人暮らし、老いのせいか見る夢も棺桶に入った自身に出会う悪夢とかいかにもです。大体、人生も終盤に差し掛かると死への不安とか自身の生き方を省みる傾向が強くなるのでしょう、心象風景の巧みな映像化という点ではベルイマン監督は先駆者のひとりなのでしょう。
母校のルンドへ向かうはずが思い出に駆られたのか青春期に過ごした湖畔の別荘や、老母を訪ねる寄り道、10人兄弟というのも凄い大家族ですが資産家だったようで優雅な生活ぶりでした、一人暮らしの老母の愚痴は子や50人もいる孫たちが訪ねてもくれないこと、たまに来るときは金の無心、世相の反映でしょう。
イサクのトラウマ、心の傷と言えば弟に婚約者を寝取られたことと回想シーンで明かされます、それもあって妻ともうまくいかなかったようです、マリアンヌが語る息子の性格も自身に似て厭世的なのは宿命のような端折った描き方でした。長年医師として社会貢献し栄誉を称えられるはずが自身の夢想では勉強不足で落第のレッテル、地元では感謝されているようですが描かれなかった医師時代の失敗談があったのでしょうか、実像をあえてぼかしているようにも見て取れます、どうも客観的な人物像の掘り下げは監督の好みではないようですね。
ストックフォルムからルンドまでは約600km、東京から姫路くらいの感じでしょうか、長い道中なので二人だけの暗い展開では持たないと若いヒッチハイカーを加えて話に色を添えています。
道中で心の整理がついたのでしょうかルンドに着いてからは物事が一気に好転、マリアンヌの懐妊にあれだけ嫌悪していた依怙地な息子がまるで呪いが解けたかのように悔い改めました、こういう顛末なら息子役のグンナール・ビョルンストランドの鬼気迫る演技をもう少し抑えさせるべきでした。まあ、さんざん気を揉ませて暫時ハッピーエンドですからドラマとしては成立なのでしょう。
寛容を身に付けた老博士の人生回顧にある苦渋と達観の厳格なる映像作品
現代映画人の中で最も異才を放つイングマル・ベルイマン監督の最高傑作。地位と名声と安静を得た孤高の人生の晩年を迎えたひとりの老博士を主人公にした、ほんの数日の出来事。悪夢と追憶の内的苦渋を抱えながら、ただ流れに逆らわない人生を達観した人間の精神の在り方を厳格に描く。これを39歳のベルイマンが、その年齢で既に深く関心を抱き制作した達観さと老成に驚嘆する。凡人には計り知れない密度の濃い経歴を蓄積した上でなければ表現できない映像作品。
エピソードの中で最も興味深いのは、主人公が息子の妻の運転で移動する道中で拾った3人の若者たちとの関わりあい方である。女性一人の男性二人の三角関係を窺わせる自由恋愛の価値観にある若い世代と衝突する訳ではない。老博士は学問への執着からか、俗世間から離れ孤独な生活を送る身であっても、突然の若者との会話で戸惑うことなく逆に善き聞き手になっている。老博士の若者を見る姿勢は優しく、また若者たちも自由奔放ながら礼節を持ち敬仰している。この出会った日の夜の別れの場面が素晴らしい。
博士は、自分を取り巻く環境に操られることなく堅固として自己の良心を貫き通してきたのだろう。その内面は悩み苦しむことがあっても、肉体的にはどうこうされるものではなかった。自分が置かれた、また作り上げたきた立場を噛みしめながら、夢の中では少年時代を懐かしく回顧し、亡き父や若き母の姿を表情健やかに眺めることが出来る。人生を全うする者の率直な感動がある。表面上冷たく静かなベルイマンの演出は少しも冷徹ではなく、人生を見通した微笑みに満ちている。
地位も名誉も得て、あらゆる俗世間からひとり孤高を持する老博士の豊かなるゆとりの精神。存在の哲学的理解を超えて、知力の全てに身を任せても、人との触れ合いに人間的な寛容さを備えた人格の内的世界を見事に描く。
1976年 5月9日 高田馬場パール坐
45年前の駄文を記憶を頼りに再録してみましたが、10代の感動をそのままにしたい気持ちでいます。いつか観直したら、己の人生の粗末さに打ちひしがれるようで怖いです。
50代にちょうどいい。
男性優位の社会慣習や男女問わない日常的な喫煙の一般化など、分かりやすい時代錯誤感を捨象してみれば、今見てもとっても新鮮な老人ファンタジー。シュールだけどリアル。夢と現実の交錯という映画的技法が素直に楽しめた。
個人的にはベテランの住み込み女中さん(あー、これも今はPC的にアウトな言い方かな)のチャーミングなセリフと仕草が大好きだった。若いときに見ても、誰にも感情移入できなかったかもしれないな。
今、生誕100周年でありがとう、ベルイマン。
夢からのメッセージ
初ベルイマンでしたが、最高!の一言です。本作はベルイマンの代表作の一つと言われていますが、噂に違わぬ大傑作でした。
本作はロードムービーですが、夢に大きく比重が置かれています。旅の中でいろいろと事件や変化が起きますが、どちらかというと夢の中で物語が進んでいった印象を受けます。
主人公・イーサクは78歳の医学博士。大学の名誉教授が授与されるほど職業人としては成功していますが、どうも家族には恵まれていません。
やがて、イーサクは他者との関係性を構築することから逃れ続けた人生を送ってきたことがわかります。情緒的なぶつかり合いを避け、肝心なところで知的な上から目線の綺麗事で済ませてきたため、大事なものを手に入れることができなかった。
重要なことから向かい合わずに逃げると、自分を生きることができず(byホドロフスキー師匠)、虚無に苛まれます。イーサクも例外ではありません。しかも、それが息子にも伝達しており、もはや呪いとなっております。
