ドクトル・ジバゴ(1965)のレビュー・感想・評価
全40件中、1~20件目を表示
さすがデヴィッド・リーン、壮大な大河ドラマ。途中休憩を挟む映画は久...
さすがデヴィッド・リーン、壮大な大河ドラマ。途中休憩を挟む映画は久しぶり。全編にわたって流れるモーリス・ジャールの「ラーラのテーマ」。バラライカの音色が印象的で、ジュリー・クリスティの青い目に引き込まれてしまう。他の俳優たちも良かった。苦悩しっぱなしのオマー・シャリフ、冷めた目つきのアレック・ギネス、嫌われクズ男のロッド・スタイガー、健気な妻のジェラルディン・チャップリンは若い頃のお父さんに似ている。にしても、ロシアに生まれなくて良かったとつくづく思うのであった…。アカデミー賞脚色賞、作曲賞、撮影賞(カラー)、美術賞(カラー)、衣裳デザイン賞(カラー)の5部門受賞。ちなみにクリスティは同年『ダーリング』で主演女優賞受賞。
時代に巻き込まれる
題名は知っていましたが、全く内容は知りませんでした。
午前10時の映画祭14のラインナップを見て、あらすじを読んで。
「不倫メロドラマ」なんだ、、
ドクトル、なんてあるから医師が動物実験でもする、怖い映画と思ってました笑
まず、長編なのでもしかしたら眠くなるんじゃ無いか?と心配していましたが、始まると同時に話に吸い込まれて眠気なんか全く起こらず。
これこそ「映画」と感じました。
話が前後したり、名前を覚えるのとかが
私はちょっと難しかったですが。
四季の移り変わり
映像の美しさ
曲の美しさ…
極寒の雪の世界も
雪が消えた後の花々も、何もかも美しかったです。
時代背景があまりにも過酷で
やっと手に入れた幸せの地での生活も
自らの行動の結果、家族と離れ離れになってしまう
それも甘んじて受け入れなければ生きていけない時代だったんですね。
まあ、物語としては
その後のラーラとの暮らしが
「やっと手に入れた幸せ」なのでしょうか。。
主人公ラーラの美しさに心奪われてしまう男たちは、きっと容姿の美しさだけでは無く、溢れ出る心の美しさにも惹かれてしまったのでしょうね。
「壮大なメロドラマ」、不倫はいけない事だけど、そうなってしまうのは人間臭さがあって仕方ないよね、みたいなレビューが多いですが…
私は天使の様な妻、トーニャを裏切るドクトルジバゴを、支持出来ないなぁ
トーニャを裏切らなければ
あのまま幸せに過ごせたのでは?
この映画はまさしく「映画」
映画館で観るべき作品だと感じました
映画館で観る事が出来てラッキーです
ぜひ映画館でいろんな世代の人に観てほしいです
音楽と美術の力
デヴィッド・リーンのインターミッション付き3時間半の大作を映画館では初鑑賞。
まず、開巻の序曲、有名なラーラのテーマをはじめ、モーリス・ジャールの音楽が、劇伴という概念を超えてドラマを高揚させる。そして、モスクワ市街のセット、舞踏会場、擬装された大雪原、氷の邸宅など、美術の素晴らしさ。ワイド画面を活かしたロケーションとともに、音楽と美術の力によって、映画館で観るべき映画として成立させている。
物語としては、ジバゴとラーラが出会うまでが意外と長い。二人が親密な関係になってから、ジバゴが妻とラーラの間で揺れる姿が優柔不断にも見えるので、そこはもう少し丁寧に時間をかけて描いてくれてもよかった。パルチザンから逃れて雪原をさまようジバゴの悲壮感は、圧巻。
オマー・シャリフ、ジュリー・クリスティはじめ、出演者のほとんどがイギリス系で、ロシア人っぽく見えないが、制作当時の状況から致し方ないのだろう。あらためて観ると、ロッド・スタイガーとトム・コートネイが、役柄のアンビバレントさもあって印象深い。
終幕前の、ジバゴがラーラを追いかけて心臓発作で倒れる有名なシーンは、彼がラーラに似た別の女性の姿に彼女を重ね合わせた(つまり、本物のラーラに出会うことはなかった)と読んだ。
凍てつく冬のロシアの雪景色で 観てて寒くなる、映画化不可能と言われ...
