「大都会の片隅で交わされる自己犠牲でも偽善でもない善意の数々」スモーク 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
大都会の片隅で交わされる自己犠牲でも偽善でもない善意の数々
1 ポール・オースターの小説と映画
ポール・オースターはインタビューで「物語なしでは私たちは生きていけません。物語を通して私たちは何とか世界の意味を見出そうとします。私たちはこの世界でいったい何をやっているのか、その意味を探るべく、人は壮大なる企てを試みます。私もそれを試みている一人です」と、創作活動の基底にある存在論的疑問を語っている。
彼の小説では、従来の小説の基本にある絶対的真理、自我、意図、因果関係等々が軽んじられ、偶然が重要な意味を持ち、明確な事実と虚構との区分は消失する。いわゆるポストモダン小説というものらしい。そういえば村上春樹もこの系統か。
今年4月に亡くなった彼が原作、シナリオを手掛けた映画が本作である。オースター論をまとめた本を読むと、この作品は「背筋をヒンヤリさせる」小説世界とかけ離れており、違和感を覚えるという。本来のオースター世界とは別物の人情噺だというのである。
2 大都会の片隅で交わされる自己犠牲でも偽善でもない善意の数々
人情噺と言ったものの、本作のヒューマンタッチは人間関係における善意の絶妙なポジションを探り当て、ウエットにもドライにも偏り過ぎない知性を感じさせる。
本作は文字通り「善意」だらけである。
黒人少年が作家ポールを交通事故から救い、ポールはホームレスの彼を自宅に泊めてやり、行きつけの煙草店の仕事まで紹介してやる。
少年は煙草店で大失敗して店に大損害を与え、雇われ経営者オーギーは激怒するのだが、少年が盗んで貯めた同額のカネを出すと、文句を言いながらもクビにはしない。
自動車整備工場の経営者もその少年を雇って、パーティに誘うなどまめに面倒をみるが、ひょんなことから少年は前妻との間の自分の息子であることがわかり、愕然とする。
煙草店のオーギーを20年前に別れた恋人が訪ねてきて、二人の間に出来た娘がいるから一緒に会いに行って欲しいと頼み込む。会ってみると、娘は荒み切った態度で二人を拒否するが、それでもオーギーは少年から受け取ったカネを全額元恋人にくれてやる。その際、「本当に俺の娘なのか」と尋ねると、彼女は「自分にもわからない」と。それでも何も文句を言わないで、黙って去っていくオーギー。
慈悲深い聖人も高潔な人物も信仰篤い宗教家も裕福な金持ちも、ここには一人として出て来ない。善意を振りまくことを趣味とする人間も、自己犠牲したがっている奇特な人間も出て来ない。
しかし、身近な人間が困っていたら、しょうがないから善意で助力の手を差し伸べる人々ばかり。市井のごく普通の人々の、ごく普通の善意であり、そこには自己犠牲とか偽善とかのカケラも見えない。自然で現実的な善意だから、身近な善意として観る者の心も暖かくなる。感動ではなくハートウォーミングなのである。
そのクライマックスはオーギーが万引き少年の自宅に免許証を返してやりに行き、ひょんなことから彼の盲目の祖母とクリスマスの1日を過ごすというエピソード。クリスマス向けの小編を依頼された作家ポールに相談されて、オーギーが語ってやる体験談だ。
クリスマスに一人でいる者同士、行きがかりから何となく祖母と孫のゲームをして過ごすことにするのだが、オヤジはチキンやら野菜スープやらスイーツやらを買いこんできて、それなりのクリスマス・ディナーを作ってやる。祖母は隠しもっていたワインを出して、二人で味わって、孤独でないクリスマスを満喫した。ただ、オーギーは帰り際、バスルームに置いてあった高級カメラの1台を黙って持って帰ってきてしまう。
その後、しばらくして再度訪問してみると、老婆は死んだらしく別の一家が入居していた。
以来、オーギーはそのカメラで地元の同じ景色を毎朝欠かさず、同じ時間に撮影することが日課となっている――というものである。
3 いくつかの疑問と感想
(1)オーギーの撮影するものは何か?
オーギーは1年365日、毎朝7時きっかりに店の傍の通りの同じ場所を撮影し、それをライフワークと呼んでいる。
映画で見る限り、何故そんなことをやっているのか、見る側には正直よくわからない。そこで原作を読むと、こんなことが書かれている。
「オーギーは時間を撮っているのである。自然の時間、人間の時間、その両方を。世界のちっぽけな一隅にわが身を据え、それをわがものにすべく自分の意志を注ぎ込むことによって」
これを読んでも、疑問が晴れるわけではない。ただ、本レビュー冒頭に触れたオースターの
存在論的欲求をオーギーも共有していることだけはわかり、それで我慢するしかないだろう。
(2)オーギーの語るクリスマス・ストーリーはどこまで事実か?
オーギーの話を聞き終えたポールは感心して、「そのお婆さんの生涯最後のクリスマスを祝ってやったのか。本当にいいことをしたな」と絶賛するのだが、その時のオーギーの表情から、ふと疑惑を抱く。そして、思い返して、こんなことを付け足す。
「ウソが上手いのも才能だな。勘どころを心得てて面白い話に仕立てる、キミは大ベテランだよ」
しかし、オーギーはウソなどと認めず、「秘密を分かち合えない奴なんて友達じゃないだろ」と念押しし、ポールも「いい話だ。それが生きていることの価値さ」と返して終わる。
確固たる事実と虚構との間に重大な相違を認めないポストモダン小説に、「それは事実か否か」などと疑問を抱くのは、実に非ポストモダン的wなのだが、興味本位にここも原作で確認してみた。原作では次のようになっている。
「私はハッとした。もしかしたら、何もかもオーギーのでっち上げじゃないだろうか? おい、僕をかついでいるのか、そう問いつめてみようかとも思ったが、やめにした。どうせまともな答えが返ってはずはない。まんまと罠にはまった私が、彼の話を信じた――大切なのはそのことだけだ。誰か一人でも信じる人間がいる限り、本当でない物語などありはしないのだ」
それも当然か。そもそもここには事実など存在しなかったのである。全部がオースターの創作なのだからw
(3)俳優たちとトム・ウェイツ
ハーヴェイ・カイテル、ウィリアム・ハートは二人とも小生の大好きな役者さんである。そして2人の魅力が最も輝いているのが本作であると思う。
映画のラスト、オーギーのクリスマス・ストーリーが白黒で映像化され、そのバックにトム・ウェイツ"Innocent When You Dream"が流れる幸福は、何とも言葉に出来ない。
(4)カメラ
原作では、オーギーの盗むカメラは「とびっきりの高級品のカメラ」とされている。
では、映画に出てきたのは何か? 何とキャノンAE-1ではないか。
35mmフィルム1眼レフカメラ全盛時代、日本ではキャノンとニコンが覇権争いを演じていた。両メーカーとも最高級モデルのほか、何種類もの普及型モデルのラインアップを用意していたが、AE-1はキャノンがマーケット拡大のために安価で発売したミドルクラスの戦略モデルである。「とびっきりの高級品のカメラ」などではない。ここで何故、同社の最高モデルF1を使わなかったのか。それだけが残念でならない。