ストーカー(1979)のレビュー・感想・評価
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もし現実に〝ゾーン〟が存在したら……?
ロシア映画界の巨匠、アンドレイ・タルコフスキー監督が1979年に発表した傑作SF映画『ストーカー』。すごく難解な言い回しが多かったですが、個人的には一番好きなSF映画になりました。
作中は常に静かであり、登場人物は少なく、『2001年宇宙の旅』や『スター・ウォーズ』などのような規模もない。入ると願いが叶う〝部屋〟に向かって、三人の男たちが歩いていくだけ。しかも最後までその〝部屋〟に入ることもなく終わる。何もスッキリしないのに、なぜか他の映画では味わえない奥深さというか、パワーのようなものを感じました。
各所で〝水〟が印象的に使われていて、しかしどれも汚い水なのですが、それが不思議と心地よく、美しく感じます。ひたすらに現実離れした静けさで、瞑想しているような落ち着きを2時間半ちょっと、味わうことができました。
ところで現実に〝ゾーン〟(性格には〝ゾーン〟内にある〝部屋〟)が存在したら? と私はちょっと考えてみたのですが、多分自分だったら勇気を出せず、入ることすらできないと思います。作中で作家が話していたように、「願いが叶う」ということは、「自分の腐った本性を見る」ということでもあるのです。
つまり何が言いたいのかというと、〝部屋〟という名の〝ズル〟で願いが叶ったところで、幸福なんてものはそうそう得られないのだということです。ストーカーの妻の言葉を借りるならば、「苦しみのないところには幸せもない」ですね。
やっぱり願いは自分で叶えるからこそ良いのですよね!(そう言いながらキミは、挑戦から逃げてばっかだよね?)(まぁいいじゃないっすか。失敗するのイヤですもん)
「思うがままに行くがいい、信じるままに。情熱など嘲笑え。彼らの言う〝情熱〟は心の活力ではない。魂と外界の衝突でしかない。大切なのは自分を信じることであり、子供のように無力になること。無力こそ偉大なのだ。力に価値などない──」
──ストーカーの言葉より
評点不可
『惑星ソラリス』を観た時もそうだったが、アンドレイ・タルコフスキー監督によるSF作品は、理解しようとしてもそれを拒んでいるように見える。しかし、ソラリスも本作も「傑作だ!」と言っている人がいるようなので、自分が理解できないだけなのかも知れない。それは分からない。
本作は、あるところに「ゾーン」というエリアが現れて、政府が軍隊を派遣して調査させたが誰一人ゾーンから帰還しなかった。政府はこの謎エリアを厳重警戒区域とするが、ゾーンには望みを叶えるものがあるそうなので、そこまで人を連れていく案内人=ストーカーという人間がいた。ある案内人が作家と教授から依頼を受けて、3人がゾーンを目指すのだが……というのが本作の物語展開。
(※)2枚組DVD、2時間40分超もある映画だったので、かいつまんで記載するとこんな感じだが、詳細までは記載不可。
「ゾーン」ではいろんな現象が起きていて、これが観念的なイメージでよく分からない。
そこに入る前はセピア色、ゾーンの中は色彩ありの映像……これはゾーンの風景を際立たせるためだろうか?
本作は「死ぬまでに観たい映画1001本」に選ばれているが、選ばれた意図は分からなかった。あとで(寝る前にでも)、あの分厚い本「死ぬまでに観たい映画1001本」で本作のページを読んでみるか。それでも分からなかったりして……(笑)
突如現れたという、謎の空間 "ゾーン" を探検したいと、実際に行っ...
突如現れたという、謎の空間 "ゾーン" を探検したいと、実際に行ってみて四苦八苦したり、何を求めるのか錯誤する、男性3人のお話。
映像の美しさ、一般世界とゾーンで彩りが異質、
苦悶して哲学的になる3名、
考えることの多い作品でした。
たしか当時は、ストーカーという言葉の意味は、いわば "探検隊" "お宝探し" ぐらいの位置づけ、いまとは全く異質だったような。
面白いけど長い…163分
長いけど面白かった♪
面白いけど長かった…(笑)
初めて観るアンドレイ・タルコフスキー監督作ですが、
純粋に芸術を作るため、ソ連の検閲に苦しんで、のちに亡命したりと、監督の情報を入れて観たため、
セリフ1つ1つを読み逃すまい、何でもないようなカットでも重要な意味が含んでいるのでは、と注視して観ました(笑)
同じ日に観た監督作『惑星ソラリス』より、コッチの方が好きだし、コッチの方が引き込まれました。
ゾーン…
ゾーンの外はモノクロで、ゾーンの中は色が付いていて…
最後は…意味深だったな…
名作だと思う。
ロシア映画って全部こんな感じか!?
