太陽がいっぱいのレビュー・感想・評価
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アラン•ドロン
有名な作品、リメイク作品も多い。
大嫌いな男がいてその恋人が好きなので、
男を殺し擬装して男の財産を女にやり
女を手に入れる、計画。
裕福なトムとその恋人、そこへ主人公。
お邪魔虫以外の何者でもない。
恋人を下ろしてすぐに殺す。
死体を包んで巻いたワイヤーの端を確認しなかったが為に。
トムのハイブランドのジャケットを着ていると
立っているだけでモデルみたい。
レザーのバッグが高級感満載❣️
日本なら印鑑だが、サインの真似も大変。
どっちが安全だろう。
上手くごまかしていたようだけど、
トムの友人に見破られ‥‥、
観ている人皆、
バレるぞ、バレるぞ、と思って観ていたんだろうな。
アラン・ドロンの魅力がいっぱい‼️
「太陽がいっぱい」と「冒険者たち」、この2作の名作フランス映画でアランドロンの存在は、私の中で永遠のものとなりました‼️とにかくこの作品でのアランドロンは美しい‼️しかもこの映画で成功したいというオーラが画面から溢れていて、そのグリーンの瞳が妖しく燃え上がっていた‼️それが金持ちの友人を殺して成り代わろうという役柄に見事にマッチしていて、ゾクゾクさせられます‼️モーリス・ロネに食事のマナーで馬鹿にされ、炎天下の海でボートに取り残され、コンプレックスと恥辱と嫉妬と羨望にかられて、チラッとモーリス・ロネを見上げる暗くて傲慢な目‼️ラストの全てを成し遂げたつもりでみせる安堵した表情、名前を呼ばれて不安そうに顔を曇らせる、だが、ただの電話呼び出しらしいとわかって笑顔に戻る‼️やってることが邪悪なのに、なんとも子供っぽい無邪気な笑顔‼️もうホントにスターの中のスターですよね‼️このアラン・ドロンのトム・リプレーはもちろん、放蕩息子を嫌味に演じるモーリス・ロネのフィリップ、妖精的な魅力を醸し出すマルジュ役のマリー・ラフォーレらツボにハマったキャスティングが素晴らしいですね‼️そして、太陽きらめく海上での殺人、地中海の波に揺れるヨットが主人公の不安な心情を表現していたり、サインの偽造を練習したり、指紋をすり替えたりするシーンとか、ルネ・クレマン監督の映像テクニックは名作「禁じられた遊び」を凌駕しております‼️いつまでも耳に残るニーノ・ロータの甘美なテーマ曲も忘れられない‼️もう聴くだけで涙出てきちゃいますよね‼️そしてラストのどんでん返し‼️赤い糸ならぬロープが、スクリューに絡まっていたためにもたらされるこの衝撃は、何度見ても胸を締め付ける力強さを持っている‼️
アラン・ドロンの代表作
フランス語だからなのかどこかウェットな眼差しをしているからか石田純一ファッションwが板についているからか分からないが、主役のアラン・ドロンはもう一つアメリカの青年には見えない。だが、鏡の前でフィリップの彼女に愛を囁くイメージングをするシーンや、海で背中を焼かれるシーン、「悪いのはフィリップだ。」と罪を重ねていく時のセリフは、美しい肢体に黒い髪、クールブルーの瞳を持つ彼でなければ成立しなかった気がする。
脚本は、クレマン監督が大戦後の貧苦にあえぐフランスの若者達に代わって、戦後は世界一リッチになったアメリカやブルジョワ階級に対してちょっとした皮肉を込めている感じもした。
例えば、フィリップの友人フレディがトムを怪しんで尋ねた場面。
「何の仕事をしているんだ?」
トムは答える。
「何もしていない。君は?」
対するフレディ。
「本職はない。だが金はある。」
同じ年頃で同じように無職なのに、一方は遊んでいて当たり前で、他方は怪しまれる。生まれの格差が浮き彫りになりトムの妬みが膨らんでいくのがわかるのだ。
そしてお天道さまの下、晴れてゆっくりした矢先の、原作小説とは異なるきっぱりしたラストも上手いと思う。
犯罪は犯罪。
監督の良心だろうか。
初鑑賞だと思っていたが。。。
ニーノロータの名曲
ニーノ・ロータの音楽があればそれで良い。
『凄い完全犯罪だ。』って『あれさえなければ』なんて思っていたが。初見がまだガキの頃だったんだね。また、親父が横で、実況ネタバレしてくれたおかげで、当時でも、大感動とは言えなかった。
都合良くアリバイができたり、DNA捜査はまだまだの時代だろうが、指紋の事(実際に指紋の事は映画に登場する)が曖昧な事と、お金が動くからには、民事捜査はこの程度で済むはずはない。
騙されるな女性もあまりに無神経。
また、死体を運び出す時にあんなに都合良く済むはずは無い。
『クライム・サスペンスの傑作だ』とか言う方はいるだろうが、火曜○スペン○劇場なみ。
帆船にもエンジンは付いているが、犯行当時はエンジンは使っていなかったはずだ。
とにかくドロンが究極のイケメンだということ&吹き替えがブルースウィリスに聞こえすぎた件
アラン・ドロンを、ただただ見つめる!
