太陽がいっぱいのレビュー・感想・評価
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自業自得ではあるのだけれども、自らの欲に溺れていくトムの姿は哀れという以外の何物でもない
富裕なフィリップとの交際を通じて、彼からこぼれてくる富の恩恵に預かろうとするのなら、いざ知らず。
彼そのものになり代わり、彼の婚約者・マルジュを、いわば「中間項」として、最終的には彼の財産を乗っ取ってしまおうという計画が思いつくということは、トムのこれまでの人生は、どんなものだったのでしょうか。
思いつきもしない…思いついたとしても、とても実行には移せない計画ではないでしょうか。
少なくとも他人の痛みが分かる人間であれば。
その人生の「陰の部分」が、彼をして彼の所業に駆っていることは、否定ができないのだと、評論子は思います。
確かに、いわゆる「金持ちのボンボン」にありがちなフィリップの不遜さがトムの憎悪を掻き立てた面もないではないとは思いますけれども。
いずれにしても、自らの欲に深く落ち込み、その深い欲に溺れていくトムの姿は、自業自得とはいえ「哀れ」という以外には評しようがないようにも思われます。
最後の最後には偽のフィリップから、現実のリプリーに戻り、マルジュを介してまんまと彼の遺産を手に入れたと信じ切り、太陽(陽光)かいっぱい降り注ぐビーチで、「とにかく、いちばん高い飲み物」を注文して得意満面だったリプリーは、そのまま真っすぐ司直の手に落ちて、どんな気分だったでしょうか。
何度もなり代わりが露見しそうになりながらも、その都度、悪知恵を働かせて切り抜けるストーリーは脚本の「冴え」でもあり、映画作品(サスペンス映画)として、製作年次も考え併せると、十二分な佳作でもあり、午前十時の映画祭、新・午前十時の映画祭のラインナップを飾るにも、他作品と少しも見劣りがしない一本だったとも思います。
トム役を演じたアラン・ドロンの端整な顔立ちが、その悲哀をいっそう増幅していたという点も含めて、彼の名演技と評するに値する一本だったとも思います。
(追記)
評論子も、本作から男性同士の同性愛という色彩は、感じ取ることができませんでした。
もし、そういう色彩があったのだとすれば、フィリップからトムに対しての一方通行でしょうか。
ボートでヨットからトムを隔離したり、それでトムに重度の日焼け=やけどをさせたり…。
そこに、フィリップのトムに対する(一方的な)支配性を感じることはできたのではないかとも思います。
(そう言われてみれば…という「後追い」の感想ですけれども)
(追記)
お札が大きい(驚)!
イタリアでは、今でもそうなのでしょうか。
持ち運びには、不便そうです。
(アラン・ドロンの追悼上映として、スクリーン=ミニ・シアターで鑑賞)
地中海の抜けるような青い空は、まさに「太陽がいっぱい」で本作品の魅力の一つですね。
Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下さんにて2024年8月に逝去したアラン・ドロン氏の生誕日にあたる11月8日から『太陽がいっぱい 4Kレストア版』『若者のすべて 4Kレストア完全版』『冒険者たち』の3作品を追悼上映中。本日は久々に『太陽がいっぱい』を鑑賞。
『太陽がいっぱい』(1960)
監督は『禁じられた遊び』(1952)のルネ・クレマン、音楽はニーノ・ロータの大ヒット曲、アラン・ドロンを世界的大スターに押し上げた言わずもがなの代表作ですね。
ストーリーはピカレスクロマンのサスペンスですが、久々に見直してみると、トム・リプリー(演:アラン・ドロン)が一方的な悪者、サイコキラーでもなく、富豪のフィリップ(演:モーリス・ロネ)に追い詰められていく様が描かれ共感を覚えるキャラクターでしたね。
本作品でのアラン・ドロンはまごうことなき絶世の美男子、ヒロインのマリー・ラフォレもチャーミングで、ずっと飽きずに見ていられますね。
ロケ地イタリアの地中海の抜けるような青い空は、まさに「太陽がいっぱい」で本作品の魅力の一つですね。
やっぱり淀川さんは凄い
今年8月、88歳で亡くなったアラン・ドロンの追悼上映。僕が子供の頃には「アラン・ドロン」と言えば「二枚目」の代名詞で、その映画を観た事がなくとも、あるいはどんな人なのか知らずとも、その名に全ての人が平伏していた様に思います。そんなドロンの出世作です。
