劇場公開日 1957年12月25日

「映画作品としては素晴らしく面白いが主人公たちの言動は、今となっては理解しかねるところもある。」戦場にかける橋 あんちゃんさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5映画作品としては素晴らしく面白いが主人公たちの言動は、今となっては理解しかねるところもある。

2025年2月15日
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鑑賞方法:映画館

この作品の数年後に制作された「大脱走」と比較してみると面白い。「大脱走」でドイツ軍収容所に収容されているイギリス軍の指揮官ラムゼイ大佐は捕虜になった将兵は脱走が義務であるとする。一方、本作のニコルソン大佐は脱走を否定して規律正しい労務提供を望む。この差はどこから生じるのか。「大脱走」における英軍の相手はヨーロッパの近代国家であり戦争も一定ルールにおけるゲームである。本作における相手は野蛮な未開国であり同じゲームテーブルにつくことはできない。指揮官かジュネーブ協約を平然と破り捨てる国である。脱走よりもむしろ橋梁設計、建築技術における能力差、規律正しい労務管理の違いを見せつけることにより英国人、英国軍の誇りを保持し続けることが戦争で優位にたつことと等しいと判断したのであろう。
早川雪洲演じる斎藤大佐以外の日本兵の描写、そして斎藤大佐の人物設計でさえ確かに悪意と偏見は見て取れる(あんな変な掛け軸のある床の間を司令官室に設ける日本人将校はいない)
ただし残念ながらこのあとのビルマ戦線やインパール作戦の経過を鑑みる限りでは一面の真実ではあったのかなと思う。
デビッド・リーンという人は、文明と、戦争や革命の対立、政治と個人の対立を常に描いた人である。ロレンスもジバゴもそう。そして個人が戦うために、あるいは運命に逆らうために必要な資質としてヒューマニズムを常に掲げていた。例えば本作でニコルソン大佐が重んじる「Principle」とは詰めて定義づければヒューマニズムのことになるのだと思う。
でも、そのヒューマニズムを表現するために、東洋(日本)やアラブやロシアといった遅れた人々(と彼が考えていた)との比較を意図的に用いたと私は思っている。これは差別的であり今の基準では認められない。異文化への愛情や共鳴というものが全く感じられないのである。
今回久しぶりに観た本作を観て感じたことをそのまま書きました。
余談だが、今回、午前十時の映画祭で使われたフィルムだが映像はもちろんデジタル化されているものの字幕は昔のままだった。今日出海。作家の今東光の兄で初代文化庁長官。今の人は誰も知らないだろうけど。いい訳です。

あんちゃん