友だちのうちはどこ?のレビュー・感想・評価
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大人と子供、ドアの演出。
◯作品全体
物語は非常にシンプルだ。学校にノートを持ってこなければ退学だと友だちが怒られた矢先に、その友だちのノートを持って帰ってきてしまう。ノートを友だちへ届けなければ…物語は終始、ただそれだけだ。
しかし返しに行く過程の中で、8歳の主人公・アハマッドとまわりの大人とのディスコミュニケーションによって、いろいろな感情を抱かせてくれる作品だった。
アハマッドが苦悩するとき、必ず大人の存在がある。知らない大人だけでなく、学校の先生、親や祖父。ノートを返さなければならないことそれ自体ではなく、大人たちにアハマッドの心情が伝わっていないことに苦悩する。その苦悩の表現が多彩だった。
一つは大人へ伝えること自体の苦悩。アハマッドがノートを返しに行きたいことを母に話すシーンは特にその苦悩が表現されていて、忙しそうにする母へ視線を向けつつ、弟をあやすアハマッドの目線や仕草が、子供ながらの「真に迫る」表現をしていて素晴らしかった。一方で母は真に受けず、遊びに行きたい言い訳だと思っている。そのディスコミュニケーションがもどかしくもあり、二人にとっての日常の風景として説得力あるシーンでもあった。他の場面でもどの人に話しかけようか、なにを伝えようかと逡巡するような仕草や話し方がアハマッドにはあり、アハマッドの少し内気だけれど真っ直ぐな心を感じられた。単に「話を聞いてもらえないシーン」ではなく、アハマッドたちの生活や心の内側を描いているところに、この作品の表現の豊かさを感じた。
二つ目は大人に伝わらないことの苦悩。アハマッドが伝えたいことをうまく言語化できていないこともそうだし、大人もアハマッドの話していることを話半分で聞いているもどかしさがある。祖父が話す一方的な教育論がそのことを強調していて、子供が正しいことを言っていようがいまいが大人はあまり関係なく、大人自身の立ち振る舞いばかり気にしている。もしかしたら実際、普段は子供の話していることは他愛のないことばかりかもしれないが、作中では子供であるアハマッドの方に道理があり、それを聞く大人は不義理な存在だった。こうした関係性が、真っ直ぐに目的へ進むアハマッドの物語に起伏を生んでいた。
アハマッドの伝わらない苦悩を描くのに強く印象に残った演出として、動物の鳴き声があった。アハマッドが向かうところや大人と話す場面では、いろいろなところにいろいろな動物がいて鳴き声をあげている。これが大人に気持ちが伝わらないアハマッドの言葉のように、聞き流されてしまうものとして重なった。アハマッドも声が通らず(または他の会話に無視されて)、鳴き声のように何度も同じ言葉を口にする場面が多々ある。大人から同じ「鳴き声」として扱われている状況を、環境音から巧く演出しているように感じた。
大人と子供のディスコミュニケーションは特別なことではなくて、どこの世界にもあることなのだと思う。そのディスコミュニケーションを子供の視点で描いていることがまず面白かったし、その苦悩が日常の中にある演出も見事だった。
映像演出の中でカギになっていたのは扉の演出だった。
扉は要所の場面で登場する。ファーストカットの教室や、青い扉を探す場面、宿題をするアハマッドの近くで勢いよく扉が開く終盤。扉は風の通りを防ぐもの・通すものとして存在するが、本作では物語としての、そして人としての「風通しの良さ」を表現するものでもあった。