僕が本作を観たのは40~50年前だったと思うのですが、淀川長治さんが本作を観て「これは同性愛の映画ですね」と公開時に語っていた事を後年になって知りました。原作者のパトリシア・ハイスミスが同性愛者であった事は知られてはおらず、そうした発言を公にし辛かったであろう当時に、それを喝破した淀川さんはやはり只者ではなかったんだなと感心。
但し、その見方が合っているのかどうかは制作者自身のみが知る事で、今回改めて観ても「そう見ればそう見える」程度に感じるだけでした。でも、淀川さんはやはり凄いな。
上っ面な人間関係
金満家の凡庸な厭らしさ、下流のハスっこい厭らしさをこれほどまでに表現して見せるとは。
幼いころに見た時は、
破滅へのカウントダウン。それでいて、当の本人は優越感におぼれ、満ち足りた気分に酔っている。
その差にヒリヒリして、イタくて、
ドロン氏の二枚目ぶりに浸透していたこともあり、
あまりにも悲しすぎて、胸がふさがれてしまい、
なかなか再鑑賞できなかった。
ドロン氏の逝去。(ご冥福をお祈りします)
意を決して再鑑賞。
こんなに繊細な演技をする方だったんだ…。
『黒いチューリップ』『世にも怪奇な物語』『山猫』しか見ていなかったけれど。それらの作品でも好演しているが、改めて見直してしまった。
こりゃ、世界を魅了するわ。
水野晴郎氏は、映画の解説の中で、ドロン氏ご自身の生い立ちがこの演技に利いているとおっしゃっていたが、
フィリップとトムとを並べてみると、トムの三流ぶりが際立つ。
目端が利く頭の切れが唯一の武器。
大金を得るために受け負った仕事のおかげで、金満家の暮らしぶりを経験してしまった。
今までは憧れていただけの贅沢。身に着ける靴や衣服のフィット感。食事だって場末の食堂ではなく、調度の豊かなカフェ。
それよりも、周りの人が金満家に向ける視線。それに対して自分に向ける視線の格差。
その度に傷つく。仲間であって、仲間ではない。ミソッカス。使い走り。ペットではなく家畜としての犬扱い。
そして、そんな立ち位置に我慢ができないトム。
誰よりも、自分の頭がキレることを自負している。
凡庸なフィリップよりも、自分こそが皆の敬意を得ても良いはずなのにという視線がちらつく。(元々階級があるヨーロッパ人ではなく、自身の力で成り上がれるUSA出身という設定)
それでいて、フィリップにぴったりとくっついて、おこぼれを享受しようとする姿。
コバンザメのようにすぐ後ろに張り付いて、機会あれば、すっとフィリップを出し抜こうとする姿。
目が不自由なふりをしてナンパした夫人に対する行為。おこぼれの骨にしゃぶりついているようで、イタイ。
このようなトムのチラ見えする厭らしさ(≒野心)にうすうす気が付いているマルジュやフレディはトムを嫌い側に置かないようにするものの、フィリップはトムを御せると思っていて…。
対するフィリップは、金満家にありがちの、自信を持った振る舞い。
働かなくとも食べていける身分ではあるが、自分の力で何かを成し遂げているわけではなく、父の庇護下にあり、鬱屈した気分を、トムをいじめることで晴らしている。それでいて、おこぼれを与えていて、それでトムを御せていると思える凡庸さ。金満家が”人”と見なしている人達への心遣いと、トムへの心配りへの違い。一人ではいられず、といって自分の意見を持っているマルジュだけでは自分を保てず、自分に従順な(ふりをする)トムを必要としているのに。
演じるロネ氏が良い味を出している。意地悪なのに、人の良い面もあるという、ある意味いじめっ子の典型的人間像だが、演じるには微妙な役。トムに対してあれだけのことをしているのに、殺されて当然という評はあまり見ないという不思議な仕上がり。結果を考えなしで行い、死ぬかもと気が付いたとたん必死で助けたからか?
淀川氏は、この映画の根底に同性愛があるとおっしゃっていたようだが、私にはそれは感じられず。
トムのナルシストぶり。フィリップの人の気持ちへの無神経さ・幼さだけが印象に残る。
トムは何をしたかったのだろう。さっさと、財産を奪い取って、誰ともあわない土地に高跳びすればよかったのに。ヨットだって、わざわざ売りに出さずに、漂流したように見せればよかったのに。
マルジュへの固執。マルジュを愛しているようには見えないのに。
”王様”になりたかったのか。フィリップに向けられていた周りの人の視線を得たかったのか?だからヨーロッパの社交界から離れられなかったのか?
