市民ケーンのレビュー・感想・評価
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アレックス・シアラーのスノードームはこの映画をリスペクトしている?
ネタバレあります。
マスコミが市場経済に毒される姿を、赤裸々に描いたドラマだと思う。
現在のアメリカ大統領選挙戦とかと酷似している。つまり、第二次世界大戦中に制作された話としては、実によくできた話だと思う。
『薔薇の蕾』とは『スノードーム』で、『スノードーム』の内側の世界は、市場経済と言う一見華やかだが、閉塞したアメリカ社会を意味している様に感じた。
『薔薇の蕾』を含めたガラクタを燃やす煙が、アメリカ大陸の様に立ち上っている。アメリカ資本主義の生み出す余剰なガラクタが、人民の幸せとあいまって灰と化している。
まぁ、そんな事言っているのかなぁ?
スーザンのアリアを決して良いものだとは思っていなかった。しかし、新聞では褒めなければならない。その矛盾に身を滅ぼす、と言った単純なストーリーなのだが、オーソン・ウェルズの凄い所は、この映画の演出にある。つまり、
この映画の存在は時代は超越しているが、演技もオーバー出し、ストーリー展開もチープだし、笑いもなければ、サスペンス性も無い。カットごとのショートコントの寄せ集めの様だ。ハッキリ言うと僕は駄作だと感じた。がしかし、オーソン・ウェルズの凄い所は、それを知っていて、演出を続けたのではないか。と言う事だ。
僕の鑑賞は二回目たが、途中眠くなって、3時間かけて、やっと見た。
オーソン・ウェルズの心の中は、この映画と宇宙戦争は、同じだったのではないかと感じる。つまり、見る者、聞く者をいかにコントロール出来るかを楽しでいたように思える。その観点で見れば、この映画が名作である必要は無い。寧ろ、名作ぽい駄作である必要がある。つまり、鑑賞者を『宇宙戦争』の様に騙しているのである。
『マンク』とか言う映画を一年くらい前に見て、半分以上寝ていたが、オーソン・ウェルズの脚本ではないと知り、チープなストーリーを名作っぽく作った努力は認めたい。
アカデミー脚本賞との事だが、まゆつば。寧ろ、監督賞だろうと思った。
「薔薇のつぼみ」の意味することは。
まるで歴史的映像集を見ているかのような、全て史実と錯覚してしまう凄まじさ。「フォレスト・ガンプ」を連想しましたが桁の違いを感じます。古典的名作だからこそ出来た豪快な映画でした。
しかし、ストーリーは一貫したテーマ、「薔薇のつぼみ」とは何だったのか。最後に焼却されたソリがそうであったということですが、それの象徴するのは何のことなのか。私はそこが重要では無いかと感じました。「薔薇のつぼみ」、息を引き取る間際だけでなく、妻に逃げられ、部屋を荒らし、しかし、息を引き取る間際まで手にしていたガラス細工を手にした瞬間も思わず呟いた「薔薇のつぼみ」。
私はそれを「最初に失った物」と解釈したのですが、如何でしょう。まるで全世界の王、全ての富を得たかのような彼にとって、心に刻まれていくのは「失った物」。であるからこそ、妻を失った間際もまた、思わず呟いたというのが私の解釈ですが、如何でしょうか。
豪快にして繊細な素晴らしい映画でした。それにしても、最初と最後に流れるお城の映像は凄いなあ。立ったまま入れる暖炉なんて初めて見た。
見た後の哀しさがとまらない
薔薇の蕾の謎を追って花びらをめくるように
メディアの視点から身内の視点へ、外側から内側へケーンという花をめくっていったら何もない空虚に辿りついてしまった様で哀しさが込み上げてきました。
剥いていったら玉ねぎみたいになっちゃったよ。
蕾の神秘性はめくれば無くなり、花が開く過程の人生の成功と鮮やかさは大輪の花の様で、人が離れていく過程も鮮やかな転身から最後の1枚の哀れさまで。映画一本が人生の花を見ているようでした。
人は心の中に中に自分自身の真実を求めがちだけど咲いて終わる過程が生き様でその人の形なんでしょうね。
途中ケーン自身が自分の子を手放しているのが気になって、その子もケーンと同じようにある日突然父親に捨てられたと思って生きていたら莫大な財産が舞い込んでくるんだろうなと思うと因果は形をかえて続いていくのかもしれないですね。
親は何かしらの空虚な希望を子供にいだかせ、それがまた新たな蕾になるのなら花が咲いたら実ががみのるという事で哀しいながらも救いはあるのかも。花を咲かせる人生ってそういった蕾の中心の虚みたいなものがあるのかもしれないです。まあ、妄想ですが。
なんともセンチメンタルになる一本でした。
ケーンという人物に、丁寧に触れるような作品構成が良い。
〇作品全体
