「SF設定のゾンビ映画」ターミネーター とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
SF設定のゾンビ映画
やっつけても、やっつけても蘇ってくる。
骸骨姿の不気味さ。
上半身と下半身が切り離されて、ほっとしたのに、まだ動く。
どうしたら、安息できるんだというシチュエーションで、最後の最後までドキドキが続く。
その話の引っ張り方が最高!
その中に、若い二人の、切羽詰まったドラマを描く。しかも時空を超えた恋。
切羽詰まっているのは二人だけでなく、「未来の救世主の誕生に関わるミッション」が加わることにより、どーなるんだ、未来の地球!未来の私たち!というイシューもあって、さらに、全身に力が入ってしまう。
やっぱり、映画は脚本・演出・演技・映像・音楽だなと思わせてくれる映画。
正直、各アイディア自体はこの映画の製作年代でも斬新なものではない。
機械による戦争勃発→終末期は、すでに手塚治虫先生の『火の鳥 未来編(1967年~)』等にも描かれていたように、そのモチーフで幾つもの作品がある。
タイムトラベル物も、ウェルズの小説等すでにある。
ロボット・サイボーグという概念も…。『鉄腕アトム(1951年~)』『サイボーグ009(1964年~)』
だが、それらを組み合わせて、こういう映画にするとは。
「未来から来た機械に、命を狙われている」そんなバカげた話に、議論の挟む余地はあるけれど、それでも”現実”と受け止めざるを得ない、有無を言わさない怒涛の展開。
プロローグなんてものはない(シリーズとして観ればこの映画がプロローグなのかもしれないが、この映画単体としてみると、クライマックスから始まる)。
荒廃した風景。髑髏の山を押しつぶすキャタピラー。不穏な雰囲気。絶望感を煽るキャプション。
いきなり、主要人物の登場。シュワルツェネッガー氏の肉体美が最大に活かされた印象深い登場シーン(パロディ、物まねたくさん見たような…)。それに続く、容赦なしのバイオレンス。どこに連れていかれるんだぁという展開から始まる。
追撃の方法も実に地道。電話帳から住所を探すなんて、今の時代ではありえないが、あの頃はごく当たり前。そして、任務完了と思っていたところに、留守番電話。サラが今どこにいるかを、ターミネーターが知るプロセスが絵空事ではない。写真付きの身分証明書、車の無線、住所録、身内と、探偵ものの定番が次々に出てくる。電話で住所を教えちゃうのも、情報セキュリティの緩い時代ならではのよくあること。この辺の、細かいプロセスがしっかりしているから、絵空事の映画なのだが、実際にどこかで起こっているような錯覚すら与える。
警察がマスコミを使って、要保護対象者からの連絡を待つのも、警察の切れ者具合を見せてくれる。
なのに、あの、歯の立たなさ。「大丈夫だよ」の言葉が、空に響く。
ここまで圧倒的な強さを見せつけておいて、その機械に対する者は、初め、とても貧相に描く。生れ落ちるがごとくの登場。ネズミのような立ち振る舞い。ミスの多いウェイトレス。「見守っていてね」と声をかけるのは、マクドナルドの劣悪コピーのような頼りなさそうな表情のマスコット。
これで大丈夫か?と不安を煽る。
ターミネーターがパトカーを使って追い、カイルがパトカーから追われる方であるのも、観客のドキドキ感を増していて、よく練られているなあと思う。最初は三つ巴の追いかけっこのアンサンブルも面白い。
その二人の逃避行の中で語られる説明。その設定自体には懐疑的になっても、命を狙われていて、カイルが自分の命をかけて守ってくれているという事実の体験。
ここでも、細かい演出に唸ってしまう。筒状のボトルに対する二人の反応の違い。戦いに明け暮れていたカイルの人生が、”説明”だけでなく、実感される。その淡々としたそぶりに対するサラの細かい表情の変化。うまい。
そして、そのカイルの背水の陣・四面楚歌な決意に心打たれ、応援したくなる。
他の方もおっしゃっているが、サラの変化が頼もしい。
心引き裂かれる悲劇後の対決。あの、チャックが閉まる瞬間が、切ない。
そしてラスト。嵐の予感。後引く終わり方。
そりゃ、後編を作ってみたくなる(続編他未見)。
そんな物語に、これでもかと驚かせ、怖がらせる演出、アクション。
そんなシーンを際立たせる音楽。
ツッコミどころは多々あるが、それすら些末なことになる怒涛のドラマ。
どれが欠けてもこの迫力にはならない。
おなかいっぱいです。