劇場公開日 1966年7月23日

「映画の見方」ネバダ・スミス ブロディー署長さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5映画の見方

2021年4月11日
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幸せ

昨今の輩の映画の見方は、伏線の回収がどうしたとか、監督の主張がちゃんと表現されていたかどうかとか、起承転結の見事さとか様々言われるが、それは若い世代が古い映画を見る時、後世に残るような名作だけを見て、知ったふりをして、そういう名作の凄さを追い求める悪い癖だ。「ネバダスミス」映画全盛期の後世に残らない作品。そこに内容がどうしたとかを求めるのは素人の野暮というものだ。映画全盛期、映画とはこういうものだった。銀幕のスター、スティーヴマックィーンがスクリーンに映る姿のカッコ良さを、ひたすら男も女も憧れて見続ける2時間。男のかっよこさの究極。泥に濡れた体、涼しげな目つき、贅肉のない体、自分を優先しない無私の心、権力に立ち向かう姿勢、顔が小さくて腹筋が割れていて敏捷に動く。ただただ、この世に無い理想の男性像を見て、そうはなれない自分の日常を忘れる。それが映画というものだった。
インディアンの娘、年上の娼婦、田んぼの田舎の娘、15分おきにマックィーンに惚れる美しい女性が現れ、マックィーンはその娘の気持ちを知ってか知らずか別れていく。完全に男が夢想する憧れだけの世界。
早死にしたマックィーンはそういう夢だけを見せて世界中の人々の記憶に残った。ある時はカウボーイ、ある時は脱獄を繰り返す男、ある時は冷血な刑事、ある時はハングリーなギャンブラー、ある時は華麗な犯罪者、ある時は孤独なレーサー。いつも苦虫を噛み潰したような何を考えているか分からない顔で、身軽に動き、クールに決めて去っていった。
ブラピやトムクルーズだって、その美しさを見るだけの映画はさすがにないよね。
それがマックィーンが真のスターである証。深い意味は無い、ただ男として美しかっただけ。
マックィーンの映画は、たまにお酒を飲みながら、その動く姿に見とれる。そういう風に鑑賞すべき大スターです。
だから今どきの、映画の脚本や演出などを、マックィーン作品に求めて、イマイチとか言っちゃう人は、あと1500本映画を見てから言おうね、と思いました。

ブロディー署長