チャールズ・フォースター・ケーンという超セレブな新聞王について、ケーン自身が自らを語らずにケーンの本当の姿を探っていく。ただ、その姿は全体像ではなく、誰かの語り口が間に挟まっている。
過去の人物を特集する実際のドキュメンタリーなんかではよく見る手法だけれど、(モデルの人物がいるといえど)物語の中でそれを表現することも面白かったし、同じシーンで別の人物の視点から語る…といったような演出も印象的だった。
ケーンがスーザンやリーランドから「相手に求めるくせに自分からはなにも与えていない」ということを言われるシーンが多々ある。別の立場の登場人物でありながら、それぞれが「ケーンはこういうやつだ」と話すことでケーンの実像が見えてくるように感じるが、これは「対人関係におけるケーン」という限定的な状況でのケーンであって、一人ぼっちでいるときのケーンを知る人は誰もいない。
作品の中の登場人物でありながらその人物の実像を知らないまま終わる。神の目線で見ているはずの観客ですら、登場人物の伝聞でしかケーンを知ることができないわけだ。そのブラックボックスこそがケーンが実際に生きていたように感じられ、ケーンが自身の葛藤を語るよりも「ケーンが抱えたなにか」を想像してケーンに寄り添うことができるのだと思う。
ただ、唯一観客が神の目線でいられたシーンがあった。ラストのソリが燃えるシーンだ。作中でポイントになる「バラのつぼみ」について、ある人は過去の妻のことだと思い、ある人はそうではないという。「たまにおかしなことを言うから」と流してしまう人もいて、最終的に「人生は一言で表せない」というトンプソンの言葉で「バラのつぼみ」の探求に結末が訪れてしまう。ただ、幼少期に使っていたソリに書かれていた言葉ということであれば、そこには「郷愁」や「母との別離」、「孤独」という言葉が浮かび上がる。「孤独」や「他者からの愛」は作中でも触れられている部分ではあるが、その根幹に触れられたものはなかった。その誰も知らない、もしくは忘れられてしまっているケーンの感情に、一番最後に触れるのは神の視点で見ている我々だ。ケーンに直接答えを聞いたわけではないが、作中の人物たちよりもケーンの原点に触れることができるラストシーンの絶妙な距離感がとても良い。
饒舌に、そして明確に語られるわけではないが、ケーンが抱え込んでいたものの終わりを見届けるようなラスト。登場人物だけが経験した「ケーンとのかかわり」と私たちだけが経験する「神の目線」、そのどちらに偏ることなく、手の指先でケーンの真実をなぞるような丁寧な作品構成が強く印象に残った。
〇カメラワークとか
・ローアングルや長回しも確かに印象的だったけど、一番はオーバーラップの使い方。冒頭のザナドゥ城のシーンからオーバーラップを続けていたけれど、ケーンの寝室を外から撮って、オーバーラップで窓の位置はそのままに屋内のカットに繋げているのがすごかった。
部屋の外からドアを開けて閉めて、ドアのアップショットで部屋内のカットに繋げる、とかもやってて、カット割りがめちゃくちゃカッコいい。
最近の作品のオーバーラップってスケールの大きさを演出するときに使われることが多い気がする。遠景のカットをオーバーラップでつなげて、世界観の広さだったり、舞台の派手さ、豪華さを印象付けたい、みたいな。7,80年代までの映画だとカット繋ぎでめちゃくちゃカッコいいオーバーラップがあったりして、カット割りの多様さを目的に使ってる感じがする。
・ケーンまわりは孤独を演出するカメラワークが多かった。新聞社を買収したときにパーティで一人ダンスを踊るケーンのシーンで、リーランドがバーンステインと今後の経営を不安視するカットがあったけど、ここでは二人の奥でガラスに反射するケーンが映る。そして話の終わりにガラスに映ったケーンにタバコの煙がかかる。「先行き怪し」をガラスを使ってうまく演出してた。
○その他
・大富豪としてたくさんのものを手に入れた人物が実は孤独だった…みたいなのは2022年ではありきたりだなあとは思う。ただその孤独の描き方ってすごく大事だなと思う。本作はそれがすごく上手だった。リーランドへ解雇を告げるシーンの冷め切った会話、スーザンとのザナドゥ城での距離感、スーザンが去って行くのを見つめる後ろ姿…その場の空気感だったり、立ち姿で見せる空虚な感覚が巧い。
ケーン自身が孤独を訴えるシーンも結局スーザンとの別れのシーンくらいだし、ケーンが独白できない構成でセリフで訴える場面が少ないから、尚更その場の空気感とかが重要になってるんだろう。
1941年、迸る才能
オーソン・ウェルズ、25歳のデビュー作に感服。画面展開・アングル・遠近感・モンタージュなど塩蔵編集など、今ではみんなやることだけど、当時は追いつけず否定的だったようだ。
