シベールの日曜日のレビュー・感想・評価
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もっと年寄りになってから再鑑賞したい
少女に恋をしてしまう気持ち。ある程度大人になればヤバイと思われるのだが、性的ないやらしさが全く感じられないところが好感もてる。
占い師のところから盗んだナイフを木に刺して、二人で精霊の声を聞くシーンが印象的。
【2004年視聴】
分析的シベール論
シベールという作品は、深い衝撃と感動をもたらす。しかし、その理由は必ずしも明らかではない。なぜ、これほど心が動かされるのか、他人に説明できないのである。といっても格別に難解な作品ではない。いったいこの映画作品は何ものであるのか。衝撃の淵源を手法と内容両面から分析してみたい。
まず手法面では、ブールギニョン監督が意図的に採用した神秘化による緊張感の持続と切断を指摘できる。神秘化とは、主人公のピエールが正気なのか狂気なのか、最後まで明示しないことを指す。
戦闘機のパイロットだったピエールは、インドシナ戦争で無垢な少女を殺害した体験があり、にもかかわらず処罰されていないことが倫理意識を苦しめている。苦悩から開放されようとして、彼は自ら処罰されることを求める傾向がある。しかし、処罰を受けるためには別の少女を殺さねばならない…映画は、ピエールとシベールがひっそりと孤独を温め合う姿を描く一方、その奥底に冷ややかな狂気の気配を漂わせて淡々と進行していく。
狂気の気配が漂うシーンを掲げてみよう。
少女殺害と戦闘機の墜落は不可分の体験だから、少女の記憶が蘇ると墜落の記憶もまた浮上する。シベールと出会った彼が木に登って眩暈に襲われ、その後「最近、過去を思い出そうとしていない」と内心の不安を打ち明けるエピソードは、少女殺害の記憶も蘇ったことを暗示している。
この暗示は、まもなく遊園地での出来事により事実として裏付けられる。ひと騒動を起こし錯乱した彼は、マドレーヌによれば「あの子は死んだのか。ぼくが殺した」と何度もうわ言を口走ったというのである。
そしてクリスマスの夜、シベールの本名を知ったピエールが不思議な表情を浮かべるシーン。このとき監督は意識的に下方からのライティングを使って無気味さを醸し出し、狂気の可能性を強く印象づけようとしている。
その後、ピエールは風見鶏を盗みに教会の屋根によじ登るのだが、ここで彼は突如、眩暈から開放される。それは少女殺害の記憶を克服したようにも、新たな少女殺害を決意したようにも見えるではないか。どちらかわからないままピエールはシベールの下に戻り、警官の証言によればナイフを携えて彼女に歩み寄っていく…。
このような謎めいたシーンの連続に観客は幻惑され、緊張の持続を強いられる。そして最後の最後、突然の惨劇によって緊張の高みから突き落とされてしまう。その転落が衝撃となって心を貫くのである。
次に、内容面を検討しよう。
三つに分けて分析すると、表層的にはピエールの呟く「空費された人生…それは何だろう」という言葉に共感するすべての孤独な人に、シベールは癒しと希望の女神として降臨する。観客は報われなかったり、意に沿わなかったりする人生を埋め合わせしてくれる快感に陶酔するのである。いっぷう変わったラブロマンスの層と言ってもよい。
しかし、それでは風見鶏と悲劇的結末は説明不能である。それを説明するには、映画の基底まで降りていく必要がある。
すると登場人物は変身してしまう。ピエールは20世紀において世界大戦を何度も繰り返した結果、精神が荒廃し、記憶喪失=自己を見失った人類そのものの象徴と化する。そのとき、シベールは危機的状況にある人類にもたらされた救済の希望である。ラストシーンの悲劇は、戦火に明け暮れる20世紀の人類に対する警鐘にほかならない。これは、反戦映画の層である。
世界を戦争で荒廃させた元凶を辿っていくと、キリスト教文明に帰着する。シベールがギリシャ宗教の神として表現され、カルロスがチベット仏教を論じ、ブールギニョン監督自身の採録したシッキムの仏教寺院の聲明が流れるのは、宗教的観点からの文明批判という意味がある。教会の風見鶏とは、キリスト教における魔除けである。ピエールは異教の女神に命じられ、キリスト教の魔除けを毀損して捧げるという構図になっているのである。ここは宗教、文明批判の層と言える。
シベールのもたらす深い衝撃と感動、そしてわかりにくさは、以上のように手法的には神秘化による緊張の持続と切断、内容的には複数の層が絡み合った重層性に起因していると思われる。
60年前の映画!