淡々…淡々と進んでいく…
話の筋は望みを叶える部屋を目指して三人の男が冒険する、というアドベンチャーの王道のようなストーリー、がここまでエンタメと対極の作品が出来上がるとは
哲学的な会話とただただ濡れながら足場の悪い場所を進む、芸術性に全振りした作風
ただし廃墟が好きなら話は別だ、素敵な廃墟映像に引き込まれること請け合います
やっぱり長いよ!タルコフスキー!
タルコフスキーは映画館で観ないと全然ダメなので、見逃していた本作も今回やっと観ることが出来た。
とはいえ、2時間半越え、やはり長い…
独自の作家性とは分かってはいても、もっと短く編集していいんじゃね?とずっと心の中で叫びつつ、相変わらずのタルコフスキー体験であった。
世紀末が近づいていた79年頃の終末観は、今観るとちょっと古臭いかな?とも思っていたが、全く違和感が無いどころか、現在でも充分と突き刺さってくる。
長尺なのはさて置き、大枠のプロットの流れは面白かったし、少々演劇的な討論のやりとりも一体どこへ着地するのか?見ものだった。
あの”ゾーン”から戻る直前までは…
帰宅後、結果あんな、ありきたりなインテリ批判じゃねえ… イヤもうガッカリ。
やはり、この作品の肝としては、芸術を重んじる作家も、科学を重んじる教授も結局は、目前まで来て希望の叶えられる部屋に入ろうとはせず、彼らをアテンドした主人公に「大切なのは自分を信じること、幼な子のように無力であること」と言わせた事と思うので、アテンド終了後、敢えて同じ文脈で怒り心頭の愚痴を言わせるというのは、ムダにしつこく、無粋とも言えた。
もっと絶望の中でも見いだすイノセントな美しさの強度みたいなヤツ、そんなの見せて欲しかった。
そういった意味では、ラストにおいて、娘が超能力の直前に詠んだあの詩の世界(純粋な欲望の強靭さ)と上手くリンクさせる伏線は、主人公の言動の流れの中で強く印象に残るよう入れておいて欲しかった。
そうすれば、最後で唐突に列車の振動音に乗っかって流れて来たベートーヴェンの第九も、もっと大いに盛り上がったのではないかと思う。
とまあ、着地に関しては、だいぶ不満足ではあったけど、お得意の水を多用した映像世界は、まさにタルコフスキー印!そのもの!
その点においては、充分過ぎるほど堪能することは出来たのであった。
眠気が、、、
最初から最後までずっと静かなシーンが続く映画。
2倍速いや、3倍速で見ればちょうどいいかも。
とにかく間が長い!
神秘的で世界観もいいし、面白くない訳じゃ決してないんだけど、せっかちな自分には、もうちょっと展開が早い方が好みかな。
【ゾーン】
ゾーンという言葉が、ちょっと特殊な意味を持って使われたのは、僕にとっては、この「ストーカー」が初めてだった。
今では、スポーツ選手が、感覚が研ぎ澄まされる状態をゾーンと呼んだり、結構、カッコいい言葉でもある。
この作品は、惑星ソラリスよりもSF的ではない。
だが、人の内面にフォーカスして、哲学的・宗教的、更に、社会的な要素や視点を含み、エンディングでは、寓話的な教訓もあり、ユニークな映画になっている。
SF自体が、こうした要素を含むことは多いのだが、僕自身は、少し難解な大人向けの寓話だと思っている。
初めて観たのは数十年前だが、DVDも持っていて、半年くらい前からレビューを残すために、再鑑賞しようかだらだら悩んでいたところ、今回、劇場で惑星ソラリスと立て続けに観る機会が訪れるとは思いもしなかった。
シンクロニシティだろうか。
不思議な映画だ。
ゾーンは、実は、僕達の世界のような気がする。
製作当初は、ソ連社会を表現したと言われることもあったが、現代の僕達の世界に通じるものがかなりあると思う。
目標達成のためには、近道を考えるよりも、たとえ地道で遠回りでも着実に努力を重ねることが重要です。
よく聞く教訓めいた言葉だ。
ありもしない困難な道(※肉挽き機)がでっち上げられて、難なく潜り抜けると、あなたは素晴らしい人ですねと言われる。
怪しい物品のセールス・トークのようでもある。
そして、作家、物理学者、ストーカーがゾーンとは一体何か話をする場面もあるが、それぞれに表面的或いは理想的なことを言うが、その裏には何か良くない考えが透けて見える気がする。
