自転車泥棒のレビュー・感想・評価
全14件を表示
不幸の連鎖から目を逸させない。
◯作品全体
戦後混乱期のイタリア。誰もが余裕のない状況の中で起きる不幸の連鎖を、目線を逸らさず映像に残そうという意思を強く感じる作品だった。
出てくる人物はみんな不幸だ。自転車を盗られたアントニオ、父の惨めな姿を見せられるブルーノはもちろん、アントニオに濡れ衣を着せられた若者や、アントニオに執拗に追い回される老人。その時代をなんとか生きようとしている人たちは、自分たちの余裕の無さから互いに傷つけ合ってしまっている。どこかで彼らが報われる場面が出てくるのだろうと淡い期待を持って見ていたけれど、画面に映し出されるのは慈悲のない現実だけ。
目線を逸らさず、という部分で言うと、画面に映るものがすべてアントニオの視点に近いのが効果的だった。
アントニオの自転車を奪った犯人の表情や、アントニオにつきまとわれる老人がどこに隠れてどこに居るだとか、アントニオの妻は何をしているとか、アントニオ以外の人物の前後が描かれない。そうすることで焦燥感の淵にいるアントニオの感情から離れず、アントニオの感情から目を逸らすことができない。ドキュメンタリーに近い構成になっているのはこの点が一番大きい要素だった。
ラストは人混みの中に消えていくアントニオとブルーノの後ろ姿。アントニオたちが特段不幸なわけではなく、当時のイタリアではありきたりな不幸であることを突きつける。その事実がまた、心に深く突き刺さる。
◯カメラワークとか
・ラストの人混みに消えていく演出はドキュメンタリー作品ではど定番になってる。手垢はついてるけど、いまだに古臭さがない演出だ。
・イタリアの風景があまり美しくないのが逆に良い。公営団地が立ち並ぶ無機質さや狭いアパート。人混みで雑然とした街並み。どうしても美しく撮れてしまうイタリアの街並みをうまく切り取ってる。
・一方で影付けで絵画チックに撮るカットもあった。自転車泥棒だと誤認した若者や群衆から離れるアントニオのカットでは、路面に細く伸びる日向を歩く。肩身の狭さや行き場のなさを強く感じる。
◯その他
・『カラオケ行こ!』で主人公たちが本作を見るシーンがあった。ブルーノを叩くアントニオのシーンで、大人たちは理不尽だと話す主人公たち。そこに合唱部の後輩がサボっている主人公に怒る。後輩が壊れたビデオデッキを操作してしまって逆に怒られ、場面転換後のカットでは膝を抱えてうずくまる。
理不尽なのは主人公たちだろという意味の重ね方と、サッカー場の前で膝を抱えて項垂れるアントニオに重ねるダブルオマージュだった。
・自転車を盗むが捕まってしまった後のアントニオの惨めさはホントすごかったなあ。何も言わずに泣きついてくるブルーノが素晴らしい。父を怒るでも慰めるでもなく、ただ泣いて寄り添ってくる。何も言われないのが一番惨めに見える。
大泣きしてしまった
タイトルは聞いたことがある程度で予備知識ゼロでしたが、映画史上に残る傑作ということで見てみました。
失業者あふれる戦後すぐ、主人公はようやく仕事をもらえたものの自転車の所持が必須条件という理不尽。お金がないから仕事が必要なのに自転車がない人は仕事できないという。お役人が偉そうすぎる。
乳飲み子抱えた妻がシーツまで質に入れてようやく自転車を質から取り戻し…しかしタイトルは「自転車泥棒」だから盗まれることは分かっておりハラハラ。当時の自転車は鍵をかけられなかったなら盗まれ放題?
仕事初日にもう盗まれる悲しみ。その後まだ6歳の息子を連れずっと自転車探し続けるのだけど子どもの演技が非常に自然でうまい。名子役かと思いきやキャストは全員市井の人とかで。監督の指導も見事だったのでしょうか?