凍てつく冬のロシアの雪景色で 観てて寒くなる、映画化不可能と言われた原作の超大作映画。
最初の序章の音楽だけの数分間はスクリーンが真っ黒で退屈で「何か景色を見せて欲しい」と思ったのは私だけでは無いはず。(映画館では4分間半真っ黒で、何故かU-NEXTでは映像があり、2月放送のNHK-BSでは本編のハイライト画像が流れてネタバレ状態)しかしそこからの3時間は引き込まれ「映画化のゴーサインが良く出たなぁー」と思う位の内容の映像が数々出て来る。とてつもない制作費が掛かったはず。イタリアのプロデューサー カルロ・ポンティの手腕だろう。
中盤のシーンで、母親が列車に子どもを乗せて自分も飛び乗る撮影で女優の足が切断された事故を知ってるので見てて心臓が "ギュッ" となる。
リーン監督は撮影を中断せずに代役を立てて直ぐに続行し、その後負傷した女優の面倒をみてたらしい。
映像の編集も凄くてラーラとコマロフスキーのダンスシーンからテーブルで向き合うシーンへの編集はビックリする。始めから計画してたのか? でないと無理だろう。
スピルバーグが影響を受けてるらしい。
もしかすると撮影監督エマニュエル・ルベツキも?
原作のパステルナークに今作で1958年ノーベル文学賞受賞が決定したがソ連共産党にとって「侮辱的で許しがたい出来事である」としてKGBとソ連作家同盟による反対運動の末、パステルナークは受賞の為に国外に亡命まではしたくなくて受賞式を辞退した。
午前10時の映画祭 14
ロシアの激動の歴史に翻弄される個人の意志、許されぬ愛! 二度と実現しない超大作!
3時間を超える壮大な大河メロ・ドラマ超大作。
2時間のところで「休憩」があり、「午前十時の映画祭」でもちゃんと10分間の休憩があって安心して観れました。
ロシア版「風と共に去りぬ」ともいえる作品で、医師で詩人でもある主人公が、第一次世界大戦、ロシア革命という時代に翻弄されながらも、ラーラとの愛に揺れる人生を描く。
何といっても、運命の女性を演じるジュリー・クリスティーの美しさが出色。
出会った男性は次々に魅了されてしまう罪作りな女性。
対して賢明で聡明な妻を演じるジュラルディン・チャップリン(喜劇王チャーリー・チャップリンの娘)もまた別の美しさをたたえ印象に残る。
そして、「アラビアのロレンス」のオマー・シェリフ演じる主人公が、国家からすべてを奪われ、ただ詩を書くことすら許されず、迫害されるも、「詩を書く自由」に救われる展開は、とても感動的。
原作者自身の人生が強く投影されており、ソ連という国家の残酷さが何ともいたたまれない。
大きくうねる歴史の流れと、極めて個人的な愛と一個人の自由が対比して描かれていて素晴らしい。
延々と続く列車での過酷な旅、酷寒の平原、美しく咲くひまわり、ラストにかかる虹。
壮大な映像美と、家族に受け継がれていくバラライカの音楽もまた素晴らしい。
きゅーんと
名作なのは間違いない。観るたびに気づくことがある。何度も鑑賞しているとその度に
スクリーンで観るのは、何十年振りだろう。テレビ画面ではやはり物足りない。スクリーン画面で鑑賞する映画だ。私が映画ベスト5の4位にしている作品。この映画が好きで、原作を苦労して読んだ。私には映画ほどの面白さを感じなかった。もう、何年も前の事だから、今読むと違う感想を持つかもしれない。
今回、気づいたのは序曲の陳腐さと演奏の出来の悪さ。ジバコの人物造形。ただの善人で深みがない。もちろん、オマー・シャリフの演技には問題なし。コマロフスキーやストレイリニコフの人物造形がいい。この作品に出演する役者の演技は、皆素晴らしい。それと詩人なのに、劇中で1度も読み上げられないのは、おかしい。上映中、私は何度も涙が滲んだが、ラストで大きな感動を得られないのは何故だろう。原作を読んだのは何年も前で、殆ど忘れている。パステルナークは本来詩人であって、たしか小説を書いたのは始めてだったと記憶している。
ジュリー・クリスティはいちばん綺麗な時を写され、映画史に永遠に残るだろう。
奇跡の超大作
昔リバイバルで見た時は、映像と楽曲の素晴らしさに圧倒されたがストーリーは壮大な不倫メロドラマ、としか思わなかったが、もしかするとカット版だったのかも
「午前10時の映画祭」で、数十年ぶりくらいに大きな画面で見たら印象が違った。
大きくうねる時代の波のスペクタクルと、それに翻弄される人々の小さな世界が拮抗して描かれている。