ヤマアラシの願いとは裏腹に多額の富を手にしたという、人の心の奥底に潜む「本心」たる願いとは、こういうことだというエピソードは重要だ。
平和、平等、民主主義、様々な理想は掲げられるが、掲げる人間たちこそが反対のことを推進していたりする。
上辺と本心は異なるのだ。
これは、僕達の世界そのもののような気がする。
ただ、映画ストーカーの世界は寓話だ。
「善良な」ストーカーの足の不自由な子供は、善良なストーカーの「本当の願い」を具現化するように、超能力を手にしたのだ。
自由に動ける健常な脚ではなかったが、正直者は救われたのだ。
これは、僕達の世界に対して、映画が提示した希望なのかもしれない。
墓荒らし
タルコフスキーは奇人だが、この妙な話に原作者がいたのだから上には上がいるものだ。
ストーカーというのは墓荒らしのような意味にとらえれば良いのでしょう、王の墓の代わりに宇宙人が遺して行ったゾーンと呼ばれる立ち入り禁止エリアにお宝らしきものがあるらしい、今も昔もお宝目当てのけしからぬ輩は居るものだし、タタリのような奇怪な出来事がチラツクのもお約束でしょう。
映画では主人公のゾーン案内人は同じだが客は作家と学者に変えている、ストーリー性は横に置き、未知なるものへの好奇心と恐怖感を映像化することに徹している。その辺は怪しいセットや水の多用、色彩の変化などタルコフスキーの映像作家たる本領発揮、難解な哲学的セリフの応酬もいつものこと。したがって理屈でなく妖しさを感じれば良いのだろう。
原作では主人公の娘は猿化するタタリにみまわれるらしいがホラーになるので避けたのだろう、最後に娘のテレキネシスを見せるのは高尚なSF感が欲しかったのかも知れませんね。
訳がわからない上に2時間44分の長回し、タルコフスキーのコアなファン以外は関わらない方が良いでしょう。
映像美と哲学的テーマを理解できるかどうか
難解。とにかく難解。
哲学的なメッセージが込められているのだと思うけど、まだ私には理解しきれないなという印象。一度見ただけで全てを掴みきれる気はしなかった。
二度目が見たいかというと………
映画の内容自体は、
おっさん三人がゾーンを目指してひたすら歩いてくだけであるし、時間もかなり長尺なので途中から我慢大会のように感じた。
でも、映像はとても個性的で見る価値はあると思う。
終始、殺伐として閉鎖的な雰囲気を感じさせる映像には惹かれた。
ただ、
結局、ゾーンって何?みたいな所があるので、鑑賞した後はとてもモヤモヤした。
むかしストーカーとはこの映画のことだった
ストーカーという用語が一般化した当初、タルコフスキーが脚光を浴びていると勘違いしたことがある。
ストーカーの呼称が無かった時代──おそらく80年代の半ばまで、それは変質者とかしつこい奴とか変態などと呼ばれていた。もしその当時誰かがストーカーと発言したなら1979年のソビエト映画を指しているはずだった。
ただ一般に使われるストーカーとは意味が違い、映画では「案内人」という意味があった。
日本ではタルコフスキーといえば惑星ソラリスだが英語圏ではストーカーが同監督の代表作と見なされている──という記述を昔どこかで読んだことがある。同監督中imdbランクもトップで、母数も10万人を越えている。
個人的には僕の村は戦場だったがいちばんいい。二ばん目は鏡で、三ばん目はノスタルジア、四五番がサクリファイスと惑星ソラリス、ストーカーはその次だった。
これは解り易さの順番でもある。と言っても解らない話ではないが、大人になると、まどろっこしい話が面倒になる。若い時分ならアート系に与し得た気分が、年を経ると、もったいぶって見える。それはおそらく、誰にもあることではないか──と思う。
昔はアントニオーニもベルイマンもアンゲロプロスも楽しく見られたが、もう、そんな気分にはならない。──とは個人の気分だが、そもそも時代だってそうではないか。示威か懐古趣味で長回しする監督はいるだろうが、長回しに根拠がなければ、長回しに意味はない。アートを大資本に乗せているのはもはやテレンスマリックくらいなものだろう。時代である。