冒頭から20分、ホラー映画のような導入部は、そこから始まるケーンの人生の不気味さと通じている。
財産・勝ち負け・城や彫像といった資産と、彼が得られなかった愛や友情・心からの賞賛・名声。小市民には貧乏でもこれよりは幸せという安心感か。確かに、倉庫に開梱されていない美術品が並ぶシーンの虚しさは哀れをさそう。
2人目の奥さんと末永く幸せになるとか救いが全くなく、妥協しない徹底さがいさぎよい。とにかく。この時代でこれだけの作品、ネットワークを制する者が勝者という構図を予想した先見性は秀逸。
皮肉にもそれがあだとなって、新聞王ハーストに妨害され、審査員の忖度も相まって賞レースから落ちているが、記憶に残る作品であるのは間違いない。
映画史上最高傑作と呼ばれる理由は一目見ただけじゃ分からない
【このレビューは書きかけです】
「映画史上最高傑作」として名前を知られる本作。10年ごとに発表される英国映画協会の歴代映画ランキングでは5回連続で第一位にランクインし、AFI選出の歴代アメリカ映画ベスト100でも第一位となっており、名実共に「映画史上最高傑作の映画」です。
しかしながら、映画レビューサイトを観てみると、そこまで評価が高いようには見えません。私も本作を鑑賞して抱いた感想が「確かに面白かったけど、普通の映画」でした。
鑑賞後に本作について調べてみて納得しました。『市民ケーン』は、現代映画まで続く「普通の映画」を作り上げた革新的な映画なのです。本作が史上最高の映画と呼ばれる所以は、当時の映画事情や時代背景を含めて考えることで理解することができます。
本作を鑑賞して「普通の映画だった」と感じた方々。どうかそこで思考停止せずに調べてみてほしい。インターネットやYouTubeという文明の利器を使えば、何故この作品が史上最高の映画と称えられているのかを理解できるはずです。
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大富豪の新聞王であるケーン(オーソン・ウェルズ)が、「バラのつぼみ」という言葉を残してこの世を去った。ニュース映画を製作していた編集者たちは、彼の遺した言葉の意味を突き止めるために、彼と生前交流があった関係者たちにインタビューをして回るのだった。
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今では当たり前の技法が多く、当時見たら紛う感動があったに違いない映画。
今では当たり前の技法が多く、当時見たら紛う感動があったに違いない映画。
駆け抜けた人生〜愛おしい記憶
がむしゃらに生きた新聞王チャールズ・フォスター・ケーンの生涯を描く。
監督、主演を務めたオーソン・ウェルズが、撮影当時25歳とは…。驚きでしかない。
二人目の妻スーザンが、オペラのレッスンを受けるシーンが軽妙。ー「 ムリなものはムリ!」
思い起こす人生のワンシーンは、人それぞれに違うのでしょうね。
ー人生はひと言では表せない
NHK-BSを録画にて鑑賞 (字幕版)
今は昔のドラマツルギー作品とマクガフィン
内容は、アメリカのザナドゥと呼ばれた新聞王ケーンの人生に光を当てた物語。好きな言葉は『薔薇の蕾』でこの言葉を中心に話が進められ一体!?薔薇の蕾と何だったのかと考えさせる辺りは脚本の上手さを感じます。この時代から根強く残る演出法ではありますが素晴らしい。場面やシーンでは幼い父との確執と大人になったケーンとの皮肉なまでの類似性を表現する辺りが面白かったです。降って沸いた様な富豪生活の興亡は観ているものの気を惹き最終的には、1人の人として市民として幸せとは呼ばなかったかも知らない人生に自分を重なり考えさせられる辺り脚本の手本的作品です。
とんでもない予算をかけて作られた映画だと分かったけれど,今の時代に...
とんでもない予算をかけて作られた映画だと分かったけれど,今の時代にこれを見てそれほど感嘆するべきことがあるのかどうか自分にはわからない.野心と志を持って財を成した人物が,実は自分がかわいいだけであると周囲の人々から見透かされてしがない生涯を終えるという話はそれほど珍しく盛んなくなってしまった.女性を美しく撮影するような光の当て方と,ケーンの顔を切り取るように光と影が横断しているところは面白いと思ったけれど,それ以上に映像として印象深いところはないかな.Rose Budという言葉は結局幼少期のサッチャーに引き渡されたシーンに回帰して,すべての始まりだったあの別れが無ければというたらればを回想したという話だったのかもしれない.