マルジュも、その一環、まるで高価なアクセサリーを得るように扱う。
フィリップに成り代わってからのニアミスは、映画を観ている私たちからはハラハラドキドキしておもしろいが、トムは大金を得てから豪勢に散財したシーンもなく。
それでも、すべてを手に入れた。自分の計画が計画通りに成就したと思い、優越感に浸り、満ち足りた気持ちになる、その時。
そんな卑屈で、それでも幸せになりたかった男をこんな風に演じるなんて。
ドロン氏は最高の役者でもあると思う。
そしてそんな物語を余すことなく撮った映像・演出。
この色男とこの映像を、ロータ氏の音楽が引き立てる。
色あせない映画。
アラン・ドロン氏 追悼鑑賞
若いアラン・ドロンを観る作品
貧しいアメリカ人のトムは、金持ちのフィリップの父親に頼まれ、彼を連れ戻すためイタリアのナポリにやってきた。金の力で女遊びに明け暮れるフィリップに対し、怒りと嫉妬を持ったトムは、フィリップを殺して彼に成りすまそうと計画し・・・トムの悪事は成功するのか、という話。
アラン・ドロンが今年8月18日に亡くなった事による追悼上映を鑑賞。
何度も観てるが、やっぱりイケメンだなぁ、とあらためて思った。
演じてる役も悪い奴だし、彼の私生活にしても家庭内暴力を起こしてるようで、決して人間的に良いやつではないのだろうが、顔だけは美しいと思う。
そんなアラン・ドロンを堪能する作品。
最後の衝撃は何度見ても天国から地獄だなぁ、と思う。
あと、ニーノ・ロータの悲しげな音楽も耳に残る。
美しいアラン・ドロン
パトリシア・ハイスミス
20数年前にリバイバル上映で鑑賞し、地中海とアラン・ドロンの美しさが印象的に残っていました。後に地中海に旅行で訪れた際にヨットがたくさんあって、映画で観ていた通りだと感動したのです。そして、お正月に帰省した際に改めて父と一緒に再鑑賞。
本作の魅力はやはり、地中海とアラン・ドロン、ニナ・ロータの音楽につきますね。ストーリーも分かりやすいですし。
ところが、本作の原作がパトリシア・ハイスミスであれば話は変わってきます。
町山さんによると、本作がゲイ作品だと一番初めに解説したのが淀川先生だったとのこと。だから、本作は所々に同性愛の隠喩があると。
パトリシア・ハイスミス原作『キャロル』は直喩なので分かりやすいですが、本作の隠喩は全然分かりませんでしたね。同性愛について、現代は直接的な表現が出来る社会にはなりましたが、当時は絶対に不可能だったと思います。
そんな風に本作を鑑賞すると、トムの大胆な行動の裏にはフィリップに対する大きな性衝動があったのではないかと、思いました。
トム・クルーズと異なり、アラン・ドロンには内面の影が…
何十年ぶりかの鑑賞だったが、
話の骨子としては、裕福な友人を殺害して
彼になりすましたものの、
思いがけない事態から犯罪がばれると言う、
単純なストーリーの記憶だった。
しかし、ヨット上の殺人が
展開の1/3にも達しない段階で起きることや、
第2の殺人が行われること等は
すっかりと忘れていた鑑賞の中、
男女二人が恋愛関係にある上での
別の男性が加わるクルージングの設定や、
なりすましの過程や殺害後の後始末等、
また、ロープがスクリューに絡まってままで
航海出来たのだろうか等々、
無理くりさを感じないこともなかったが、
最初の殺害後の細かいアクシデントと
その対応の連続など、
承知の結末までどう展開するのだったろう
かと興味深く鑑賞した。
さて、アラン・ドロンはトム・クルーズと
同じような二枚目俳優なのだろうが、
トム・クルーズと異なり、
アラン・ドロンは全ての作品に共通して、
内面の影を感じさせる特異な美男子俳優
だったと、今回の鑑賞で改めて感じた。
ところで、ニーノ・ロータには
フェリーニの「道」をはじめとして
「ロミオとジュリエット」「ゴッドファーザー」
等のたくさんの映画作品で、
美しいメロディを堪能させて頂いた。
しかし、彼は、
この映画のメロディは好きでは無いそうで、
御自身のベストアルバムにも
入れていない位だ。
一方、私が特に好きなのは、
むしろこの作品のメロディなのだが、
それでも他の映画作品同様に、
この作品のテーマソングでも途中挿入される
ガチャガチャフレーズが好きでは無く、
私にとっては困った映画音楽作家ではある。
初鑑賞だと思っていたが。。。
ニーノロータの名曲
ニーノ・ロータの音楽があればそれで良い。
『凄い完全犯罪だ。』って『あれさえなければ』なんて思っていたが。初見がまだガキの頃だったんだね。また、親父が横で、実況ネタバレしてくれたおかげで、当時でも、大感動とは言えなかった。
都合良くアリバイができたり、DNA捜査はまだまだの時代だろうが、指紋の事(実際に指紋の事は映画に登場する)が曖昧な事と、お金が動くからには、民事捜査はこの程度で済むはずはない。
騙されるな女性もあまりに無神経。
また、死体を運び出す時にあんなに都合良く済むはずは無い。
『クライム・サスペンスの傑作だ』とか言う方はいるだろうが、火曜○スペン○劇場なみ。
帆船にもエンジンは付いているが、犯行当時はエンジンは使っていなかったはずだ。
とにかくドロンが究極のイケメンだということ&吹き替えがブルースウィリスに聞こえすぎた件
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