純粋な恋愛映画だなぁ。って思いました。絵が全く綺麗。ファンタジー映画だなぁ。
残念ながら、今なら単なる変質者の話なのでしょうが。それを超えた何かがこの映画にはあると思いました。
女性の涙する所で、思わずもらい泣きしてしまいました。
耐えがたい孤独感が、12歳の少女の姿で、そこに立っている。
VDOにも飽き。DVDにも飽き。ついに今日はVHSを引っ張り出しましたよ。良かったよ、再生出来て。サッカーも一杯あるでよ。ででで。シベールがあるやん....
最初に見たのは間違いなくシベールと同年代の頃。NHKでした。パトリシア・ゴッジの叫びが心に残りました。ピエールがフランソワーズに近づいた理由も、撃たれた理由もよく判らず、マドレーヌとピエールの関係も理解できず。もわ。もわ、っとした。たりめーか...
この年齢になり。原作の内容も知った現在。この、恐ろしいまでに切ない名作について感想文なんて書いておこうかと思いまス。あれ?なんで「す」だけカタカナに変換される?ままま。いつもと違ってPCで打ち込んでるんで。と言うか、PCで打ち込むと早いね。必然的に感想文が長文化します。
まず。原作は「Les Dimanches de Ville-d'Avray」。ヴィル・ダブレーの日曜日。相当ショッキングなダークストリーで、映画とは違っています。犯罪心理、というか精神の異常性を語る上での教材になるくらいに。
以下、原作の設定と内容。
ピエールの本名はピーター。彼にも二つの名前があります。インドシナ戦争には行っておらず、昔はギャングでした。物取りに忍び込んだ建物の屋根から滑落し頭蓋骨骨折。その結果重度の記憶喪失と頭痛に悩まされる事になります。記憶を失くしてからは、"娼婦"のマドレーヌに面倒を見てもらっています。
シベールは親と祖母に見放された10歳の少女。母親は未婚でシベールを産む。面倒を見てもらっている寄宿生学校では、ギリシャ信教に由来する"シベール"ではなく、フランソワーズと名乗っています。
ピエールには、自分でも思い出せない過去がありました。屋根から落ちる事故に遭う前、彼はトゥーロンで別の少女を「殺していた」様なのです。寄宿学校の前でシベールを見掛けたピエールは、彼女が、その少女に見えました。シベールの父親は、彼女を寄宿学校に預けた帰り道でひき逃げで命を落とします。ピエールは、父親の上着のポケットから財布を抜き取って、死体を森の奥に埋めてしまいます。その後ピエールは、シベールの父親になりすまして彼女に会いに行きます。
その後の「二人の世界」は割愛
シベールはピエールには本名を隠し、彼と結婚する時に教えると言っていましたが、クリスマスの夜、自分の本名を書いたメモを小さな箱に入れて、ピエールへのプレゼントにしました。ピエールの意識下の過去の記憶が描写されます。ピエールが沈んで行く湖の底。そこで待っていたのはシベール。その胸に刺さるナイフ。恍惚の表情を浮かべるピエールにシベールが言う。
「運が良いわ。ここの方が好き」
「君はトゥーロンに行ったことが無いと言った(つまり僕が殺した少女ではない)」
「いいえ、私の愛しいピエール。これは私の秘密なのよ」
クリスマスの夜。ベッドで眠りについた下着姿のシベールの胸を凝視するピエール。彼はポケットをまさぐり"ナイフ"を探す。その”ナイフ”を玄関横に置き忘れたことに気づいたピエールは部屋を出て取りに行き、家に入って来たジュアンによって殺される。
この原作の中でピエールは「危険な小児偏愛者」であり「殺人衝動を伴う幻覚症状」を病んでいます。ほとんどサイコパス。
