「字幕という試練」チャイナタウン Biniさんの映画レビュー(感想・評価)
字幕という試練
フォレスト・ガンプでもそうなのですが字幕の良し悪しで映画の評価がガラリと変わってしまうのは残念なことです。この「チャイナタウン」はひねりにひねりを効かせたシナリオと、登場人物の演技のうまさに支えられ、日本語字幕でも見劣りしない作品なのですが、字幕にあと一工夫あればさらに名作の名に劣らぬ出来映えになったのではと思うのです。
一例をあげましょう。水道局長モウレイ邸の庭にある池の手入れをしている中国人とおぼしき庭師の男性が水質が草に悪いとぼやきます。その発音が悪く Ba fo gla などと(正確にはBad for the grass)ピジン・イングリッシュで私立探偵のギティスに語りかけます。 ギティスは草である grass とガラスである glass の区別ができない中国人なんだと苦々しく「そうだ、もちろん 草に悪い」と返すのですが、わざとらしくthe glass と発音するのです。どうせ中国人には英語の発音などわからないからどうでもいい、という軽い蔑視が感じられるシーンですが、字幕は「草に悪い」で片付けています。
この池のシーンは殺人事件の鍵となる重要な場面で一工夫がほしかったところ。ギティスは池の底に光るものを見つけ庭師に拾わせるのですが、それが殺された水道局長の眼鏡(glasses)だったのです。ということは、庭師の発音は最初から眼鏡を示唆していたことになるので、それを少し反映させた訳語が 望ましい。例えば草を環境に変えてその上にルビを「ガンキョー」とふって画面にのせてみる。ギティスが二度目にモウレイ邸の池で同じ庭師を見て挨拶がわりに「ガンキョーに悪いね」という字幕であれば、可笑しさとその直後の池の底にきらめく眼鏡とつながるシナリオ通りの理解につながるのです。
もうひとつは、ギティスが過去にチャイナタウンへ左遷されたことをモウレイ夫人が知るところ。チャイナタウンで何をしていたの?と聞くとギティスは「できるだけなにもしなかった」と言います(英語はAs little as possible)。これが字幕では「怠け者さ」になっていたから驚きました。この台詞は最後の最後、モウレイ夫人が撃たれて死ぬのをギティスが目の当たりにしてもう一度やるせなくAs little as possible と呟くのですが、字幕は「怠け者の街さ」と、チャイナタウンを揶揄するような捨て台詞なので驚きがショックになってしまいました。
チャイナタウンの特殊性が反映されていないのが原因でしょう。アメリカの大都市にはどこにもあるチャイナタウン、そこに勤務する警察はなかば治外法権という別世界にいるようなもの、左遷状態でなにもしないしできない、というジレンマに陥ります。人殺しがあっても見てみぬふりをきめこむ、そんな別世界で起きた、恐らくは女性がらみの事件に何もできずにいたギティスを再び襲うこの悲劇に怠け者という字幕はいかがなものでしょうか。
せめて「何もできない…」くらいの絶望感があってほしかった。わたくしは個人的に「見て見ぬふりか、また…」と入れたくなります。
わたくしが見たチャイナタウンは、「カサブランカ」で名訳ぶりを発揮したあの方の字幕だったのでショックは大きい。嘘だろうと思って何度も字幕を追ってみましたが…。
誤訳ではないにしろ、この仕事の大変さと責任の重さに耐えるのは並大抵のことではなさそうです。特に映画が素晴らしければその分だけ責任重大ということになります。