仲間と一緒に探すこととなり、ここから明るいコメディになるとかハッピーエンドも期待しましたが…。
主人公の目線が見事。台詞が少なくても主人公の焦燥や混乱がよくわかる。自転車さえあれば何とか家族が暮らしていける、犯人風というだけで証拠なく執拗に追いかけてしまう、妻には信じるなと叱りつけた占い師にすら頼ってしまう。
自転車は見つからない、自転車は街に山ほどあるにはある、自分も盗まれたから…と弱い心が揺れていくのがよく分かる。
主人公の場合は瞬く間に取り押さえられる。息子の前で醜態を見せ呆然として泣く息子と一緒に帰る…。
息子は強面に囲まれた時は警察を呼びにいき、父親が取り押さえられた時も泣いて父親に近寄ったことで許された。ちょっと頼りなげなお父さんより有能。
お父さんは当時の父らしさなのか息子を振り回してお礼も謝りもしないし、頻繁に1人にして危険な目に遭わせてる。
泥棒が発生したら他人事じゃなく皆で取り押さえるとか、教会の炊き出しがあるのは町として少しだけ安心できるが。
しかし主人公一家は困窮したまま。お父さんはしばらく自分がしでかしたことからも立ち直れないかもしれない。
まさか、ここで、終わり…?というところで本当に何の解決もなく終わり、あまりのリアリティに号泣してしまった。
戦後のイタリア
戦後のイタリアってこんなだったんだ。
嫁入り道具がシーツだったり、シーツ6枚と自転車が同じ価値だったり。
ネオレアリズモというジャンルの映画らしく、初めて観たけど当時の状況が興味深い。
つか、仕事で使う自転車なら役所はそれは貸したりして、支給しろよ。持ち出しが無いと仕事出来ないって問題だろ、とか思っちゃう。昔はそんなもんだったのかな?
探してた1日がめちゃくちゃ長く感じた。あれだけ街中が自転車で溢れてるのに、探して1日で見つかる訳無いじゃん…。借金してでも新しく買ったり、誰か知り合いで持ってる人探したり、帽子とか他の物質入れしたり、盗む前に出来る事は無かったんかい…。そこで子供殴ったらダメだろ…。お金ないって言ってんのに、外食するんだ…。あと嫁が占いに頼ってたの否定しといて、自分は困ったら行くんだ…しかも自分で言ってた通り、当てにならない答えなのに、お金使っちゃって…そんな事してるからお金無いんじゃ?やたら、順番抜かそうとするな…。とか、あんまり主人公に肩入れ出来無かったな…。
境遇は可哀想だけど、同じ境遇だったとしても自分だったらこんな事しないよ、とか思っちゃって。
親父がダメなばっかりに、ブルーノがほんと可哀想。
写実のリアリティとドラマツルギーの見事な融合のイタリア・ネオレアリズモの傑作
イタリア・ネオレアリズモ映画を代表するヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画史に刻まれる傑作。初見は17歳の時、衝撃のラストシーンに何とも遣りきれない気持ちになってしまい、次の日に学校で級友に感想を言おうとしたら、お互いに溜め息をつくしかありませんでした。感動や笑いを求めて映画を観ていた日本の高校生は、この貧困と絶望感しかないイタリア映画で、それまで経験したことのない無常観に陥るしかなかったのです。
終戦後のローマで不況下の生活苦に喘ぐリッチ家の、父親アントニオと6歳の長男ブルーノの父と子の3日間の出来事には、当時の市井の困窮生活がドキュメンタリーの如く事実そのままに描かれていて、例えば質屋の倉庫に天井まで高く積まれたシーツの山には驚きました。自転車が質草になるのはまだ分かるものの、ベットに敷くシーツが換金に値するとは思いもよらず、それでも母親マリアの台詞には嫁入り道具との説明があり、当時のイタリアの生活感が汲み取れるシーンになっています。2年間失業していたアントニオに漸く舞い込んできたポスター貼りの仕事に必要な自転車を、その新品と使い古しのシーツによって取り戻し、期待に胸膨らませて初出勤する朝のシーンがいい。ブルーノを前に自転車を二人乗りして進む父と子が、顔を向き合わせて笑顔に溢れます。そして、6歳のブルーノも夕刻まで仕事をするようですが、具体的な描写は有りません。2年前のデ・シーカ監督の「靴みがき」では、大人に利用され騙される少年たちの悲劇を描いていましたが、そこまでの残酷さは無くとも戦後の荒廃した社会では弱い立場の子供まで犠牲を強いられることに、平和な時代との差異を感じざるを得ませんでした。
