「ポール・オースターの映画」スモーク 踊る猫さんの映画レビュー(感想・評価)
ポール・オースターの映画
行きつけのオーギー・レンという店主が経営するタバコ屋に作家のポール・ベンジャミンが訪れるところから始まる。ポールは妻を銀行強盗の巻き添えで亡くしてしまって以来書けないでいたのだった。ポールが考えごとに耽っていた時に危うく車にはねられるところをラシードという黒人の青年に助けられて、ポールはラシードを二晩泊める。ラシードはポールの元を去り、片腕が義手のガソリンスタンドの店主のところに行く。そしてそこで働かせて欲しいと頼む。一方ポールのところにはラシードの叔母が行方を訪ねて現れ、事情を話す。その片腕が義手の男は実はラシードの実の父親らしいというのだ……これがこの映画のプロットである。
二十年前に恵比寿ガーデンプレイスで封切りされたこの映画を観て以来、クリスマスになると必ず観たくなってしまう。それぐらい私にとって吸引力の強い作品なのだけど、今回の鑑賞も充分に楽しめた。当時はウェイン・ワンという監督については全く無知なもので、ポール・オースターが脚本を手掛けたということが動機となって映画に関しては無関心を決め込んでいた私もこの映画を観るべく重い腰を上げたのだった。当時はポール・オースターをかなり熱心に読み込んでいた時期だったので、この映画も「ウェイン・ワンの映画」ではなく「ポール・オースターの映画」として観た覚えがある。
そういうわけなので、映画的無知が未だに尾を引いていることもあってウェイン・ワン監督特有の撮り方の指摘を出来るわけではない。せいぜい出来ることと言えばやはりポール・オースターが書いた「スジ」を注目することぐらいでしかないのだけれど、観れば観るほどこの映画は「父と子」の関係をある意味では率直過ぎるほどに描いた映画なのだなと思わされる。ポールとラシードの関係は映画のとある場面では擬似的な親子関係になぞらえられる。もちろんラシードが実の父親サイラスを訪ねて行くくだりもまた「父と子」の関係そのものだろう。ポールが開陳する、雪山に閉じ込められた自分の父の死体と遭遇する息子の逸話もまた「父と子」をなぞっている。
そして、ポール・オースターらしいなと思うのは「偶然」がこの映画をテンポのあるものとして仕上げているからでもある。ポールとラシードの出会いは「偶然」によってもたらされるものであり、ラシードが持ち逃げしているカネもまた「偶然」手に入れたものであるからだ。そのカネは回り回って思い掛けないところに行き着くのだけれど、これは流石にネタを割ることになるので詳述は控えたい。「偶然」……つまり意図しない出会いや別れと言ったものがこの映画を良作足らしめているのではないかと思う。ポール・オースターのストーリーテラーぶりが発揮された一作であると思う。
もしくは「嘘」。この映画では登場人物はよく「嘘」をつく。ラシードは自分の正体をポールに明かさないし、カネを持ち逃げしていることも「嘘」に入るのだろう。先述したポールとラシードが逆転した親子であるという「嘘」もまた重要だ。真偽が定かではないということで言えば、オーギーの娘であるというフェリシティも実際のところ何処まで信じていいかも分からない。真偽が定かではないということで言えば最大の「嘘」の可能性を秘めているのはやはり、最後のオーギーのクリスマス・ストーリーということになるのだろう。
「スジ」ばかりに言及してしまったが、この映画のキモはやはり最後の最後にオーギーが昼食を奢って貰った際に語るクリスマス・ストーリーのシークエンスだろう。カメラはオーギーが語るクリスマス・ストーリーを長回しで、最後には口元をこれ以上あり得ないぐらいクローズアップして映し出す。敢えて回想シーンを挿入させるという小細工はせず(いや正確には、ひと通り終わった後に回想シーンが始まるのだが)オーギーの語りだけで長丁場を持たせることに成功しているのだ。これは言うまでもなくオーギーを演じたハーヴェイ・カイテルの力業に拠るものだろう。聞き手に回るウィリアム・ハートもまた素晴らしい。
なんだかんだ言って結局今回の鑑賞もポール・オースターの「スジ」だけに注目した観方をしてしまったのだが、ウェイン・ワン監督はそんなポール・オースターの描く極めて繊細な「スジ」を損なうことなく巧く活かした映画化を行っていると思う。これはまだ読めていないポール・オースターの作品群も読まなければならないな、と思った次第である。もちろん未見のウェイン・ワン監督の作品も観なければならないわけで、こればかりは来年の課題として見逃して欲しい。ともあれ、最後の最後にトム・ウェイツの「Innocent When You Dream」が流れる一連のシーンはやはり落涙を誘うものだった。
ハーヴェイ・カイテル……個人的にこの俳優を知ったのはこの映画からなので、思い入れがそれなりに深い俳優である。この映画では北野武氏さながら、派手なシャツに身を包んだフットワークの軽そうな、剽軽な中に男のダンディズムを漂わせる役柄を演じ切っていると思わされる。この俳優とはその後テオ・アンゲロプロス『ユリシーズの瞳』やクエンティン・タランティーノ『パルプ・フィクション』でも出会うことになるのだけれど、それはまた別の話だ。そんなに派手な役回りを演じているわけではないが、くっきりと記憶に焼きついて離れない佇まいは流石だと思う。