ロシアのSF小説にもとづく話。
隕石が落ちた一帯に怪異現象が発生し、ゾーンと呼ばれ、軍の管理下で立入禁止区域となる。
そこを案内人=ストーカーと教授と作家、三人の男が行脚する映画。
ゾーンは廃屋や瓦礫をふくむ野原である。そこは美しい場所だが、もし設定を外すなら、三人の男が野原や廃墟を歩いて行く──だけの映画である。
かつて人に使われていたものがうち捨てられている。それら雑多な滓か澱か塵のようなものの集積を、近い俯瞰でゆっくりとパンする撮影がよく使われる。
ロケーションには特殊効果が使われず、撮影用と思える敷設も最小限にとどまっており、ゾーンは殆どただの荒れ地である。
そこには水と草木と泥濘と苔むした廃墟と静寂のほかには何もない。
ゾーンを生きて通過できるのは善人だけ──とされている。ただ「善人」とはゾーン側の判断基準である。ストーカーはナットと包帯でつくった道標を投げつつ、迂回しながら、怖々と進んでいくが、我々から見えるのはただの原野だ、観衆はそこで最初に試される。
道中、三人は観念的な低回をする。それは俺たちはなぜ生きているのか──系の問答で、そこでもまた試される。
試されるのは、好奇心かもしれないしリテラシーかもしれないが、いちばんは眠気であろう。
rottentomatoesに映画を表した寸言があった。
It's a film that challenges us to be bored, while refusing to be boring.
作家は人生が退屈なものだと感じており、変化か刺戟をもとめて、ストーカーに案内をたのんで、ゾーンに入ってきた。教授にも、体制への不満があった。いうなれば退屈を拒否しようとしていた。ところが、男三人が原野を歩くのは、いくらタルコフスキーの画面が充溢しているとはいえ、退屈なものだ。
「退屈することを拒否しながら、退屈するように私たちに挑戦する映画」とは正にその通りである。
長い道中は布石であって、重要な寓意はない。できれば我慢をお勧めする。ラストにストーカーの娘が特殊能力者であるかのような描写がある。その描写を通じて、人は答えや刺激や幸せなどなどを求めてゾーンを探求するが、あんがい奇跡は身近にいるものだ──という話だと個人的には思っている。
芸術もどきの、深層心理かぶれ
何か人間心理の真理を追究しているふりをしていますが、それは幻想であり、都市伝説というものでしょう。
ロシアらしいと言えば、閉塞した世界で伝染しそうな考え方です。
これは病んでるかどうかのリトマス紙みたいな映画かもしれません。
弱った心にはつけいる隙があるから。
設定は面白いが今観ると少し退屈
ゾーンと呼ばれる未知の領域が発生。その領域にある部屋に行けば望みが叶うと知った男たちはゾーン内に踏み込み…。
1979年のソビエト映画。情緒的すぎる長回しが今観ると退屈に感じてしまうが、ゾーンの設定や哲学性は現代にも通じるとすら言える作品でした。
『アナイアレイション-全滅領域-』あたりは間違いなく今作の影響を受けていて、様々な考察の余地が残り設定は面白かったです。
その実、共産主義政権批判と信仰の擁護
タルコフスキー節
美しい水、もや、色彩、構図・・・・それは変わらない
映画のテーマは共産主義政権下の旧ソ連への体制批判
そして共産主義に於いて否定された信仰の力と希望の主張だ
映画は科学と芸術のエリートの視線からも
名も無き大衆の視線からもそれを訴えかけている
荒漠たる不合理で危険に満ち鉄条網で厳重に封鎖されているゾーン、それは共産主義ソ連の当て擦りだ
願いが叶う部屋は共産党の暗喩だ
収容所送り、下手すれば命すら危ない
当時のソ連の中でこれを表現する映画を撮ることはそれを意味してる
そして共産主義において否定されている信仰こそ絶えさせてはならない
それが精神の自由への道だとの強い主張を行っている
SFの体裁で自国ソ連の共産主義体制を強烈に行っている映画なのだと思う
ただ余りにも冗長過ぎた
苦行ですらあった
それもまた監督の狙いか
そのような中に共産主義ソ連の体制内で我々はそのような人生を暮らしているのだと
そしてあきらめろと
エリートたる教授も作家も願いが叶う部屋には結局楯突けない