この作品が優れている点は、デ・シーカ監督の演出と、当時の社会背景を赤裸々に写実しながら物語の核になる自転車が盗まれて展開する(ドラマ)をどう構築させるかの脚本の完成度にあると思います。映画タイトルで既に観客は、自転車が盗まれることを知って観ている訳です。アントニオとマリアが自転車を取り返した後に聖女様と呼ばれる占い師を訪ねるシーンでは、騙されているとマリアを諫めるアントニオが、路上に自転車を放置します。アントニオが知らなかったマリアの信心深さと、その自転車にまとわり付きながら遊ぶ若者たち。ここで盗まれるのかと思わせて、このアントニオと観る者が同時に抱く二つの不安が、映画的な緊張感を生み出します。このフェイントがあって実際に盗まれる場面では、用意周到な犯行であることを克明にモンタージュして、アントニオの一寸した隙を狙った窃盗グループの仕業が後半の困難極まりない捜索につながるのです。仲間が追い掛ける車に飛び乗り、追跡を混乱させる狡猾さのリアリティ。脚本を担当したのは、デ・シーカ監督と組んで多くの名作を生んだチェーザレ・ザヴァッティーニとロッセリーニの「無防備都市」ルイジ・ザンパの「平和に生きる」のネオレアリズモ映画から、ヴィスコンティの代表作の多く、そしてマウロ・ボロニーニの「わが青春のフロレンス」フランコ・ゼフィレッリの「ブラザー・サン シスター・ムーン」と、イタリア映画を代表する女性脚本家スーゾ・チェッキ・ダミーコ、そしてデ・シーカ監督含め、計7名で創作されています。数が多いから良いのではなく、この93分の作品に一切の無駄が無く、ラストの衝撃の結末まで細部に渡り練られていることが素晴らしいのです。
特に秀逸なのは、アントニオとブルーノのキャラクターの対比設定です。アントニオは極平凡で善良な父親で、困ったことがあれば相談する仲間がいる。ブルーノ少年は返ってきた自転車を磨きながらペダル部分に傷があると憤慨する観察眼と自転車の型を知る賢さがあり、アントニオが電車で迎えに来た時、何故自転車がないのか、ふたりの会話で察知し帰宅して母親に告げるところが想像できます。そこから政治集会と芝居稽古が行われている地下室のシーンで、夫婦二人の際立つ困惑の演出が成されます。翌朝早く捜索に出掛けても、夥しい数の自転車が並ぶ露店には既に分解されて売られているか、塗装が加えられて判らなくなっているのではと、諦めが支配します。トラックに乗せてもらい場所を変えて別のマーケットに行くと、親子の追い詰められた境遇をにわか雨に遭遇する演出で描きます。(全編ロケーション撮影のリアリズム作品で唯一このトラックに乗っているシーンだけがスタジオ撮影)雨宿りに駆け込むブルーノが転んで怒りを露にする細かい演出と、親子のところに僧侶たちが並ぶ救済の無力。そこから犯人を知る老人を追い掛ける展開で、慈善活動を施す教会から逃げられてアントニオを責めるブルーノ。普段手を挙げることがない優しい父親が、苦労して犯人の居場所を問い詰めていながら見逃してしまった落胆の後のブルーノの一言で子供の頬を殴ってしまう。そこから泣きながら離れていくブルーノを置いて川沿いを探すアントニオに聞こえてくる、子供が溺れているという叫び声。ここで父性が呼び起こされる演出の巧さが光ります。心配で現場に急ぐと、階段の上に一人ポツンと現れ父の気持ちを知る由も無く座り込むブルーノ。このシークエンス作りの映画的な表現には、こころが奪われました。
