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こわいこわいこわいこわい。
こんな恐ろしい話だったのか。
『ドイツ零年』って。
想像以上にぎょっとするような
テーマと展開、そして結末に衝撃を受けた。
1948年に、こんなのを撮ってるのか……。
やっぱりロッセリーニはえげつないなあ。
たとえば、同じネオレアリズモであっても、ヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』や『靴みがき』は情緒に訴える部分が大きいし(ふつうに泣かせる映画)、人間的な優しさや慈しみといった感情も多分にうかがえる。
しかし『ドイツ零年』にはそれがない。
ひたすら殺伐としている。
とにかく救いがない。
子供が報われない。
何も容赦がない。
不変の運命。
悪の横行。
絶望。
死。
冒頭の少年の様子がいたいけで、純朴で、くもりがないからこそ、中盤に専ら外的要因で彼がどこまでも追いつめられ、あらゆる悪い影響を受け、やがて不幸な結末へと転がり落ちていく過程に、ただ震撼させられる。
これは本当にこわい映画だ。
あの戦後すぐの時期に、
こんなにも生々しい悲劇を、
よくも撮れたもんだ。
何の予備知識もなしで観られて、よかった。
― ― ― ―
イメージフォーラムで『ドイツ零年』と『新ドイツ零年』を同時上映するという好企画。こういう気の利いたことをされると、自然と足を運ばざるを得ない。
ヴィスコンティに関しては好きでたいがい観ている一方で、ロッセリーニについてはなんとなく「社会派」的なイメージがあって、勝手に敬遠していたところがあった。
だが23年に『神の道化師、フランチェスコ』のリヴァイヴァル上映があって、いざ観てみたら結構面白かったので、今度別作品の上映機会があったらぜひ参加したいと思っていたのだった。
しょうじき、主人公が少年だということも知らなかったし、こんな「地獄めぐり」みたいなひどい話だとも思っていなかったので、ガチでびっくりした。
かくも世の中は残酷なものなのか。
こうまで物事はうまくいかないものなのか。
ナチスのせいでドイツ国民は戦争へとひた走り、戦いに敗れ、ベルリンは壊滅し、人々は瓦礫の山の中で生活している(そのなかで市電や地下鉄など最低限のライフラインは復活している様子がうかがわれる)。
ナチス党員だった長男は、逮捕されて強制労働所に送られることを恐れて、部屋に引きこもっている。父親はナチスには反対の立場だったらしいが、病が重く出歩くこともできない寝たきりの状態。当然働くことなどできない。
若い女たちにも仕事などあるはずもなく、長女はキャバレーで女給をしているが、周囲からは街娼の疑いをかけられている。
そんななか、エドモンド少年は、みずから街に出向くしかない。
そうしないと生きていけないからだ。
外でエドモンドを待ち受けるのは、子供をだまして金を払わず、物々交換をもちかける商売人に、ナチス思想に染まった「元担任教師」。
元担任は、再会した少年を言葉巧みに自宅へと引き入れ(どうやらさらに上階に住んでいる老士官に子供を融通している気配もある)、気持ちの悪い手つきで少年の顔を撫でまわしながら、闇商売の「使いっぱしり」として悪の道に引きずり込み、さらには強者必勝と弱者必衰の論理を少年の耳に吹き込む。
元担任は、エドモンド少年をストリートチルドレンに引き合わせる。リーダーの少年は寸借詐欺や持ち逃げを繰り返すろくでなしの犯罪者で、エドモンド少年が得たお金もああだこうだと理由をつけて巻き上げてしまう。コンビを組んでいる幼い少女のほうは、どうやら多くの男性相手に春を売っている気配だ(この日結局外泊したエドモンドも無理やりこの少女に食べられてしまった様子)。
仲間になるはずの同年代の子供たちが完全に搾取する側の人間だったり、頼りになるはずの元担任の先生が小児性愛者の手引きをしているうえに、ナチス思想を子供に植えつけようとしていたり、最大の味方であるはずの父親が高圧的なうえに「言われた通りにやったら大変なことに」なったりと、本当にやるせない話が続く。
「それなりの善人」や「ちょっとした小悪党」といった存在も隣人には混じっていて、キャラクターにリアルなヴァリエーションというかグラデーションがつけられている分、その全体を覆いつくす「ナチスの残影」の恐ろしさが色濃く浮かび上がる。
そう、この物語のこわいところは、何も「少年」が食い物にされるさまを無慈悲に描いているという点だけではない。
1940年代後半という敗戦直後の時期に、「直前までナチス・ドイツを信奉していた人間」や「ナチス・ドイツの余韻」もひっくるめて、焼け跡に生きるドイツ国民のリアルをまざまざとフィルムに焼き付けている事実、それ自体がこわいのだ。
日本の焼け跡映画や闇市を舞台にした映画の場合を考えてみればいい。
軍部の言いなりに悪と殺戮の限りを尽くした人間が、突然市井の一般人に戻って、銃後で苦しめられた女子供と「一緒に」生きる様を描く映画というのは、そう多くないと思う。
日本の場合は、どうしても「ピカドンでやられた」「大空襲でやられた」という被害者感情が先に立って、悲惨な敗戦下の生活ぶりが強調される傾向が強いのではないか。