作家は取り込まれることを恐れ
教授は爆破を試みながらも自ら断念し、
大衆たるストーカー自身もそれを阻止しようとする
女房はこれもまた運命だ仕方ないと独白する
ものを考える力と行動の自由が不自由な娘はソ連の国民だ
見つめて念じるだけでコップを動かす超能力が有るかのように見えて、実はそうではない、見てるだけ考えるだけで全く無力でしかないのだ
ソ連共産党政府の強大な国家権力のメタファーたる長い列車が驀進して通過してゆくのに何ができるというのか?あのコップのように震えるのみだ
それを冒頭と終幕で長々と見せつける
それでもそこで女房と娘を肩車して生きて行くしかないのだ
肩車は家族への責任が政治的な重荷であり理解してほしいとのメッセージだ
そしてゾーンから連れ帰った従順な犬
それはこの映画を見た当時のソ連国民だ
タルコフスキーのニヒリズムと宗教批判
人類の存在意義は芸術を創造するためであり、科学はその2次的な要素に過ぎない、といった無欲さが人類の本質であるとした上で、真理の探求は無意味かつ錯覚であるという、ニーチェ的ニヒリズムが展開される序盤。
しかし、音楽がそのような機械的に作られるものであるとするならば、人の心に直接響くのは何故か?身体の何が喜び、共鳴し、感動するのか。それは何の為であるか?それは無欲であるはずがないだろう。全てには価値と理由があるはずである。そうして彼らは自らのそれを「ゾーン」に求めたのだ。
彼らを待ちうけた「ゾーン」は、つまり「精神の反映」である。水辺に火があったり、あり得ない近道があったり...それは理解を超えた、人間の幻覚が生み出す超現実的な領域である。願いを叶える「ゾーン」の本質は「無意識の望みを顕然させる」というものであった。無意識を顕然させると人間の本性と直面する。
しかしそれは本当に望ましいことだろうか?自らの本性を認識することで、自己嫌悪に苦しむかもしれない。或いは、たとえ奇跡によって苦しみが取り除かれようと「幸せというだけでは淋しい、爽やかというだけでは淋しい」のである。奇跡があろうと、苦しみがなければ幸せを実感できない。彼らは、運命を受容することを決意する。
そこで彼らは「ストーカー」が「ゾーン」に取り憑かれ、崇拝し、禁欲主義的な偽善に毒されていることに気がつく。キリスト教と同様、奇跡は人を真に幸福にはしない(奇跡の有無に関わらず)。彼らは自らの弱さを武器に虚偽を流布する狡猾な人種である。これはニーチェの痛烈な宗教批判からくるものだ。
という、『ノスタルジア』『サクリファイス』にも通ずる、タルコフスキーによるニヒリズムを描いた作品だ。しかし、痛烈な宗教批判の印象が、美しい強度をもつ映像体験がその存在感を薄めている様な気もして、そこはやや残念に感じる。
極めて散漫な文章となったが、SFでありながら現実世界を主題とするあたり、タルコフスキーの現実への愛がうかがえる。
神を信じようとする男、神の恵みに生きる女
このフィルムに登場する人物の立ち位置は様々だ。
神を信じようとする男
神の恵みに生きる女
神を疑う作家
神のことなど考えもしない教授
そして神に遣わされた子供だ。
正直このフィルムを星の数で評価するなどとても無理だ。だから敬意をこめてせめて星5つを献上したい。
初めから終わりまで、このフィルムが映し出す絵には隅々まで生命がうごめいている。寡黙にしてただそこにあるだけのものを、カメラを通して見つめたとき、言葉にならない訴えを身体じゅうで受け止めることになる。
水の中に沈んでいる宗教画、コイン、そして拳銃、、、それをカメラはじっと写し撮る。なぜ、水の中から拾い上げない?このフィルムは、それらすべてが世俗的な意味のないものだとでも言いたいのだろうか?
疑問はまだ続く。なぜ、三人は三人とも"部屋"に入らず、引き返してきたのか?作中では作家が「自分の腐肉など見たくもない」とはっきり言った。しかし、作中の理由がそうであっても、それはフィルムとして"部屋"に入らない理由にはならない。神秘は神秘のままに残しておくのが正解なのか?それとも、作家の言うように"部屋"の持つ神秘性のメカニズムを論理的に瓦解させることに成功したからだろうか?