冷静になったアントニオはブルーノを労わり食事をとりますが、このレストランのシーンが後に喜劇映画でも才覚を発揮したデ・シーカ監督のユーモアの演出が確認できます。お金持ちの少年の横柄な食べ方と視線に対して、ブルーノの無邪気さと場慣れしていない食べ方の比較の面白さ。そして、この満腹したアントニオが思いついた次の展開に、この映画脚本の更なる巧さがあります。初めて訪れた時は騙されていると妻マリアの無駄遣いを叱責していたアントニオが、藁にも縋る思いで聖女様に相談するのです。警察に相談しても自分で探せと突き放され、神のお告げに耳を傾ければ何の解決にもならない助言でお金を取られる。こころが荒んだ時に人は何かに縋りたいとは言え、アントニオにはもう縋るものが何も無い。そのどん底から偶然にも犯人らしき青年を見掛けて追い掛ける最終章は、もうどうすることもできないアントニオの心理を追い詰めて、結局は完全に常軌を逸した心理状態にします。証拠が見つからない苛立ちと、貧民街の縄張り意識と仲間意識の抵抗、詐病で誤魔化す青年の哀れな姿から、訴えても勝ち目がないと判断するしか残っていないのです。
虚しくサッカー場近くで座り込むふたり。その前を自転車が通り過ぎていくショット。路上に置かれた自転車を見回すアントニオ。スタジアムからは群衆が流れてくる。徐々に異様な雰囲気になる演出と音楽。アレッサンドロ・チコニーニの音楽は、ストラビンスキーの「春の祭典」に似たメロディとリズムを刻みます。観る者にまさかと思わせる不気味さが漂い、ブルーノを先に帰らせて一人になるアントニオ。そして、ここでタイトルの意味が重く圧し掛かって来る結末は、思わず息を止めて観てしまうほどの緊迫感です。電車に乗りそびれたブルーノが群衆の騒めきの元を振り返って見詰める。ここでカメラはパンアップしてブルーノの驚きの眼を捉えます。デ・シーカ監督の厳しくも残酷な演出によるショットの凄み。結局ブルーノが泣きながら寄り添う事で警察に突き出されずに済むアントニオですが、路面電車が取り囲んだ群衆を分けるところや、アントニオの帽子をブルーノが拾い手渡すところの細かい演出もいい。屈辱と絶望感に苛まれて涙を流すアントニオと、父の手を握るブルーノが雑踏に埋もれて消えていくラストショットは、デ・シーカ監督らしく、観る者の感情に直接訴えかけます。
電気工の職人であるランベルト・マジョラーニと監督が街で見つけたエンツォ・スタヨーラ少年は、共に演技経験のない素人です。デ・シーカ監督の演出力は勿論、イタリア人の表現力の豊かさは、ヨーロッパの中でも抜きん出ている。そして父と子の物語は、その後ピエトロ・ジェルミの「鉄道員」やロベルト・ベニーニの「ライフ・イズ・ビューティフル」に引き継がれている。偏見かも知れないが、フランス映画は女の子が可愛く、イタリア映画は男の子が可愛いのが原因と思う。ジュゼッペ・トルナトーレの「ニュー・シネマ・パラダイス」も変則親子の物語と見えなくもない。この作品でも、スタヨーラ少年の賢さと可愛さが作品を支えていると言ってもいい。
ヴィットリオ・デ・シーカ監督は第二次世界大戦以前は俳優をしていて監督デビューは1940年とあります。淀川長治さんのお話によると、白粉をいっぱいつけた白塗りの二枚目俳優でもタイロン・パワーとロバート・テイラーをいやらしくしたような色男の印象が強く、1950年に日本公開された「靴みがき」と「自転車泥棒」を観て、あの俳優がリアリズム映画の監督かとビックリしたそうです。ヴィスコンティ監督やロッセリー二監督と違って、本来陽気で朗らかな印象があり、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニと出会ってからは、喜劇も手掛ける巨匠監督になりました。現在では、晩年の「ひまわり」だけが話題に挙がりますが、少し寂しく感じます。
個人的に好きで高評価する作品を順位付けると、
①自転車泥棒②靴みがき③終着駅④ウンベルトD⑤悲しみの青春⑥ふたりの女⑦昨日・今日・明日⑧ひまわり⑨ああ結婚⑩紳士泥棒大ゴールデン作戦