で、これからが本題です。
映画の中では、ピエールとマドレーヌの設定が「インドシナ戦争で”事故”により少女の命を奪ってしまったパイロット」と「看護師」に変更されており、ピエールの過去は全く異なるものになっています。また、ピエールの殺人衝動や幻覚症についての描写もありません。ピエールの過去を知るベルナールが「彼は昔、少女を殺してしまった事がある」との告白から、ピエールは警官によって射殺されますが、原作では「元ギャング仲間が、ピエールがシベールを殺してしまうと、彼の過去の殺人もばれ、ひいてはギャング団の罪もあばかれてしまう」との恐れから、ギャング仲間が自身の手でピエールとマドレーヌを殺害します。
映画の中、ピエールに殺人衝動があったのか否か、が議論の的になっていた作品です。
ピエールの死後、警官に名前を訊かれてシベールは泣き叫びます。
「もう、私には名前なんかないの!誰でもなくなったの!」
ピエールの死で、もう存在しないのと同じだと叫ぶ少女。
大人の心を持った12歳、子供の心の30歳として出会った2人は、徐々に12歳の子供と30歳の大人に戻って行ったようにも見えました。孤独な魂を、互いが救い合う関係。ピエールが死んだ瞬間、シベールの魂も死んだ。
結局、ピエールの殺人衝動が「あった」にせよ、「消えていた」にせよ、シベールにとっては同じことなのであって。仮に、ピエールがシベールの胸にナイフを突き立ててしまっていても。シベールは、それを受け容れたのではないかとも思う。冬枯れたパリの風景の中で、ピエールをリードする12歳の少女の姿が痛いくらいに切なく、胸を締め付ける映画は、ヌーベル・バーグ終末に近い1962年のフランス映画。「救いの無い話は記憶に残る」の俺的法則により。思い出す頻度の高さでは、これが一番の映画です。
あ。
ヱヴァの26話。バカシンジの頬を撫でようとしたアスカも、あれだったりしてね。で、なんでここでヱヴァを思い出すんじゃろw
水墨画を模倣したアンリ・ドカエの美しい映像で描かれた、青年と少女の無垢な愛の物語
16歳の時ノーカットのテレビ放送を観て大感激したフランス映画。2年後フィルムセンターで上映があり、いつものように余裕を持って到着すると既に長蛇の列だった。学生時代の短い間ではあるが、フィルムセンターで立見で鑑賞した唯一の経験をする。当時の学生入場料は140円なので立見への不満は無く、そんなことより、この作品がこれほどまでに愛されていることに感動してしまった。
映画については、なんて美しく悲しいストーリーなのだろう。青年と少女の許されない愛の悲劇に涙するしかない、自分の無力さ。映画を観て自分の優しさを顧みることの意味と、優しさだけでは社会は良くならない虚しさや、限界がある現実に苛まれる苦しさが、この映画を忘れなくさせている。
映画好きでまだ観ていない知人らに、この映画の物語を何度も語ったことがある。そして、最後のシベールの台詞を言うときは、決まって涙を堪え切れずに言葉に詰まってしまう。そんな映画です。
透明すぎる名作
極度に純粋化された世界。
そして、この映画の言いたいことは、理解しているつもりの知ったかぶりこそが諸悪の根源である。分かるための努力をしないで、自分は分かってるはずだと決めつけて相手の話を聞かない。理解可能なのに理解しようとしない。そういう態度が最終的に悪として残る。相手を理解する方法は必ずある。単に、分かりにくいだけである。
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