教室の壊れた扉は子供が往来するたびに開いたままになるが、一方で教師は何度も閉じようとする、という場面があった。この冒頭の扉は物語と具体的に関連付けるのではなく、子供の風通しの良さと、大人の風通しの悪さを概要的に表現していた。アハマッドが先生の言った言葉を飲み込み、いろんな人に声をかける風通しの良さがある一方で、大人のアハマッドの感情に対する理解のなさを風通しの悪さとして重ねていたのだと思う。
作中でも大人たちが鉄の扉に買い替える話をしている。鉄の扉は隙間風を通さず、どんどんと木製のものから置き換わっているという。歳を重ね、錆付いたように自分の考えに固執する祖父のように、大人たちの考えが凝り固まっていることと重なって見えた。一方で道案内をしてくれたお爺さんは鉄の扉に置き換わることを寂しそうに話していて、すべての大人がそうではないことも語っていた。
アハマッドが探す友だちやその親戚の扉は閉まっている。外出していたり、見当違いの家であったりする。物語としてなかなか上手くはいかない「風通しの悪さ」の表現だ。終盤のアハマッドの家の扉が勢いよく開くのは物語の解決を示したものだろう。二人分の宿題を解けば良いと閃いたアハマッドの心象風景と重ねっているように感じた。
物語がシンプルな分、映像の中で語られる大人と子供の関係性やディスコミュニケーションは非常に饒舌。扉というモチーフの扱い方も見事で、見ごたえある作品だった。
◯カメラワークとか
・手前と奥を意識したレイアウトが多い。集落の間にある道は遮るものがほとんどなくて拓けてるのに、集落は狭い道が多いから画面の情報量に緩急がある。手前と奥の空間のまわりにある建物がシンプルなのも良い。こちらも白い壁や木の色味が縦に複雑な集落のメリハリになってた。
キアロスタミ監督が小津安二郎ファンだとか。最近『バッファロー'66』を見たけど、あっちも小津調を意識したとか書いてあった。こっちのほうが小津らしさがある気がする。屋内を映すときのカメラの低さ、奥行きの使い方、あとは親と子の独特な雰囲気。アハマッドがセリフを用いず表情で語るようなカットがあるのも小津作品の笠智衆っぽさがあった。
◯その他
・この作品って幼い子が遠くまで一人旅をするっていうところが『はじめてのおつかい』っぽい。目的は一つなんだけど回り道してしまうところとか、大人に助けを求めるところとか。でも明らかに違うところがあって、誰が主役の心情を語るかという部分。『はじめてのおつかい』はナレーションがそれを語るんだけど、本作は主人公の表情がすべてを語る。だからアハマッドの今回の旅が切り取られた特別なものではなくて、アハマッドという一人の人間があるときふと思い出すような日常の一ページに見えてくる。映画だから創作物であることは間違いないんだけど、日常の一ページというスタンスによって、見ている自分のノスタルジックを刺激する作品になっていた。
はじめてのおつかいinイラン
子役がすごい
困った顔、不安な顔が、演技とは思えない
先生も街の人もお母さんもお爺さんも、みんなどこか子供に冷たい。イランの国柄なのかそういう演出なのかははっきりしないが、そんな中で子供の健気さが際立つ
友達にノートを返さないと大学になっちゃう
そういう純粋な考えや感情により、ただノートを返すだけの話を90分飽きずに見れてしまう
街を行ったり来たり、無視されても頑張って走って追いかけたり、優しそうなお爺さんがのろまで当てにならなかったり
だけどその中で、男の子は怒ることも投げ出すこともなく頑張る
最終宿題を書き写すという策略も健気
やり切った満足気な感じもいい
子供を生き生きと撮った映画にハズレなし!
テーマが素敵
学校で友達のノートを持って帰ってしまってから次の日の学校が始まるまでという期間だけの映画って言うところが面白い。
主人公の設定は小学生2年生の8歳らしい。
母親含めて大人が全然子供の話を聞いていないことがやるせない。。たまにムカついた。
昔のイランはこんなに子供は蔑ろにされていたのか?