ミラノの奇蹟、屋根、旅路、は未見です。
自転車を探す前に仕事しろ!と言いたい。
設定に無理がある。
この話も『物資とお金の経済』。その『からくりの怖さ』だと思う。
しかし、利息を取る位だから、自転車は買ったのではなく、借りた事になる。だから、後払いも効いたはずだ。盗難保険見たいなものもあるはずだ
リアリズムが無い。
改めて鑑賞して、設定が全てリアリズムとは言い難い。無理やり作った不幸な設定で始まる。それは日本人が得意で、日本人の好む映画だ。
『自転車ありき』になっている。要は仕事があれば良いのだろうから、リアリズムに考えれば、自転車が無くても出来るワザを取得しようとする。つまり、自転車が盗まれて、盗み返すまでの鑑賞時間はリアリズムにとって無駄な時間になる。
親父が好きな映画で、この映画と『ドイツ零年』と『情婦マノン』等は、見る前から、内容は知っていた。改めて鑑賞しての第一印象は『馬鹿な男だね』。親父は『可哀想な男だ』って言っていた。私はそう思っていた親父と、そう思わされていた私の人生が可哀想だと、今は思っている。
我が親父もこの映画の主人公の様に馬鹿な男だった。家族に迷惑をかけて地獄へ落ちた人物である。この映画では、結局は子供に助けられる。さて、親父がこの映画の主人公に『憐れみ』を感じた理由は、このかわいい息子の存在だったのかもしれない。僕はこの息子の様に甲斐甲斐しく親父に対して振る舞わなかった。
そう言えば『鉄道員』の横暴でわがままな主人公にもかわいい息子がいた。親父は『鉄道員』も好きな映画だった。
名作と言われる様だが、子供を使ったベタな人情劇なストーリーだと感じた。『リアリズモ』とは言い難い。
イタリアは敗戦国ではない。
『くどくて、しつこいな
兎に角、早く仕事しろ!』
最後の最後に残ったもの
どうしても映画作品として見た場合には色々なシーンに意味を見つけたくなる。そしてその意味が監督の意図したものなのか確認したくなる。見た人の数だけ理解はあり、完全な正解はわからないものだけれど。
火垂るの墓を書いた野坂昭如の娘が、国語の授業で作者の気持ちを考えろと言われ、父親に聞いたら締め切りに追われて忙しかったと答えた、というエピソードは実は都市伝説らしいのだが、つまりそれほど作者や監督の意図は掴みにくいもの。
それを踏まえたうえで、自分の解釈を書くとすると。
迷信や信仰を拒絶し、現実的な解決策を模索した結果、自転車は彼の手に戻らなかった……とも読み取れるし、あの時代に自転車が盗まれたなら何をやったって見つけるのは無理な話なわけだからそこに因果関係は無いとも言える。
信仰心の欠如が招いたのか、それともそんなものも無くなるほどあの時代は困窮を極め、「貧すれば鈍する」状態だったのか。
イタリア、特にローマはバチカンが市内にあるし、非常に信仰が篤い土地柄。なのに主人公が信心をないがしろにするのは、単なる寓話的な仕掛けではなく、信心すらも失う戦後の貧困を表しているのではないか。
1948年制作のこの映画、戦後3年のイタリアはまだまだ荒れ果てていた。なんせこの映画すら作る金が無くてアメリカが援助しようとしていたくらいだ。
なので監督が描きたかったのは、「困窮」の方ではないかと考える。
(ところで、そもそも自転車無くてもポスター貼れるのでは、というツッコミがあったが、雇い主からの条件に自転車必須とあると冒頭で説明がある。そこに反駁しても無粋なだけ)
万策尽きた後で主人公は自転車を盗もうとするがそれも失敗する。
そしてそれで罪人となるかもしれなかった主人公は、息子に免じて解放される。
最後の涙は自らの情けなさを嘆くものか、それとも仕事を見つけるための2年の歳月と仕事をするための自転車を失っても、本当に必要なモノ=息子は失っていなかったという安堵なのか。
主人公の感情としては前者なのだろうが、監督が訴えたかったものは後者だと思いたい。
私なりに考察してみました。