1960年。ルネ・クレマン監督作品。原作はパトリシア・ハイスミス。
アラン・ドロンの絶世の美青年伝説。
今日、数十年ぶりに観返したのですが、トム・リプリー(ドロン)は、
天性の詐欺師でした。
偽証工作の数々。嘘を嘘で塗り固めるけれど、土台それは付け焼き刃。
なぜ、フィリップの知り合いの多い場所から移り住まないのだろう?
それにしても当時の金持ちの暮らし。
まず働かない!遊んで飲んで騒いで!
綺麗な若い女を侍らせてる。
そして大型ヨット!!
ヨットは庶民や貧乏人には高嶺の花。(そう簡単にはオーナーになれない)
遊ぶ金!美人の恋人。ヨットで移動する自由。
リプリーにはフィリップが羨望の対象だった。
彼の入れ替わること・・・成りすますこと・・・彼になってしまうこと!!
ワクワクするほど魅力的だ。
フィリップ殺人は40分過ぎに行われる。
その後の70分は偽装工作。
まずパスポートを偽装する。
フィリップを名乗る。
マージュ(マリー・ラフォレ)にフィリップのいない理由を信じ込ませる。
フィリップの名前で手紙をタイプで打つ。
フィリップのサインを真似る・・・ここに時代を感じます。
(今なら、パスワード?)
リプリーが本当に手に入れたいものは、マージユだったのではないだろうか?
そして最後の最後に、1発逆転の手を打つ。
アラン・ドロン。
フォルムは完璧に近く美しいです。
ジャケット写真にもなっている上半身裸に白いパンツ。
胸は適度に筋肉が付き、
広い肩幅、コインのペンダント、長い手足、顔は完璧に近い。
あんなに好きだったアラン・ドロンが嫌なゲス男に映る・・・事実最低のゲス男だけど・・・
生まれ落ちた時に決まる運命。
持つ者と持たない者。
それは運命の悪戯。
美しい映像です。
白い帆を張るヨット。
ギリシャの港。
イタリアのホテル街の店並み。
美し過ぎる。
アラン・ドロンの着るシャツ(フィリップのものだけど・・)
スーツとシャツのカットの良さは、オートクチュール製作のような仕立てです。
完璧に着こなすドロン。
そして有名なニーノ・ロータのテーマ曲。
覚えやすくて、もの悲しい。
そしてラストの衝撃。
こんなショッキングなラストはそうそうない!!