暗くなった場内、スクリーンは暗いままで流れる5分を超える序曲。
「アラビアのロレンス」でもそうだが、このオープニングで映画の世界に導入される。
これだけ音楽が壮大なのに、それにガッツリ噛み合って負けないスケールの映像、CGないので大自然を撮影しセットを組んで、群衆は集める人海戦術。インターミッションが入るゆったりとしたつくりはまさに古き善き「超大作」。今見ても遜色ないどころか、今では作れない貴重なお宝みたいな作品と思う。見られてよかった。
デビッド・リーンは、「戦場にかける橋」「アラビアのロレンス」で男性的な映画を作る監督のイメージついていて(私も)その気分で見ると期待と違う方向性で肩透かし食らったようだが、もともと「逢引き」とか「旅情」とか恋愛ものをよく撮っていた監督だった。「アラビアのロレンス」みたいなセリフがある女性が一人もでてこない映画のほうが特殊だった模様。
ラーラも映画のスケールに負けない。どこから見ても美しいし、一途でいつでも一人の男性のみを愛しており、媚びない。
力ある男たちは彼女の心には他の男性しかいないのを知ったうえで好意を寄せずにはいられない。
強制収容所で行方不明になり、以後消息不明というラーラ、きっと生き延びたんだと思う。
収容所の力ある人に好意を寄せられて、消息不明ということにしてそっと逃されたんだと思います。
時代の荒波では人間の営みはちっぽけすぎて歴史的には歯牙にもかけられないものだろうが、そこでちっぽけな人間たちは懸命に生きている、その対比も感動的。
私が見た「午前10時の映画祭」の映画館は、映像が4Kだけでなく、音も大変よく、暗いままのスクリーンでの序曲、から流してくれるありがたさで、良い環境で堪能させてもらいました。
この映画は是非是非映画館のスクリーンで、そして音も良いところで観るべきです。
でないと真価がわからないと思います。
ジュリー・クリスティーは、ロレンス=ピーター・オトゥールに似ている。
細面で金髪に青い目、小鼻がちょっと張っていて、ぽってりした唇が少し肉感的な感じがする。目の部分だけ光を当てるライティングでみたら、どちらかわからないくらいだと思いました。
超大作は昼メロ
体制からの個人の自由、人間性の回復ということがテーマだったのだろうが、東西の争いに利用された面もあったのかもしれない。
知人にロシアの文化、文明を一切認めないという人がいる。ロシアだけではなく中国、北朝鮮の「悪の枢軸国」は政治体制が悪らつでありそのような国で育った文化、文明はとても評価はできず駆逐すべきであるという理屈である。現在のものか過去のものかは関係ないとのこと。えーっトルストイは?チャイコフスキーは?と尋ねたところ、あの人たちはどちらかというとフランスやドイツで創作活動していたんじゃないのと返されてしまった。
この映画は、ノーベル文学賞を受賞(辞退)したボリス・パステルナークの原作をもとに映画化された。原作は映画に先立つ10年前に完成しているがロシア国内では刊行されなかった。発禁されたというよりは当局の介入を恐れて引き受ける出版社がなかったようだ。そこで最初はイタリアで発刊された。映画の底本もこのイタリア版である。パステルナークのノーベル賞授賞は1958年でありこれは彼の詩人としての功績を評価したもの。「ドクトル・ジバゴ」はノーベル賞受賞者の唯一に近い長編小説としてあとから評判になった経緯がある。「ドクトル・ジバゴ」がノーベル賞を受賞したわけではない。直木賞じゃあるまいし。
映画は、主人公ユーリ・ジバゴの異母兄(アレック・ギネスが演じる)が姪(ユーリの子)を探すところから始まって、終わる。その間、3時間の大長編にユーリとラーラの恋とそれぞれの家族の物語が濃厚に詰め込まれる。ユーリとラーラの二人の幸福は真冬のウラル地区の僻村ベリキノにある廃屋で絶頂に達するのだが、実は二人の接点はそれ以前には従軍時代の医師と看護師としての1年間しかない。ユーリにしてもラーラにしてもそれぞれの配偶者であったり愛人であったりする人々との時間のほうがより長いのである。でも短くも美しく燃え、というところか濃密な時間が突然到来するというところはメロドラマの鉄則であり、そういう意味ではこの作品はロシア革命時代(というよりは革命後の混乱期)を背景とした実にスケールの大きいメロドラマてあると言い切ってしまって差し支えないと思う。