実在の大物実業家の心理を探求
激しいジャーナリズム戦争を巻き起こしたメディア王の生い立ちをミステリーのようにたどることで、何が彼をそこまで追い立てたのか、その心の内を明らかにしていった意欲的な作品。実在の大物人物を扱うのはなかなかできることではない。25才と若かったからできたのかも。ラストに明らかになるオーソン・ウェルズの出した結論には納得だった。
技術的には映画の教科書とされているそうだけど、主人公の老け顔がメイクで上手くできてること以外は特に意識しないで見てしまった。
🌹rosebud🌹
本作はトランプさんのお気に入りの一本だそうで。
幼い頃にコロラドの親元から離れ、銀行家Thatcherを後見人として育ったKane。
一応育ての親であるThatcherに対して常に反抗的なのは、愛する母親から引き離したということだけでなく、ThatcherがKaneのことを、あたかも投資か財産を管理するように扱ったのでしょう。
資本主義の搾取に反発するかのように始めた新聞社。民衆の味方のように見えたのも束の間、権力に目覚めてしまう。
新聞とラジオを通して世論を意のままに動かし、選挙に絶大な影響を与え、戦争まで引き起こす。
しかしどんなに権勢を誇っても、結局金で雇われた人間だけがKaneに忠実であり、家族や友人は、一人また一人と彼の元から去って行く。
新聞社の従業員達から温かく迎えてもらえていた頃が一番幸せそうに見えました。
金に物を言わせてブイブイやりたい放題…という露骨な描写は多くないので、Kaneがそれほど嫌われ者には見えなかったのですが、唯我独尊というのか、彼が他者を気遣って決断したことは、Susanのリタイアくらいでした。
愛さないから愛されないという感じで描かれていますが、Kaneは愛された記憶が乏しいから、正しい愛し方が分からないのですね。相手が何を望んでいて、どうしたら喜ぶかという視点が欠けているのです。元はと言えば彼の母親も、子供が望むこと(母親と暮らすこと)より、母親が子供に望んだこと(ダメ親父から離れて経済的に成功すること)を優先しました。そしてThatcherが示した「愛」の証は、恐らく一方的な贈り物と、良かれと思って勝手に敷いたレール。Kaneも妻達に同じような態度を取り続けました。
一人息子の死を嘆くシーンがないことが不思議でしたが…、このことも彼の薄情ぶりを表しているのでしょうか…?
そして“rosebud”が何を示すかはKaneと観客のみが知ることとなりました。
死ぬ間際まで握っていたのは、コロラドの実家を彷彿とさせるスノードーム。
南北戦争ごっこに雪だるまと、積もった雪で遊んだ日々。
Kaneが最期に思い浮かべていたのは、間違いなく故郷でしょう。
金持ちなんかになる前の、両親と一緒だった頃の楽しい思い出は、金では買えない、かけがえのない宝物。
見えないけれど、確かに自分を包んでくれていた母の愛。
最後に出てくるソリは、母親の遺品の中にあったと推測されます。
つまり、息子が持って行けなかったお気に入りのソリを、母親は死ぬまで大切に保管していたのです。
母親の死後、倉庫に集められた遺品を確認しに行く途中でSusanに出逢いましたので、Kaneが一人で遺品を懐かしむ時間を持てたかどうか定かではありません。
母親が、あのソリをどれだけ大切にしていたか。
それをKaneが理解していたのなら良いのですが…。
沢山の高級品を所持しても、心の穴は埋まらない。
家も心も整理しなければ、本当に大切なものを見失ってしまいます。
Kane亡き後、城に残された凄まじい量の物品が、癒されなかった彼の孤独を物語っていました。
Kaneの訃報を伝える媒体がモーションピクチャーというのが、新聞・ラジオに代わる新たな主要メディアの登場と感じました。
老化の特殊メイクは少々不気味な時もありますが😅、なかなかのものですし、新人ばかりで撮ったとは思えない出来栄えです。詳しいことは分かりませんが、カメラのアングルが大胆で洒落ているなと思いました。
ただ映像の古さは否めず、人物の顔は影になると判別が難しいです。
最後の記者集団でパイプを吸っている男は”Shane” のAlan Laddらしいですから、確認してみて下さい。
“I always gagged on a silver spoon….. If I hadn’t been very rich, I might have been a really great man.”
“Well it’s no trick to make a lot of money if all you want is to make a lot of money.”
“My Declaration of Principles
I. I will provide the people of the city with a daily paper that will tell all the news honestly.
II. I will also provide them with the fighting and tireless champion of their rights as citizens and as human beings.”
“Just old age. It’s the only disease….. that you don’t look forward to being cured of.”
↑ 確かに老化は様々な疾患を引き起こしますが、老いそのものは病気ではないです(過剰に老化を恐れる最近の傾向は病気かも)。
“That’s one of the greatest curses ever inflicted on the human race: memory.”