戦後の困窮した情勢がシーンの至る所から伝わる名作でした。鑑賞後、観た人はどうだったのか?と調べたら不遇、救われない、悲しいといった感想が多かったのですが、私の感想はどこか違います。境遇は可哀想に思いますが、教訓に近い話に感じました。以降、考察となります。主人公のアントニオが不運に見舞われるのはいつも自己中心的な振る舞いと、信仰心を含めた無礼な振る舞いをした時でした。占いをインチキと言い妻の信念を無下にします。その際、周囲にも迷惑を掛けていました。教会では人を押し退け、礼拝を台無しにしてしまいます。神に対してだけでなく、そこに居る人達へ無礼な振る舞いをしてしまいます。(息子のブルーノは教徒の行為への咄嗟的な真似とは言え、十字を切り、非礼を詫びました。結果何が起きたかと言うと息子は溺死せずに済んでいました。私には死の回避に思えてしまうんです。)その後の終盤、神に縋る思いで占い師の部屋を訪れますが、そこでもまた無礼な振る舞いをしてしまいます。その際に受ける啓示は、他の指示者のような具体的なものではなく流動的なものでした。「お前の態度次第」だと言っているように感じました。結果はまた頭ごなしに疑って掛かり、本当のことを言っているのに誰からも信じて貰えす、一生手に入らないものになってしまいました。邪推かも知れませんが、信じるものは救われる、の逆で神を含む他者を信じれないような奴が救われることは無い。という意味が込められているように感じました。人は追い詰められると客観性を失ってしまいます。その位の窮地に立っているのですが、そんな時でも失ってはいけないものがあることを学べる映画に思えました。
自転車が高価だった頃のイタリアの話
「ひまわり」で有名なヴィットリオ・デ・シーカの初期の作品。
この名作を最近になって観た(2018年)。 公開当時見ていたならば(1950年)、日本と同じように戦後の貧しい状況が胸に突き刺さっていたかもしれない。
ただ、今見るとはっきり言って何か物足りない。特に最後は自分にはかなり唐突に終わってしまった感じだった。結局何が言いたかったのか?盗まれても盗むな?
古い映画を見るときに、同じ頃の映画と比較することがある。この映画は1948年の制作で、1946年の製作のアメリカ映画「素晴らしき哉、人生」があった。アメリカでは既に普通の人でも自動車を持っていたんですね。
不甲斐ない父親の話
ブルーノの視線で観てました。 どれだけの苦痛かと思いました。
最後は哀れな父親の姿を見てしまい、ショックを受け涙が止まらない中、それでもお父さんの様子を気にして顔を何度も伺い、父親が泣いているのに気づくと、ぎゅっと彼の手を握る。 最後は胸が詰まって泣けました。
この映画が伝えたかった事ってなんだろうと考えました。
戦後の生活は大変だったとか、真面目な人が理不尽な目に遭って気の毒だとか、そういう事ではないのではと思いました。というか私が感じた事は、ただ単に不甲斐ない父親の不注意で起こった事件で、家族が振り回され、子供が精神的に辛い思いをするという話。。。です。
息子、ブルーノは自転車捜しに連れまわされる間、ずっと父親の様子や気持ちを気にしているのに、父親は自転車を見つけなきゃという事だけ頭にある様で、ブルーノを遅くまで待たせてしまった時も、雨にぬれて人に押されたり、転んだりしても、トイレに行きたくても、父親は気づいてもいない。
奥さんがシーツを質に入れてまで、取り戻した自転車。 取り戻した直後にも、自転車を近くにいた見知らぬ子供に見ててねと言い、置きっぱなしにして離れるシーンがありました。 事の重大性がわからない、考えのない人だなと思いました。 父親本人については、気の毒というより、イライラしました。
題名のせいで
