「罪を犯した者に救済はあるか?」処女の泉 Chemyさんの映画レビュー(感想・評価)
罪を犯した者に救済はあるか?
牧師の家に生まれ、神と対峙してきた20世紀最後の巨匠ベルイマンの代表作の1つ。沈黙する神に対しての贖罪という形而上学的なテーマのもと、極めて冷静に描かれる中世北欧の生活。敬虔なキリスト教徒である豪農一家に降りかかる過酷な運命。物語は、身重の娘が土着の神オーディン(キリスト教徒からすると異教であり邪教)に祈るシーンから始まる。彼女はこの家の使用人インゲリ、やがてお腹の子は私生児であることが分かってくると、キリスト教=純潔VS異教=不実いう構図が見えてくる。インゲリはこの家の一人娘カーリンに嫉妬し、彼女に災いが降りかかるよう、オーディンに祈っていたのだ。結局そのためか、カーリンは教会へ寄進に行く途中、山羊飼いの兄弟にレイプされたうえ撲殺され、あげくに身ぐるみはがされる。このスキャンダラスな内容は当時物議を醸したようだが、ベルイマンが描いたのは、犯罪行為そのものではなくて、これに付随した人々の罪と罰だ。本作に登場する人物はそれぞれ罪を犯し、(神を通じて)人の手によって罰せられる者と、罪を告解し許される(?)者がある。罰せられるのは当然娘を犯して殺した山羊飼いの兄弟。彼らは神の導きによってか、犯罪の後、一夜の宿を殺した娘の家に求めることになる。欲に目のくらんだ兄弟は、娘の着物をそうとは知らず、その母に売りつけようとし、自らの罪を知らしめてしまう。よってその父に復讐のため殺されるのである。この兄弟が罰を受けるのはある意味当然だが、犯行に一切関わらなかった幼い末の弟も、父の怒りのままに殺されてしまうのだ。兄たちの恐ろしい犯行に怯え、兄弟の中でただ1人罪を意識していたはずなのに・・・。この末弟の殺害が父の罪となる。父は大きな過ちに愕然となり、何故神がこの罪に対して沈黙しているのか疑問に思う。しかし彼は神に対する疑問すらも自分の罪と思い、娘の死んだ場所に教会を立てることを誓う。嫉妬のままに異教の神に祈ったインゲリと、愛娘を溺愛しすぎた母も、それぞれの罪を告白し、神の許しを請う。
さて、これらが罰を受ける者と許しを得る者たちであるのだが、もう1人罰を受ける者がいたことを忘れてはならない。何をかくそう被害者カーリンその人だ。本作を観る前の知識では、タイトルどおり、カーリンは清らかな乙女なのだと思っていた。しかしカーリンは母の溺愛のもと、わがままに育ち、怠け者で自分の美貌をひけらかしている。日曜日でもないのに、晴れ着を着て美しさを誇示する彼女に罪はなかったのか?インゲリが呪うほどの驕りは罪ではなかったのか?彼女が山羊飼いに襲われたのは、無垢なせいではなく、単なる世間知らずのせいだ。彼女がインゲリほど世間を知っていたら、1人で森に入り、知らない男に声をかけることはなかったのだ。ではカーリンに災いをもたらしたのはオーディンではなく、彼女たちが信じる神だとしたら・・・?もしそうなら、娘を殺した犯人に復讐すること自体神に背くことになってしまう・・・。
しかし乙女の死骸のあった場所から泉が湧き出るラストシーンで、神の存在に疑問を持った者や、異教の神を信じていた者などが、聖水に触れて救われることを考えると、ベルイマンの真意が解らなくなった。そう思って資料を調べると、このラストシーンは制作サイド側からの要求で付け加えられたものだとあった。キリスト教徒からの批判を恐れた結果かも知れない。そうなるとやはり私が考えたとおり、ベルイマンの描きたかったものは、宗教による救済ではなく、沈黙する神への怒り=宗教に対する疑問や警鐘だったのではないか。この他の「神の沈黙」シリーズをまだ観ていないので、一概に結論は出せないが、本作を観ての個人的な感想は、罪に対する罰は、神によるものではなく、自分の心にあるということ。自分自身を許せるか、許せないかということなのではないだろうか・・・(自分自身を許せないと死ぬまで苦しまなければならないが、自分を簡単に許してしまっても、後々苦しむ羽目になる。結局罪を犯した者に救済はない・・・)?