“There’s only one person in the world that decide(s) what I’m going to do and that’s me.”
“I don’t think any word can explain a man’s life.”
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C. F. Kaneの人物像は、W. R. Hearst, J. Pulitzer, S. Insull, H. F. McCormick, A. C. W. Harmsworth, H. B. Swope、そして脚本家達自身から着想を得たとのこと。
SusanのモデルはMarion Daviesではないかと憶測が飛び、Hearstの強烈な妨害行為も自分達のことだと認めているようなものですが、Welles自身は(最終的に?)これを否定、Ganna Walskaを参考にしたとのこと。WalskaはMcCormickをパトロンとしたオペラ歌手。歌のレッスンに大金をかけるも才能はなく、観客から腐った野菜を投げ付けられたことも。それより、この方6回結婚して、離婚後数年で元夫が皆亡くなっていることにびっくり…😱
一説には、“rosebud”は脚本家Mankiewiczが賭けて勝った競走馬の名前から。また、愛用の自転車を盗まれてしまったというMankiewicz自身の幼少期の辛い思い出が、ソリのエピソードに繋がったとか。。
下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。 時代を先取りしすぎたことで、逆に凄さが分からなくなってしまったという感じも…。
メディア王チャールズ・ケーンの遺した最後の言葉「バラのつぼみ」。編集者のトンプソンが、ケーンの関係者に話を聞いて回りながらこの言葉の真相を解き明かそうとするという、ミステリー調なドラマ映画。
第14回 アカデミー賞において、脚本賞を受賞!
第7回 ニューヨーク映画批評家協会賞において、作品賞を受賞!
「史上最も偉大な映画とは何か?」
という突拍子もない問いの答えとして、いの一番に挙げられるのがこの作品。
後の映画作品に大きな影響を与えたと言われているのも納得の、堂々とした映画でした!
本作の凄さは主に3つ。
一つは、時の権力者「新聞王」ウィリアム・ランドルフ・ハーストに真っ向から喧嘩を売ったこと。
作中でこそ名前がチャールズ・ケーンとなっているが、モデルがハーストであることは一目瞭然。
ケーンは私設動物園が併設された「ザナドゥー」という城に居を構えているが、これも事実。
ハーストの住んでいた城は今ではカリフォルニア州サン・シメオンという街の観光名所になっている、らしい。
ちなみに「ザナドゥ」=上都とは、後に元の皇帝となるフビライ・ハーンが南宋を攻略する為に設けた都(モンゴルは遊牧国家なので、夏の都は上都、冬の都は大都=北京と定め、皇帝は季節移動していた)。
何故、ケーンの建造した大邸宅がザナドゥと呼ばれるのか疑問だったが、どうやらマルコ・ポーロが「東方見聞録」の中でザナドゥを紹介したことにより、ヨーロッパ人の中では歓楽の都=ザナドゥというイメージが定着したようですねぇ。ふーん。
本作が作られた1941年といえば、アメリカでテレビ放送が本格的に始まった年。もちろんインターネットはまだない為、情報メディアは新聞かラジオくらいのもの。
ハーストは新聞のみならずラジオ界にもその版図を広げており、映画業界でも絶大な影響力を誇った。
そんな相手を敵に回しては、今後の映画人としてのキャリアがどうなってしまうのかは想像に難くない。
しかし、それでもこんな作品を作っちゃったんですよ!オーソン・ウェルズという人は!
この漢気!長いものには巻かれないという決意!
権力には靡かないという精神、正しいものを描こうという志、これこそが真に讃えられるべきクリエイター魂でしょう。
これは本来メディアが取るべき態度であるはず。しかし、ありもしない事実を作り上げ、終いには「米西戦争」という戦争まで引き起こしたハーストにはこの精神が欠けていた。
真実を伝えるべきであるにも拘らず、金や名誉の為に信憑性を欠いた情報を垂れ流すメディアの欺瞞を、虚構を娯楽として提供する映画という媒体が明らかにするという構図はなんとも皮肉なものですね。
凄さの二つ目は撮影手法や演出の先進性。
時系列が行ったり来たりするという、直線的ではない作劇法。
長回しやパン・フォーカス、ローアングルの多用といった撮影手法。
自由自在なカメラワーク、etc。
周りがあまりにも真似してしまったことにより、画期的だった技法が一般化され、現代の観客の視点では「うーん、何が凄いのか分からん。」となってしまう、「手塚治虫現象」(と自分が勝手に呼んでいる)が起こってしまっているのは、仕方がないこととはいえ損しているよなぁ〜、と思ってしまう。
今から80年前の作品だということを鑑みれば、とんでもないことをしていると気付くんだけどねぇ。
撮影手法に詳しくない自分でも、本作ではやけにローアングルが使われているなぁ、というのは気付いた。
当時の馬鹿でかいカメラを使って、どうやってローアングルで撮影しているのかしらん?と思って調べたら、穴を掘ってそこにカメラを突っ込んで撮影するという、シンプルでパワフルなやり方のようだった。
『戦場のメリークリスマス』で、大島渚がローアングル撮影の為に穴を掘っていたところ、それを見ていたビートたけしが「役者を台の上に立たせりゃいいんじゃないですか?」とつぶやいた。
それを聞いた大島渚がすごい剣幕で「なんでもっと早く言わないんだ!!」と怒鳴った、という笑い話をたけしがしていたのを聞いたことがあるけど、なんかそれを思い出した。大島渚も『市民ケーン』を観ていたんだろうなぁ。
凄さの三つ目。
それはやはりオスカーも獲得した脚本の見事さ!