一昔前の日本もこんな感じだったのだろうか。
大人からしたら大したことないことでも、子供からしたら一大事なことってよくある。
自分が親になったらちゃんと子供に寄り添って話を聞いてあげようと思った。
唯一話を聞いて着いてきてくれたおじいちゃん良い人だった。でも結局さっき行った違う人の家に着く訳だけど、主人公がおじいちゃん傷つかないように、ノートを隠して届けたテイでいたの可愛くて素敵だった。
結局は友達の分も宿題をやって一件落着。
テーマも子供も可愛いし、ほのぼのしてるけど割と見応えがあった良い映画。
イラン制作映画は初体験
記録用
1987年公開ということでか画質が悪い。わざとじゃないよね。
10歳の男の子が大人からぞんざいに扱われて、それが当たり前のような生活で腹だたしい。
山道をどこまでも走りまわって、足腰鍛えられるな。
大人は分かってくれない・・
小学生の友情物語、純真無垢な一途さが胸を打つが反面、教師や家族の無知や身勝手さが鼻についてたまらない。友達にノートを届けるという寓話のような単純ストーリー、子供は宝、大人たちはもっと真摯かつ謙虚に子供たちに向き合うべきと言うメーッセージ映画でしょうね。
ノートに書かなかったからと言って宿題をサボった訳では無い、退学まで持ち出して脅すのでは教師失格、先生の言うことは絶対であり口答えさえ許されない、これはもう教育ではなく調教だ。
母親も育児や家事で忙しいのはわかるが息子が必死で話しているのに耳を貸さない。心無い大人たちに胸が痛みます。
イラン映画だから本当の庶民の暮らし方、実態が分からないが子供の人権を軽視しすぎ、もっともタリバンなんて未だに女子の教育すら認めていないのだから何をか言わんやですね。
大人が優しくないんだ。コレが。全く。
イラン人監督アッバス・キアロスタミによる1987年の作品。トラベラーと同じく少年を主役としながら、トラベラーとは打って変わって、コチラは、とっても良い子の物語り。
これも、明確に傑作と言えます。凄く良いですもん。
アハマッドの放課後数時間の出来事を、83分の短尺に収めますが、ポイントとなる「教師の叱責」「母親との折衝」「祖父からの命令」「老人との徘徊」、更には「アハマッド自身による家探し」は、リアルタイムな時間感覚でジックリと描写します。この自然体な場面の造り込みが効果的です。物語りに引き摺り込まれてしまいますもん。
それと。
画が抜群に良いです。絵画的。時に、遠近の対比を一つの画面に捉え。時に、明暗を対比させながら人物を移動させ。目当てのムハマッドを見つけたかと見せ掛けながら、少年の顔を隠し続ける演出も取り混ぜ。
日仏の影響を強く感じる、映画の手法。悪知恵とも言えなくは無い少年の機転に、止めが親切ながら役立たずだった老人がくれた花だと言う。
気の利いた、非英語圏の短編小説の様な映画は、キアロスタミが後にパルムドールを取る事を予感させるに十分な、密度のある小品でした。
邦画界の若手には、爪の垢を煎じて飲め、って言いたくなりますが。偉そうに言うと。
そんくらい。
良かった。とっても。
似てると思ったら兄弟だったのか!赤と緑で区別したよ・・・
小学校の小さな教室。三人掛けの机に2年生のアハマッドとネマツァデが並んで座っていた。ネマツァデは宿題をよく忘れる上に、今回はノートではなく紙切れに宿題を書いてきたので先生にこっぴどく叱られる。「3回目だな!次に忘れてきたり、ノートに書いて来なかったら退学だ!」と脅され、隣にいたアハマッドまでビビッてしまった。そんな恐怖の宿題だったのに、彼はネマツァデのノートまで間違えて持って帰ってしまった。何とかしてノートを彼に届けなければ退学になってしまう!