【”太陽がいっぱいだ、最高の気分だ・・”貧しき青年が、金持ちの鼻もちならない青年に成りすます企てが破綻していく様を、ニーノ・ロータの哀愁漂うテーマソングに乗せてシニカルに描いた作品。】
ー 私事で恐縮であるが、今作を両親とTVで観たのは小学生高学年だったと記憶する。床に入るのはPM9:00という決まりが有ったが(その後の読書は10:00まで、許されていた。)時に、両親から誘われて、映画を観る機会が有った。
今作もその一作である。
正直に記すと、記憶としてはニーノ・ロータの哀愁を帯びたテーマソングと、ヨット上でのシーンと彼の有名なラストシーンのみが残っているのみであった。
両親は、何故にこの映画を小学生だった私に”観よう”・・”と言ってくれたのか、30年振りに鑑賞し、何となく分かった気がする・・。-
<Caution ! 以下、今更ながらであるが、内容に少し触れています。>
・今作の原作「The Talented Mr.RipLey」を執筆したパトリシア・ハイスミスは、20代後半に嵌った作家である。
90年代後半に、彼女の作品が一気に翻訳出版された際は、嬉しかった。
今では死語かもしれないが”イヤミス”の先駆者である。
特に短編集の切れ味には唸らされたモノである。
・実に久方ぶりに今作を鑑賞すると、主人公のトム・リプリー(アラン・ドロン)が富豪の息子フィリップに徐々に殺意を抱いていく様が微妙なテイストで描かれている事が分かる。
併せて、フィリップの恋人、マルジュに対する想いも・・。
・面白かったのは、彼が立てた金持ちの鼻もちならない青年フィリップの成りすまし計画を実行する様である。
フィリップの筆跡をドラフターを使いながら、何度も透かし紙に書き、確認するシーン。
パスポート写真を偽造するシーン。
<リプリーが、フレディを殺害するシーンやその後の展開などは、現在のサスペンス映画と比較すると、粗さが目立つ。
だが、その粗さをニーノ・ロータの哀愁を帯びたテーマソングと、リプリーがラスト、ほんの束の間抱いた満足感、達成感をリクライニングチェアーに全身を委ね、陽光を全身に浴びながら口にした
”太陽がいっぱいだ、最高の気分だ・・”
と言う言葉が帳消しにする作品でもあるのである。
勿論、アラン・ドロンの美しさも含めて・・。>
いまいち
この映画を印象深くしているのはラストシーンだ。主人公のトム・リプリーが最高の気分で日光浴をしていて、何も知らずに電話の呼び出しに立ち上がって、ニコニコしながら歩き始める、同時にあの哀愁を帯びた音楽が流れるシーンだ。これから捕まってしまうのを想像して、二人を殺した犯罪者なのにかわいそうだと思ってしまう。ニーノ・ロータの音楽の効果は抜群である。もしこの音楽がなかったら、これほどの名作になっていただろうか?あと、主演が超イケメンのアラン・ドロンということもあると思うが。
ただ、一般の評価より私の評価は低い。いちばんの理由は主人公に共感できないからだ。虐げられていたとはいえフィリップ・グリンリーフを殺すほどの理由があっただろうか?百歩譲ってその殺人を理解できたとしても、二人目の殺人は回避できただろう。あと、フィリップになりすまして大金を手に入れ、最後にはフィリップの婚約者まで手に入れるに至っては呆れてしまう(まあ、この部分がなければ作品は成り立たなくなるが)。本当に彼女を好きだったのか、遺産を相続する彼女が金づるになるので一緒になろうとしていただけなのかはわからないが。
あと、船上で殺した後(この殺人もやや唐突な感じ)、死体を布に包み海へ投げ捨てたが、なぜか長い紐が気になっていた。スクリューに絡みつかないかと。そのため、いつもは感の悪い私であったが、結局最後のオチもそれはど衝撃的ではなかった。
いずれにしても、私は登場人物に魅力を感じないとダメなので、その点についてはこの映画のアラン・ドロンは「冒険者たち」のアラン・ドロンの魅力には遠く及ばない。
アラン・ドロンの妖気。
人間のクズ
なんでこんなにファンが多いの?
なんでこんなに高評価?