ハーストの妨害があり、オスカーでは作品賞も監督賞も主演男優賞賞も撮影賞も取れなかったというのが定説。
しかし、
そんな中でも脚本賞だけは受賞せざるを得なかったという事実。これだけでも本作の脚本が素晴らしい完成度だという証明になっている。
①大富豪の死というキャッチーな起点。
②「バラのつぼみ」というロマンティックだがどこか不穏なダイイング・メッセージ。
③その真相を探る探偵的な人物の登場。
④ケーンの人物像は本人を取り巻く他者からの証言でのみ構築される。
⑤結局「バラのつぼみ」に明確な解答は与えられていない。
この5つのポイントが、非常に上手く絡み合って作品を向上させている。
①②③は、物語を盛り上げる為の重要なファクターではあるが、そこまで真新しいものでもない。
ポイントは④と⑤だと思う。
④により、ケーンという人物の主観は徹底的に排除されている。
それぞれの証言がどれだけ信憑性に足るものなのか、それを判断するのは観客である。彼らの発言はそれぞれの人物のフィルターを通して語られているものであり、そうである以上、本作で描かれているケーンの姿が、本当に真実の姿がどうかはわからないのである。
これは『ゴッホ 最期の手紙』というアニメ映画がそのまま使用していたなぁ🙄
本作で描かれるケーンの姿は不確実なものである。そうである以上、「バラのつぼみ」に明確な一つの答えを出すことは出来はしない。
普通なら明確な答えをオチに持ってこないとミステリー映画は成立しないんだけど、本作ではその不明瞭さ自体が物語のバランスを保っている。
不確実な人物像、不明瞭な解答、何が真実なのかわからないふわふわとした空虚さは、ケーンの作り上げた新聞記事のようだ。
明確なものはわからないまま、全ては炎の中に消えていく。
ただ一つの真実として描かれているのは、少年時代に遊んでいたそりに「バラのつぼみ」という文字が描かれていたことだけである。
このたった一つの真実を下に、「さあ観客の皆さん考えてくださいよ」という姿勢が、本作を真にミステリアスに仕立て上げており、それこそがこの作品が未来永劫にわたり鑑賞されるであろうことの、強力なバックボーンになっているのだろう。
これら5つのポイントに加え、ケーンの収集癖と妻スーザンのジグソーパズルという趣味が物語全体のメタファーになっている点も興味深い。
とにかく、色々なことを考えられる映画史に残るマスターピース。
でも、面白いか面白くないかで言えば全然面白くはない。
結末は最初から明示されており、そこへどのように収束していくのかを描いている作品なので、まぁ物語への求心力はない。
それに、一つ一つの回想が冗長でダレる。
スピーディーでテンポ感のある現代の作品に慣れ親しんでいる自分のような現代人には、この2時間はなかなかに長く感じるだろう。
冒頭の10分とクライマックスの10分、ここは素晴らしいと言えるのだけど、間の100分は眠かったなぁ〜…😪💦
『機動戦士ガンダム』のギレン・ザビの演説の元ネタは『市民ケーン』だったんだ〜。という感じの感想です。
映画史に興味のある人なら必見の一作だけど、それ以外の人にはおすすめ出来ないっす。退屈するよ🥱
映画の内容には関係ないけど小言。
DVDで鑑賞したんだけど、あまりにも字幕のクオリティが酷いっ!!
パブリック・ドメインの作品だからというのもあるのかも知れないが、誤字脱字のオンパレードで頭が痛くなった。
なんで「チャールズ・ケーン」が「ケーン・ケーン」になるんだ!?