朝、イーサクは長年連れ添ったおばあちゃんメイドと軽くケンカしたあと、息子の嫁マリアン(美女!)と、ヒッチハイクで拾った若者3人と大学に向けて1日だけのドライブの旅をします。その旅自体よりも、この1日で見る夢が彼を変えていったように感じました。
オープニングに見る夢①にて、イーサクは棺桶に入った自分の死体と対面し、死体に腕を掴まれます。
ここでイーサクが生きるしかばねであることがわかります。しかし、棺桶のイーサクは必死の形相で生けるイーサクにしがみつきます。まるで「本当にそのまま死ぬのか?後悔はないのか?まだ間に合うぞ!」と訴えているように感じました。
ドライブに出てからすぐ見る夢②では、かつての許婚が弟に奪われた過去がわかります(夢②は、夢というより追憶の色が濃い)。
イーサクは偽りの人生を後悔しはじめます。
中盤のハイライトとも言える夢③は、不条理な医学試験を受けさせられるも当然合格できず、孤独の刑を宣告させられます。
夢としてはキャッチーすぎますが、彼は孤独の人生を生きました。しかし、自分で選んでいるようで、実は逃げている。だから、刑を受けているのです。過去のイーサクからの復讐。
マリアンから息子の真実を告げられ、イーサクは苦悶する。妻に対して取った態度に苦悶する。過去と現実からツケを払わされるイーサクですが、かつてのイーサクではないことがここからわかります。
昔のイーサクでしたら、苦悩しませんでした。上から目線で逃げていた。しかし、この日のイーサクは、自分の過ちに真っ向から立ち向かったのです。
これができたのは、夢の力によるものだと感じています。
夢はこの世を生きていない、自分の半身からのメッセージです。イーサクはそのメッセージを無視せず、受けいれたのだと思いました。
これらの夢を見なければ、彼は虚無のまま1日を過ごしたでしょう。これまでの日々のように。
名誉博士号を授与された夜、息子夫婦、おばあちゃんメイドと言葉を交わします。それは、おそらくかつての彼では語れなかった言葉、取れなかった態度が表れていたと感じました。特に、おばあちゃんメイドとの会話は、冒頭の2人の会話と対比になっている印象を受けました。
イーサクの変化はとても些細です。しかし、この日のスモールチェンジは彼の心の奥底で起きたものです。これから彼は生まれ変わります。
本作のラストを飾る、この日の最後の夢は、彼が抑圧して見ることができなかった光景です。このラストシーンを思い出すたびに、胸がいっぱいになります。
彼はホドロフスキー師匠みたいに赦しに至ることはできないかもしれない。しかし、そこに向かう旅に出ることはできる、そんな力強いメッセージが込められた夢でした。
イーサク・ボルイ博士御年78歳。彼の人生はこれからです!
人生の終わりにしみじみ
小津安二郎監督と通じる語り口
功なり名も遂げた老人
しかし晩年は寂しいものだ
振り返ってみればこうすれば良かったと反省することもある
それだけの話だ
それを上手い構成でロードムービーとして構成してみせる手腕は見事
淡々としみじみながら全く飽きさせない
正直、見ている途中は退屈だった。 爺さんの人生回想されてもなあ(笑...
正直、見ている途中は退屈だった。
爺さんの人生回想されてもなあ(笑)
それにこれは私の苦手な、「何が言いたいのか分かるかい」系の上から目線映画とも感じた。
最後は幸福感に包まれようやく良かったと思えた。後、若者の無邪気な爽やかさも良かった。
鑑賞後ネットの様々な解説を読んで、すごい作品だったんだと気付かされました。皆さん、深いところまで味わっているんですね。ほんと私はまだまだです。
人生晩年にもう一度見よう。呆けてますます本作の良さが分からなくなってるような気がする(笑)
ベルイマンらしい分り辛さ
総合55点 ( ストーリー:60点|キャスト:65点|演出:60点|ビジュアル:60点|音楽:65点 )
社会的に成功している医者が急に夢を見る。何故今更彼はこんな夢を見るのか。
彼の体験するようなことはこの日ではなくても普通に起きていたのだろうが、彼自身がそれをあえて気にもせずに無視していただけではないかと思う。年老いて死を意識して初めて知った自分の不安と孤独という現状が、他人に無関心な彼の観る景色と人に関する意識を変え彼自身も変える。自分の意識の変化が観るものを変えているのである。
でもベルイマン監督らしい抽象的な描き方で相変わらず分り辛い。夢と現実が交じり合ってはっきりしない。感覚で感じとるのだろうが、彼の演出にはどうも素直にのめりこめない部分がある。たった半日の小さなことの積み重ねでの変化というのにもそれほど惹きつけられなかった。
しみじみとした希望
とんだガンコ爺さんが主人公ですが、乾いたタッチでユーモアもあり面白かったです。
人生の成功者である老教授が、その証である授賞式に向かう途中、自分の過去と改めて向き合っていきます。
イングマール・ベルイマン監督、1957年の作品です。
大昔にTVで観たことがあるらしく、冒頭のシーンと終盤の絵画のような美しい光景にはハッキリ記憶がありました。
ストーリーはサッパリ忘れてましたが、それだけのインパクトのある映像です。
心の底に沈んでいた過去に触れながらの、老教授の小旅行の行く先は…。
誰だって新しい今日を生きているのです。
歳を重ねて改めて出会い、しみじみとした希望を受け取りました。
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