一方、時代も場所もそうなのだが、政治体制やイデオロギーが個人を飲み込もうとするとき芸術にしても恋愛にしても、それは人間性ということなのたろうけど、守り抜こうとする人達の姿を描いた作品であると読み込むことももちろんできる。
ただ、映画についていえば、多かれ少なかれ、当時、東側にいた人々へのメッセージであったのだったということはいえると思う。そちら側にも自由を希求する芸術家がいますよ、その作品を映画化したらこうなりましたよ。というところか。だからある意味、この映画は東側に忖度したというよりは西側に忖度した政治的な意味のある作品だったのかもしれないね。
関係ないけど冒頭の知人は、ノーベル文学賞について、「韓国の聞いたことのない女性作家が受賞して村上春樹がとれないのは選考に不正があるからでは」って言ってました。頭腐ってるよね。
ロシア革命期のラブストーリー
第二次世界大戦後、ソ連の将軍・イエブグラフ・ジバゴは腹違いの弟の娘を探していた。戦災孤児の中にその娘がいると知らされ、モンゴルとの国境近くのダムの事務所でターニャと名乗る少女に出会った。ターニャは父も母も知らず、イエブグラフは彼女に、ユーリ・ジバゴの生涯を語り始めた。
19世紀末のロシアで、両親を亡くしたユーリー・ジバゴは、親戚の家に引き取られ、医学生かつ詩人となり、育ての親の娘であるトーニャと結婚した。そのパーティで、近所の仕立屋の娘ラーラは以前○姦され処女を奪われたコマロフスキーに対し発砲事件を起こしたが警察への通報は止められた。1914年、第1次世界大戦に医師として従軍したジバゴは、戦場で看護師として働くラーラと再会した。2人とも既婚者だが互いに惹かれ合い・・・さて、イエブグラフはターニャに実父母の事をどう語ったのか、という話。
午前十時の映画祭14にて鑑賞。
ロシアの話が英語なのはアメリカ映画だからわかるが、邦題がなぜドクターじゃ無くてドクトル?
ジバゴも妻が居て、ラーラも夫が居たが、惹かれあったのはあのロシア革命時の混乱から仕方ない様な気がした。
バラライカが重要な意味を持つ作品で、ラストに繋がるストーリーは素晴らしかった。
トーニャも美しかったが、特にラーラ役のジュリー・クリスティは美しくて可愛かった。
挿入曲も印象に残った。
意義と違和感
ロシア革命によって翻弄される男女の大河ストーリー。文学的大作としてはとても面白く、映像も壮大でテーマを表現するに十分である。個と集団、社会正義・美しき理念と暴力の関係など、時代や文化を超えた普遍的主題である。/見ていると、ラーラの過剰とも見える人を惹きつける力をどう受け止めていいか困惑するのだが、それによって彼女は性暴力を受けることにもなり、生きながらえる援助を得ることにもなり、単なるファム・ファタルというのとも異なる存在である。/ロシアやウクライナの歴史の複雑さを想像させるという点では、今見ることに意義があるのかもしれない。/前奏がありインターミッションもある映画は背筋が伸びますな。
動乱の狂気と禁断の慕情が、雪氷をも溶かしてゆく
時代と集団に「個人」はどう存在意義を見出すのか
ソ連時代を代表する詩人の1人であるボリス・パステルナークの代表作である『ドクトル・ジバゴ』(ドクトル・シヴァゴとも表記する場合がある)を映画化した作品。大河小説の原作は恥ずかしながら、未読のまま。今も書棚に静かに埋もれている。そういうわけで、観たというのも理由だ。御託はこの辺で、感想を述べると、3時間もの大作だったが、時間を感じさせないと言ったら嘘だが、革命の怒涛の波と主人公たちの揺れ動く様は引き込ませる。革命は集団の為政者に対する意思表示であった。より良い世界へ突き進むため革命はけたたましい煙を吐きながら猪突猛進する汽車のようにあらゆる者たちを巻き込んでいく。個人的な心情は革命には似合わない。個人は革命の世界に座席を持たない。愛も同様に。
パステルナークはこうした取り残される個人が革命の時でさえも生きていることを切実に書いて示したのかもしれないと思える。映画における広大無辺なロシアの大地とドラマチックな演出は今の映画と比べると古さを感じさせるが、「古き良き映画」の世界へと誘ってくれるような感じがした。
亡命作家であるナボコフによって原作はこき下ろされたが、映画で観た壮大さは存在しないのだろうか。
全40件中、1~20件目を表示