途中からは、分かりもしない英語を必死にリスニングしていました。
映画をもっと楽しむ為に、英語を習得するのは必須事項なんだということを実感した一作でした。
思い込みが激しい新聞王
オーソンウェルズ扮する新聞王チャールズフォスターケーンがばらのつぼみと言い残して亡くなりザナドゥで葬儀が行われた。2回結婚して2回離婚。ケーンは、市民に対し全ニュースを誠実に伝える日刊紙を目指した。真実を素早く楽しく知る市民の権利を擁護するとした。しかし、思い込みが激しい人だった様だ。そう実力が無い歌手に歌劇場を作ってしまったりもした。欲をかくとろくな事は無いね。
玄人向けの復習映画
名作中の名作。THE映画。
って感じの映画でした。
正直一回観ただけではこれがすごいとはならない。
根源的映画だからこそ、予習のための映画ではなく、色々な作品を観た後で復習として観た方が、この映画の偉大さが分かる気がしました。
とりあえず、これでいつでも『Mank』は観れそうですが。出直してきます。
ストーリーは至ってシンプル。
アメリカの新聞王、チャールズ・フォスター・ケーンが死に際につぶやいた『Rose bud』ーバラのつぼみ、という言葉の謎を追うために生前調査を行い、彼がどんな人物で「バラのつぼみ」とは何を指すのかを、回想を交えながら探っていく119分。
非常に多くの映画に影響を与えた作品のようで、成功者の成功からの堕落というよくあるストーリーは、まさにアメリカン・ドリーム。
メディアによって形成されたアメリカという国を非常によく表した映画なのだと、町山さんの解説をチョロっと聞いて知りました。なるほど。
素人の自分でも、映像技術が素晴らしいということはよく分かりました。
次はどんな撮り方をしてくるんだと、ワクワク。
観ているこちらを飽きさせない、工夫に富んだ映像の数々は影響を与えたどころか、現代の撮影方法を持ってしても敵わないような気がします。
当時こんなものをスクリーンで観たら、衝撃どころでは済みませんね。
映像・音響は100点満点でしょう。
登場人物が多くてこんがらがったのも事実。
何度も観て深めたい一本です。
市民ケーンの市民権
なんでもないです。
バラのつぼみ-ROSEBUD-
アカデミー賞では脚本賞を受賞したようですが、最も印象に残るのは編集や撮影の妙。亡くなった新聞王の過去を“バラのつぼみ”という謎の言葉を解き明かすためにインタビューを続けるニュース映画記者。インタビュアーの姿がまったく印象に残らないほど、インタビューに答える元妻や同僚たちが引き立たせているのもドキュメンタリータッチにするためか。その過去のエピソードが年代もバラバラに扱っている編集と、全てを演じ分けているオーソン・ウェルズの姿が面白い。この編集者が『サウンド・オブ・ミュージック』や『ウエストサイド物語』のロバート・ワイズだったことも興味深い。
撮影でも、後の『第三の男』に使われる影の多用。不自然なくらいにウェルズ本人に影がかかったり、奥行きの深さを出すためだけに影だらけの手前の人だったり、特撮のような効果さえ出していた。
大富豪になり、何もかも手に入れることができた男の人生。しかし、そこにはポッカリと空いたピースがあるのだ。それが妻の愛か、亡き母との思い出か、それとも市民の心だったのかはわからない。州知事選で敗れたことで、直前の情事が暴かれた事実があったにせよ、その空虚・孤独がケーンの心を占めたに違いない。何もかも思い通りにできると思い上がりは見え隠れするものの、正直であることが彼の信条。ところが、やはり何もかも手に入れた後に、足りないものに気づかされたのだろうか・・・エンディングの焼却炉にくべられるガラクタ美術品の中から子供時代に遊び親しんできたソリに“ROSEBUD”の文字がくっきり浮かび上がる映像が凄い。
それにしても何度も登場する“城”。権力や財産の象徴であるかのような大邸宅ザナドゥに圧倒された。モンゴル(元)皇帝クビライ・カーンの作った都が語源。ミュージカルや色んな会社の名前にもなっているけど、今ではビル・ゲイツの私邸が「ザナドゥ2.0」と呼ばれているらしい。彼もまたケーンのような孤独を感じているのだろうか・・・と思ってたら、昨日離婚したらしい。
見返す度に、いろいろな思索にはまってしまう。中毒性のある映画。
「No.1映画」と紹介される作品。
でも、余程の映画通でなければ、初見では「どこが?」となる。
まるでこの映画の主人公のようだ。
新聞王・広大で豪勢な(ノアの箱舟にも比される)館の主・世界で〇番目の金持ち。権力をふるい人や世間を思うがまま操った人物。人がうらやむ成功者。だが、その実体は?