しかし、のんびりスローライフのイランの片田舎。家の手伝い、畑の仕事、おつかいまでしなければならないけど、宿題が先。焦るアハマッドはとにかく友だちにノートを届けなければと先を急ごうとする。何とか手伝いを避けて家を探そうとするが、遠い地域なだけに全くわからない。地域だけはわかっているので大人たちに尋ねまわるのだが、要領を得ない。おじいさんたちにつかまり、与太話を聞かされたり、間違った情報を聞かされたり、町内はネマツァデ姓だらけだったりと散々な結果に・・・親切なおじいさんは歩くのが遅く、結局は先ほど行った間違いの家だったりするのだ。ここでおじいさんに気を遣ってノートを隠すのが絶妙!
夜遅く、まだ夕飯の時間には間に合いそうだったけど、諦めて自宅に帰ったアハマッド。要は明日学校でノートを渡せばいいのだから、彼の分も宿題してあげなよ!と、ずるいやり方だけど、祈る気持ちでいっぱいになった。だってそれしか方法はないんだもん(笑)。結末はあっさり、祈り通りだったけど、とにかく走れメロスの少年版のような展開は素人が演じてるとは思えないほどの演技力。目だけで訴える少年の純粋さはとても感動的。やっぱり泣きの演技は素人にしかできないリアルさが感じられた。
小津安二郎が好きだというキアロスタミ監督。思い出したのは戦前作品『生まれてはみたけれど』の子役中心の映画でした。
少年の頭をもしゃもしゃっとして抱きしめたくなる!!
少年が友人のノートを届けに行くと言うそれだけの映画
なのですが、そこには色々な日本では理解できないような
様々な家庭の事情や大人の事情が入っていて
考えさせられます
少年は小学2年生。まだまだ自分の気持ちがうまく
伝えられない世代
それでも、友だちがノートがないと大変なことになると
家を飛び出すさまは、観ていて心が洗われる
泥まみれの汚い大人心にはたまらない作品だ
見知らぬおじいさんと友人の所へノートを
届けに行くクライマックスはまさに
心がキュンキュン、子を持つ親はわーっと
叫びたくなりそうです
そのシーンを思い出すとまた涙が・・・
子供の気持ち
小学生のアハマッドが帰宅して気がついたら友達のノートを間違えて持ってきてしまっていた。実は、その友達は今日学校で宿題をノートに書いてこなかったことで先生から厳しく叱責されていた。『今度同じことをやったら退学だぞ」と。彼は遠い隣村まで何とか返しに行こうとするが…。
とにかく子供達の演技が真に迫りすぎています(どうやら演出に仕掛けがあるらしく完全に演技というわけではないらしいですが)。悲しみ、不安、焦り、真剣さが画面からビンビン伝わってきて苦しくなるほどです。
見ていて自分も幼い頃の気持ちを思い出しましたね。大人にとってはどうということもないことかもしれないけれど、何気ない言葉かもしれないけれども、子供にとっては一大事。
出てくる大人たちが、これまた彼の話を聞いてくれないんですよ(苦笑)。それは、電化製品や輸送機械などが殆ど普及していない中で壮年達は日々の生活に精一杯だったり、また「子供は年長者の言うことを黙って聞くのが当たり前」という伝統的な価値観が根強かったりするためで、日本でもひと昔前はこんなだったんでしょうね。
一人だけアハマッドの話を親身に聞いてくれて案内を申し出てくれた老人がいました。でも散々歩き回った挙句たどり着けませんでした。後から考えるとその老人も行き先を本当に知っていたのかいささか怪しい。元々はドア作り職人だったらしいその老人は、歩きながら「あそこのドアは昔ワシが作った」だの「今は鉄製のドアばかり売れるようになってしまった」だの問わず語りに話します。それどころではないアハマッドとの噛み合わないやりとりが笑えるのですが、どうもその老人は話し相手が欲しかったのではないかな?「若い者は皆街に出て行ってしまう。ワシは街は嫌いだ」みたいなことを言っていたし、孤独に暮らしているらしい描写もある。
伝統的な共同体の中で人々が生きる様子と、一方でそれが少しづつ崩れつつある姿。そうした社会背景も伺うことができます。
ともかく主人公と一緒にハラハラドキドキしながらの85分。粋なラストでほっこり。
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