ただのジャニーズ系アイドル映画ではありませんか。
演技も下手だし。
むかし観たときはその美貌にうっとりとなったアランドロン、
ところが
今回 数十年ぶりに鑑賞してがっかりだった。こんな最低野郎の人間のクズだったとはね。ダニですよ、やれやれ。
世の荒波に揉まれ、さんざん嫌な思いと辛酸に耐えてこの年齢になると
25才のアランドロンの あのどうにもならない腐った性癖が僕には我慢できません。
それでもせめてどこかに屈折した男の弱さとか内面の陰りを醸してくれれば、役者としては大したものだと思えるところを、演技力ゼロ。ただの街のチンピラで終演。
マジ切れしました。
一生ブタ箱から出ないでほしいです。
(苦笑)
永遠の名作
今観ても面白い
60年前の作品とは思えない。今観ても
十分引き込まれる。アラン・ドロン演じる
トムが金持ちのフィリップの真似をして鏡に
キスするシーンが艶かしい。またトムがフィリップの婚約者を誘惑するシーンも然り。
さすがに天下の2枚目アラン・ドロン。
ラストシーンではフィリップの「俺は
これで終わらないぞ」という彼の執念を
感じた。
危うく妖しい美しさのアラン・ドロンが魅せる、破滅型野望に青春を賭けた青年の犯罪サスペンス映画
ルネ・クレマンと言えば戦後フランス映画界の第一人者であり、代表作「禁じられた遊び」は不滅の名画として映画史に遺るものである。その次に挙げられる作品がエミール・ゾラ原作の映画化「居酒屋」であり、一般的に知れ渡るこのアラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」であろう。そこで興味深いことは、地味な題材をリアリズムタッチの正攻法で演出した「禁じられた遊び」や「居酒屋」とは違って、サスペンス作家パトリシア・ハイスミスの原作の面白さを損なわずに、主人公トム・リプリーの人物像を始め主要登場人物の描き方、舞台のナポリ近郊の漁村の舞台描写が、映像として非常に鮮烈であること。公開当時のフランス映画界は、若い監督たちの躍進でヌーベルバーグが席巻していた時である。まだ40代後半とはいえ、クレマン監督は熟練の巨匠監督の地位にあったと思われる。若い監督の新しい演出に負けない新鮮なクレマンの映画作りに驚きを持って鑑賞することになった。それは偏に主人公を演じた撮影当時24歳のアラン・ドロンの妖美さと、名カメラマンのアンリ・ドカエの撮影の素晴らしさが寄与したからに他ならない。海の青さとそれを覆う紺碧の空。そして白い雲と白いヨット。燦燦と光を放つ太陽とリプリーの入念で破滅的野望。水平線を境界に対照される世界観を巧みに構築している。
モーリス・ロネとマリー・ラフォレも素晴らしい。演出と撮影で特に優れているのは海上でのカメラワーク。不安定な船に設置したとは思えないモンタージュが編集を含めて高度に処理されていると思う。そして忘れてはいけないのが、ニーノ・ロータ作曲のテーマ音楽の哀愁を帯びた美しいメロディ。ともすると完全犯罪を遂行しようとする主人公リプリーに肩入れして観てしまう危険性を孕んでいる演出と音楽である。それがラストのどんでん返しを映画的な結末として、衝撃と安堵を強烈に印象付ける。名ラストシーンのひとつ。完成度の高いサスペンス青春映画の名画として記録したい。
1977年 1月22日 高田馬場パール
河合書房新社の文藝別冊に掲載された、この映画を絶賛していた淀川長治氏とアラン・ドロンが好きな作家の吉行淳之介氏の雑誌対談が面白い。淀川氏が映画文法から貧しい青年リプリーと大金持ちのフィリップが同性愛の関係と論説するのに対して、吉行氏が最後まで納得できないのが、映画の観方という点で興味深かった。確かに私個人の些細な映画遍歴でも、戦前のフランス映画からの印象に男性同士の距離感が他の国の映画より密接しているものを感じていた。淀川氏の言う、この二人がお互いに無いものねだりの微妙な関係であり、ナイフで刺すのはラブシーンで、鈍器で殺すのは単なる殺しというのは説得力がある。そしてラストシーンで重なる手の演出は後追い心中と分析する。それと主従関係の二人が、船から降りる時一緒にするのがおかしいと指摘する。色んな観方を教えてくれた淀川氏の面目躍如の解説の一つに挙げていいと思う。
途中出てくる郵便配達の男が山本晋也監督に似ている
昔、何度も観たのに、犯罪の詳細な手口を覚えていなかった。幼心にも、「怪人二十面相でさえ完全犯罪は出来ないんだからアラン・ドロンでも無理だよ」と冷めた気持ちで観ていたはずだ。不思議なもので、無理だとわかっているから映画では応援してしまう不思議な感覚に陥ってしまう。せめて捕まる前にマルジュと恋仲になりますように!と。
コロンボのドラマのように完璧な刑事が登場するわけではなく、マルジュと書かれたクルーザーのスクリューに死体を結びつけたロープがからまって、「太陽がいっぱいだ」とくつろいでいるアラン・ドロンのもとへその刑事たちが・・・というラストが最高。
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