一人の男の一生をたどる旅、「薔薇のつぼみ」というキーワードでひっぱる。面白そうな設定なのだが、「No.1映画」として期待すると、今一つ面白くない。
何より、人たらしのウェルズ氏がコミカルに演じている人たらしな男の話のはずなのだが…。
エンタテイメント的な面白さを期待すると「つまらない」になってしまう。
しかも、特殊メイクが発達していない頃の作品。若干20代のウェルズ氏が、老年まで演じるのだが、メイクや体の恰幅の良さを出すため?力士の着ぐるみ着ているようで動きがぎこちなくて、せっかくの名演を殺してしまって…。
でも、何度も観ているうちに、初見では軽く見過ごしてしまったところが見えてきて、解説等も参考にすると、そこかしこに唸ってしまう箇所等、宝の山だらけ。
今普通に使われている撮影技法や演出等を始めて採用したのだとか。
ああ、専門家に評価が高いのが納得してしまう。
でも、そのような技法だけではない。
テーマ。
人の一生は所詮スノードーム?欠けている何か。生涯かけて取り戻したいもの…。
成りたい自分と、期待される自分、そして成った自分。そのせめぎ合い。
虚と実。「あなたは約束守らないでしょ」なのに、表明したがる”宣言”と”公約”。
中身がない、何も実のある事を言っていないのに、立派なことを言っているようで。しかもそれをありがたがる大衆。
世論操作。ちょっとしたきっかけで変転する大衆が信じる”真実”。
パズルの一片。そして全体像。
何が重要で何がガラクタなのか。その人にとっての価値。他人から判定される価値。
等々、万華鏡のように、鑑賞者がどこに焦点を当てるかによって、様々なイシューが立ち現れてきて、心と思索の罠にはまってしまう。
きっと、これからも観返す度に、上記に上げたこと以外にも、もしくは上記に上げたことでも感じ方・考え等が変わっていくのだろう。
まるで、深淵なる哲学書を紐解くようだ。
そして、工夫を凝らした映像。
ホラー的な映像で始まり、何が起こるのか期待値を高める冒頭映像。
スノードームのガラスの破片越しに見えるドア・看護師の動きが、とても意味深…。
リーランドから歴史的に価値があるともてはやされた後の、ひきつった笑顔が表現するもの(これはDVDの特典映像で、ウェルズ氏が意図を語っている)
同じシチュエーションで物語る年月。最初の妻、二番目の妻との関係性の変化。
スーザンの顔に移る影で表現する牢獄。
アリスの世界に誘われそうなドア、鏡。
梱包されたままに放置されたものの間を蟻のようにうごめく人間たち。
一つ一つのシーンを止めて”研究・鑑賞”したくなる数々のシーン。
解説者が必ず例示する有名なシーンでも、その人なりの発見(意味付け)がありそうな。
まるで、おもちゃ箱。
興味が尽きることがなさそうだ。
そんな興味深い映画で、人たらしのウェルズ氏が作って演じているのだからおもしろいエンタティメントになるはずなのだが、
ケーンの、そこまでするかというパワハラ・モラハラ度が前面に出すぎてしまって、その奥に隠れている空虚さ・わびしさはわかるが、カタルシスが得られる流れになっていない。
実在の人物をモデルにしていると言われているが、リスペクトがまったく感じられずに、コケにしているようにも見える。
世間的にもてはやされ、何もかもを手に入れた男の、隠された内面の叫びを映画を通して体験できたと思える時と、
世間的にもてはやされ、何もかもを手に入れた男だが、内面は、空虚感に支配された、ガラクタ(芸術品でも梱包されたままならガラクタ同然)だけを手にした、つまらない男というオチにも見える。
ベビーフェイスを活かした、もっと魅力的な男としてのキャラクターを出した場面と、そうでない場面を見せてくれればいいのに、どの場面を見返しても、唯一の味方?理解者?のバーンステインの回想場面でさえ、ケーンのいやらしさがまき散らされていて、ケーンに共感できない。
だから鑑賞後感が悪くなる。
どうしてこんな風に作ったのだろう。
『マンク』を見ると謎が解けるらしい。
MANKに備えて『市民ケーン』を鑑賞。 こんな映画だったのね。一般...
MANKに備えて『市民ケーン』を鑑賞。
こんな映画だったのね。一般市民が立ち上がる的な話と思ってたら大富豪なのかー。
ぶっちゃけそこまで面白くもなく。
ローアングルや過去を複数視点で振り返る構成が当時は斬新だったそうだけど今だと当たり前すぎて。
逆にそれだけ影響を与えた作品なんだろうな。
けっこうよかった
高校の時にリバイバル上映で見た時は歴代1位の大傑作というので期待して見たせいか、全然ピンとこなかった。改めて『マンク』を見るに際して、アマゾンプライムビデオで見たら、なんと里親映画だった。実のお母さんの計らいでいい教育を受けられたのにも関わらず、愛情に飢えてしまうのは、親元から離れるのが早すぎて愛着障害があったかのような描かれ方だ。
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