しかしロッセリーニは、自らも戦時中はファシズム国家に所属し、戦意高揚映画などにも手を染めていたにもかかわらず、ローマ解放直後のイタリアで『無防備都市』(45)と『戦火のかなた』(46)を撮り、さらには復興いまだ遠い瓦礫のベルリンに乗り込んで、今も市井に息をひそめるナチスの残党とその子女を「いっしょくたに」フィルムに収めた。
すごい胆力であり、すごい行動力である、と言わざるを得ない。
ここで描かれるベルリンは、
「戦中」と「戦後」で、
必ずしも、切り替わっていないのだ。
市民たちは、たしかに惨めな敗残者として苦しい生活を強いられているが、ナチス・ドイツを信奉した(あるいはナチス・ドイツの暴走を許した)「共犯者」としての属性を喪ったわけではない。ここでのロッセリーニは、それも「ひっくるめて」リアルな彼らの生活と荒廃と犯罪と悲劇を、声高に断罪することなく、ただ描こうとする。
だから、この映画はとてもこわい。
終盤、エドモンド少年は、何かしらの魂の救済を求めて、街で出会った連中を頼りに順繰りに尋ね歩いていく。だが、彼に悪を教えようとした輩は、何一つエドモンドに与えてくれないどころか、むしろ、踏み倒し、八つ裂きにして、追い返す。
そのあと延々とつづく少年の彷徨のなんと恐ろしいことか。
エドモンドは黙って歩く。歩く。歩きつづける。
うつむいて。あてもなく。
すがるがごとく求めたサッカーごっこ。
でも子供たちはエドモンドを仲間に加えない。
また歩く。歩く。歩きつづける。
教会から聴こえてくる「オンブラマイフ」。
でもその音楽もまたエドモンドを癒さない。
また歩く。歩く。歩きつづける。
仲間にもなれず。神の恩寵も受けられず。
エドモンドの彷徨は、やがて終焉を迎える。
無情で、刹那的で、ザッハリヒで、ある意味、道徳的ですらある救いのないエンディングは、激しく観客の心をゆさぶるだろう。
しでかしたことの重さを考えれば、これ以外の終わり方はないのかもしれない。
でも、こんな恐ろしい終わり方をする「名画」が、いったいどれくらいあるものだろうか?(B級映画の傑作になら結構あると思うんだけど)
その意味で、やはり僕にとっては衝撃的な映画だった。
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●映像は今観てもそう古びていない、ドキュメンタリータッチの強度があるのだが、監督の弟レンツォ・ロッセリーニの音楽だけが妙にオペラ調で古くさくて、決めどころでガーンとなったり、急に盛り上がったりするのが、逆に映画の「こわさ」を増幅させていたような。
音楽の付け方が、ちょっとユニバーサルの「お屋敷ホラー」っぽいんだよね。
●この時代に、女子・男子を問わない「子供の性的搾取」について結構わかりやすくほのめかされている(明言はされていない)のも、当時としては斬新だったのではないか?
50年代が今より健全な時代だったはずもなく、むしろ現代よりもよほど「教会・学校・兵隊」周辺ではろくでもないことになっていたのだろうから。
●この映画って、かなり「サスペンス映画」寄りだよね。
あるいは「サイコ・スリラー」に近い代物かもしれない。
いわゆる「アンファン・テリブル」テーマではあるのだが、より正確にいうと、子供に●●させるための心理的誘導の恐ろしさ(子供は純真であるがゆえに染まりやすく、極端に走りやすい)を描いた「イヤミス」に近いものではないかと思う。
いわゆる「名作映画」だと思って足を運んだら、40年代の「イヤミス」だった……。
そりゃ我ながらびっくりするよね。
●この物語のロジックの根底には、当然ながら「ナチスの優性思想」があるのだろうが、もしかするともう少し文学的な部分で、『罪と罰』の影響なんかもあるのかもしれない。
●英語版Wikiにあった話が面白かった。
なんでも、40日のベルリンロケが終わって、室内シーンを撮るためにイタリアのスタジオに移動した出演者たちは、1か月ほどセットの完成を待って待機させられたらしい。栄養失調だったドイツの出演者たちは、そのあいだにみんな肥え太ってしまって、撮影再開に向けて監督から厳しいダイエットを強いられたとのこと。あと、撮影が終わってもドイツに帰らずイタリアの田舎に逐電した俳優も複数いたらしい。
まさに戦後すぐの空気感を感じさせるエピソードだ。
●本作がいかに「こわい」映画かというのは、本作が撮られた経緯からもほの見える。
この映画、実は1946年に9歳で死亡したロッセリーニの長男ロマーノに捧げられている。
ロッセリーニがエドモンド役でサーカスの11歳の少年を見つけてきたとき、彼はそこにロマーノの影を見ていた。髪型を同じに調えればまさに死んだ息子とソックリだということに気づいたロッセリーニは、彼にオーディションを受けるように強く勧めたという。
すなわちエドモンド少年は監督にとって、死んだ息子の身代わりだった。
そんなエドモンド少年を、ロッセリーニは改めて、「ああいう目」に遭わせるのだ。
ああ、なんとおそろしいことか。
やはり、『ドイツ零年』は、こわい映画だと本気で思う。
●ちなみに、ヌーヴェル・ヴァーグの巨匠フランソワ・トリュフォーは、本作の大きな影響下に、初期の代表作『大人は判ってくれない』を撮ったことを明言している。
一方で、ジャン₌リュック・ゴダールは、1990年のドイツを舞台に『新ドイツ零年』を撮った。『ドイツ零年』と『新ドイツ零年』を続けて上映する好企画は、二人の巨匠を「ドイツ」という異国でつなげてみせるとともに、ネオレアリズモとヌーヴェル・ヴァーグという二つの映画運動それ自体をつなげてみせる試みだともいえる。