題名のせいで冒頭からハラハラし通し。こんなハラハラどきどき苦しかった映画は今までなかったかも? 精神が持ちません!時々クスッと笑えたり、ホッとしたりもあったけど。子供がとても良い子だし、家族幸せになって欲しいと最後まで祈るような気持ちで観ました。おススメです。(ここからネタバレ)きっと自転車は犯人に迫って問い詰めていた間に、あの男に直前にどこかへ隠されたんだと思う。でもお父さんも息子もその現場を見ていなかった。あー悔しい! また川のシーンでは息子を階段の上に見つけた時、もう自転車を諦めるのかと思いきや、息子に食事を摂らせながら、いかに生計を立てる為、2年も待って得たばかりの職を失いたくなく、その為には自転車が必要なのかを子供に計算させながらしっかり現実社会を教えていたのにはすごいなぁと思った。
淡々と人間を見つめる視点。
世の中には何も救いがない。この映画で描かれる唯一の救いらしきものは、リッチの罪を、息子に免じて恩赦する人情。けれどもその人情でご飯が食べていける訳でもない。二人はただ暗い顔をするより他ないのでしょう。
人が生きるということにおいて、社会や宗教ということは個人にとって重要な、というか不可欠なシステムであることは言うまでもないと思います。個人の生活を守るために、社会システムは存在し、また個人の幸せのために宗教は生まれたものであるはずです。特に、日本人の僕が感じる宗教感よりも、当時のイタリアは、それまでの歴史に支えられたキリスト教への信頼があるはずで、そこについては僕が考えるよりもずっと強い結びつきがあると考えます。
けれども、社会も宗教も、リッチを救ってはくれない。
警察には「自転車は自分で探せ」と突き返される。占い師は全く役に立たない。
自転車泥棒になれる人間がいる一方で、なれない人間もいる。人を救ってくれるはずのシステムも機能していない。人を救うはずの神様もいない。人間が人間を騙し、疑い、追い詰められ、自らの不幸から他人を傷つける。この世に生きる汚い部分のほとんどが描かれているような気すらします。
けれども、決してそれだけが全てではない。苦しみばかりが続く中でも、ご飯を食べると美味しいし、誰かが無事でいてくれたことに対する安堵の表情がある。罪を許す寛容さを持つ人間もいる。些細なことではあるけれど、この映画においてはそんなことに大きな安心感を覚えるのです。苦しみばかりの中にある幸せは、相対的に見るとぐっと大きくなるのです。
案外、人生というものはそういうものなのかなと思ったりします。ネオ・リアリズモの大作と呼ばれている本作品をどう観たらよいか、僕が語るには難しすぎるものではありますが、僕なりに解釈するならば、この映画は事実の羅列。事実だからこそ、社会に向ける痛烈なメッセージは鋭い。
こんな人々がいるんだけど、いいの?というスタンス。
恵まれた人々は、単なる映画だからと、この映画に描かれた事実から目をそらすことができたかもしれない。そんな、受け取る人間の良心に委ねるような性格がこの作品にはあるような気がします。
リアルなものだからこそ、全く共感を持てない環境に生きる僕がこの映画から感じ取れるものは、公開当時に人々が感じたそれとは大きな隔たりがあります。それでも、無関心ではいられない何かモヤモヤしたものを残すのは、環境が違っても、原因は違っても、結局人間は同じような苦しみと幸福の中に生きる存在だということが、普遍的なものだから、なのかなと思います。
泣きたい
思いが詰まる。
最後の息子の手を強く握りしめて泣く主人公が堪らない。
今後の生活、家族の食い扶持の仕事が失われる恐怖。
警察はあてにならなくて、手を尽くして探しても
盗まれた自転車は見つからない。
方々を歩き手掛かりを見つけても逃げ出されて、藁を掴む気持ちで怪しい宗教を訪ねても無駄。
犯人を探しだしても街の皆がグルで罵倒されながらその場を去る主人公。辛い。
息子と一緒に料理店に行って美味しい物食べてワイン飲もう、なんてシーンは明るくて、
それこそ映画ならここから好転してもいいのに、現状は何も変わらないまま。
最後は自分が自転車泥棒になって、息子を見ての温情で解放される。
驚いたのは街の人の生活がそのまま切り取ったように描かれていたこと。