この映画の最後、、、口もきけず、歩くこともできない子供がテーブルのコップを、手を使わずに動かし、床に落下させる。そしてそのタイミングで近くを通過する列車が、その振動でテーブルに残ったコップをゆらす。
超能力も、列車の振動も、ともに机上のコップを動かしたり揺らしたりすることの出来る力を持っている。
なんのことはない。答えはすでにそこにあったのだ。危険を冒してゾーンにいかずとも、人々が求める救いであり、論理であり、力であり、それらは全て一体となった形で、我々のごくごく目の前にずっと存在していたのだ。はるばる探し求めた幸せの青い鳥が、実は家の鳥かごの中にいたというストーリー――それが真実であるということを、このフィルムは3時間近い尺を使って、ずっと我々に訴えていたのだ。
このDVDのジャケットには「未来の希望」という一節がある。見ようとさえすれば、本当に求めているものはすでにそこにあるということを、言おうとしているのかもしれない。
最後に全体を振り返って見ると、この世に生きていること自体がすでにセンスオブワンダーということなのかもしれない、と思えた。
再会
こういうエンディング、大好きです。
色は、主人公の希望なのか。それも意識しているいないに関わらず。
妻の独白もそれを裏付ける。不幸とは、幸福とは何か。科学者、作家、ストーカーが語りを繰り広げる。
映画は、哲学映画、宗教映画という感じ。廃墟の中で延々と語られる言葉。
原作「ストーカー(原題「路傍のピクニック」)」もハヤカワSFで購入して読んだが、確かにだいぶ違っている。自分にとっては、両方とそれぞれ楽しめるものだったので、得した感じだった。
小説は、宇宙人が通った後に、悪意も善意もなくただ少し散らかして行ってしまった物達が、地球人にとっては、全く理解できないが便利だったり恐怖だったりという状況を描いている。それまでのSFでの宇宙人は、攻めるにしろ友好的にするにしろ、少なくとも地球を見ていた。しかしこの小説では、そこに地球があったことすら認識しているか怪しいのだ。
映画は、そちらのメッセージは大胆に削り、もうひとつのメッセージである、幸せとは?の方を中心に据えて、ゾーンと神を重ね合わせながら語っていく。
だから登場人物は、学者、作家(芸術家)、ストーカーすなわち宣教師なのだ。ほんとうに始まりの宣教師は、ストーカーのように神の元へ案内するだけの者なのだろう。学者、作家が、ゾーンに対してどのような姿勢をとるかは、観てのお楽しみ。
小説の方も、未知の科学技術を凝らした道具がいろいろ(話に)出るんだけど、淡々と静かに流れる。道具は話されるけど姿を見ることはないから。それでも小説はスリルを切り抜ける盛り上がりもあり、SFだった。映画は、そういう部分を極力排除した脚本で、人生観についてつきつめていく。
学生時代に名画座で観た本作品に30年ぶりに再会。20歳の自分が、「最高の映画のひとつだ」と感じた気持ちを思い出した。若さならではの面があったんだなあ。今は4.5にしておきます。思い出させてくれて、アップリンク、ありがとう。
疲れた。
退屈で疲れた眠かった。
一応ゾーンの部屋というゴールがある旅なので、例の部屋に入ったらどうなるんだろう、ハッピーエンドか、はたまた破滅か?と色々想像膨らませていたが、そんな想像をした分だけ疲れた。
どうでもいいから、とにかく部屋に入っちまえよ!と言いたい。
人間の真相心理的な希望を叶える部屋…ゾーンという特殊な設定を用いることで、人間の幸福とはなんなのか、自己実現とは何なのか、そもそも自分の根元的な欲望は何なのかを把握しているのか、そしてそれを叶えることは幸せを意味するのか…
等々、ゾーンに向かうメンバーで話し合い、あるのか分からん真理を追及することが主題になっている。
惑星ソラリスも、人間の後悔やトラウマ的なものを具現化する惑星、という哲学装置を用いて、愛とは何か、幸福とは何をもって幸福とするのか等議論をしていく映画であった。
そういった点ではよくにている映画。
ただ、ソラリスよりも雑多でとっちらかった感があり、最終的に放り出された感じがあって納得できなかった。
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