当時の時代が本当に描かれていたようなものなのかまだ分からない。
でも華美な演出はなく素直な日常、現実が描かれてるように感じた。
食事の席でも、向かいの席には富裕層が座ってて本当に夢見せてくれないところとか。
その富裕層の半分以下の月給でも主人公家族達にとっては生きていく為のお金。
泣きながら人混みに紛れてく主人公達に、
どうか明日も生きてほしいと思わずにいられない。
この手があれば、今日も生きていける。
絶望、胸がキリキリとしめつけられ痛くなる映画です。切ないなんて言葉では足りない。けれど、私にとっては、もうダメだと絶望につき落とされた時に頭を過る映画の1つです。映画の中には希望のかけらもないのにね。
「イタリア・ネオレアリズモの代表作」と聞いていたので難しそうだなあと敬遠していました。けど、そんな頭でっかちな評(評論家の方々ごめんなさい)なんか置いておいて、とにかく観てほしい映画です。
下記のような”あるある”感が”イタリア・ネオレアリズモ”? 丁寧に描かれています。素人役者と知ってビックリするほど。
自転車盗まれる前に鍵かけなさいって、その鍵買うのにもお金がいるんだよ。
食べることにも困るような、仕事もない不況でサッカーに興じているなんてさって、やることないから、その時その時に興じれる、盛り上がれるものに集中して発散しているんだよ。こういうのがないと暴動にも発展しかねないし。
ましてや明日は明日の風が吹く、アントニオみたいにせっかく手に入れた仕事だって、明日にはどうなるかわからない。だから一瞬一瞬に打ち込んで楽しむしかないんだよ。
コミュニティが皆でコミュニティの一員かばって、アントニオをボコボコにしてって、そういう結束力があるから無職になってもなんとか食べていけるんだよ。一人は皆の為に、皆は一人の為にってね。
という風に、赴任していた”発展途上国”と言われる国をそのまんま思い出すような”あるある”感満載の映画。
そんな背景の中で紡がれる物語。
「仕事に必要な自転車がない!!!」→「仕事に必要な●●がない!!!」→「失職する!!!」という恐怖感。
例えばデータがLOSTしちゃったとか etc…。人生で次々に遭遇する喪失感・絶望感。「ああ、このままじゃ破滅だ…」ムンクの叫びそのままの世界。その焦り・絶望・驚愕。
アントニオのパニックがわが身に降りかかる。なんとか挽回しなきゃと闇雲に放浪(探しているつもりでも論理立てて探せない)。藁をもすがるつもりで、頼りにならない人ー時にはかえって混乱させてくれる人々への相談。落ち着け自分、元気出せ自分とばかりに、かえって事態を悪化させるような行動をとってしまう。挙句の果てに…ああ、あれさえあればこの危機を乗り越えられる。視野狭窄。そして自分の首を絞めて、さらなるドつぼへ…。ああ。アントニオの行動そのまんま。
もうダメだ。どうしようもない。奈落の底に落ちた自分。生きていくことさえ苦痛になっていく絶望感。
古い映画ですが、アントニオはそのまんま、右往左往している今の自分。ここでも”あるある”感満載。
そしてラスト。
子どものブルーノが泣きながら、全てを失って茫然自失となっている父であるアントニオの手を握ろうとする。だが、父はその手を振り払い握らせない。情けなくって情けなくって、子どもの手を握り返せないのだろう。でも子どもは諦めない。何度振り払われても父の手を握ろうとする。そして何度目かに、やっと父はこの手を握る。その手を子が握り返す。そして今度は父はしっかりと子どもの手を握りしめ、二人は歩いていく。
この手がある限り、死んではいけない、そう思う。そういう映画です。観てください。
強く心に訴える作品
第2次世界大戦後のイタリアを舞台に、1台の自転車を巡る親子の姿を描き、戦後の貧困を浮き彫りにした映画。ネオレアリズモの代表的な作品のひとつ。
救われない。心に強く訴えるものがある。今の映画にはなかなかないねぇ。
全14件を表示