裁かるゝジャンヌのレビュー・感想・評価
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ジャンヌ・ダルク最期の日
今から94年前に作られたサイレント映画(もちろんモノクロ)。古~い名作というだけで観る前からわくわく。
舞台は1431年フランスのルーアン。百年戦争の後期。イングランド側に引き渡されたジャンヌ・ダルクと悪意に満ちた聖職者たちとの魔女審問裁判でのやりとりと死刑執行、執行後の混乱を描いた映画です。
何がジャンヌを魔女と判断させたのか。審問官の問いかけにどう答えると異端とされるのか、あるいは魔女と判断されるのか。
文字を読むことも書くこともできなかったジャンヌはどのようにして魔女にしたてられたのか。
くるくる変わるジャンヌ・ダルクの表情が痛ましくも胸を打つ。恐怖におののく表情、また時に見せる信仰心から来る安らかな表情。
この映画は死に直面した悲劇のヒロイン、ジャンヌの恐怖と信仰心との葛藤、さらに肉体の終焉を体感するものである。
十字架に張り付けられ黒焦げになったジャンヌを見て見物に来ていた民衆から「聖女が殺された!」と叫ぶ声が。そしてジャンヌの死刑に抗議するかのように民衆の暴動が始まる。
僕にはこれが唯一の救いでした。
とんでもない映画を観てしまった
観なければ一生後悔しそうだったので鑑賞しました。
映画.comがきっかけで作品を知り、主演のルネ・ファルコネッティの生涯にも惹かれていたので非常に大満足な映画でした。
セリフは一切なく要所要所にフランス語と日本語の字幕が出るのみ。会話のシーンの多さの割に字幕が少なく、演者の表情からストーリーの展開が伝わります。
BGMのパイプオルガンが荘厳で裁判という非日常空間にぴったりでした。所々おどろおどろしく怖かったです。
映像のほとんどが審問者達とジャンヌのアップを交互に写したもので、出演者たちの表情が見事でした。審問者達は本当に怖かった…ニヤニヤと笑ったり眉を吊り上げて怒ったり、はたまた優しい表情でジャンヌを陥れようとしたり、しかし最後ジャンヌが火炙りを選んだ時にはまるで別人のように困惑し涙を流し慈悲深い聖職者の顔でした。
ルネ・ファルコネッティは映るたびに顔も表情も違うように見えました。「なんか急に痩せた?」と思う程。一貫して現実を見ていないような表情で時折涙を流し、語る言葉から強固な信心深さが伝わるのも相まって妖精のようでした。涙のせいかカメラのせいかずっと瞳がキラキラしてるので本当に妖精みたいでした。審問者達の厳しい質問にも絶望的な言葉にもなんとなく現実味のない表情で応えていたので「神の娘と信じるだけあって違う次元に生きているんだなぁ」と純粋に感じました。
最後のミサと十字架を抱きしめた時の恍惚とした表情は、私には一生味わえない何かなのだろうなぁ…
ストーリーとしては序盤に「人間としてのジャンヌ」とありましたが、先ほども書いたように妖精のように感じられたジャンヌでしたし、審問者の問いに宗教的に回答していたので人間らしさはあまり感じませんでした。喜怒哀楽に乏しいため「この人が本当にフランス軍を率いたの?」と疑わずにいられないレベルです。
唯一人間らしさが見れたのは、一旦異端者と認め終身刑を受け入れたものの、死への不安から神に嘘をついたと
慌てふためく時と、その後即座に死刑執行されると知らされたときの「もう…今?」と尋ねた時。絶望というよりも驚きと恐怖に満ちた表情のジャンヌはまさしく人間だったと思います。
最後火炙りの中でも彼女はひたすら神を思っていました。誰を憎むでも何かを悔やむでもなく、ただ神に祈っていた姿は聖人と呼べるのかもしれません。
総評として感じたのは「信仰心は守りも奪いもする」のかなということ。神という存在に対する考え方が公式に人の生き死にを左右していた時代に、その高い信仰心から国を救い、果てには自身で燃え尽きたジャンヌ。同じく神を重んじてジャンヌを追求した審問者達。そしてジャンヌを聖人と信じ教会に牙を剥き弾圧された民衆達。亡骸の横で泣き叫ぶ子供達。守られると同時に奪われて行く世界がこの映画にはあったと思います。
映画史上に燦然と輝く大傑作。これまでサイレントだからと観そびれていた自らの不明を恥じる。
言葉もない。
唖然、茫然。
正月早々から、大変なものを観てしまった。
なに、これ?
こんな凄い映画が1920年代に既に撮られてたってことか。
うーむ。
たとえば、他の名作・傑作に★5つをつけるとするなら、これには星10個つけないといけないような、それくらい突出して、圧倒的にすさまじい、空前絶後の大傑作だ。
名声は知っていたけど、これまでなんとなく無声映画だから、という理由で敬遠していた部分があるし、今出回っているのが完全版じゃないとか言われるとなんだか気乗りがせず、観そびれていた。
去年の夏、シネマヴェーラで同じドライヤー監督の『怒りの日』を観て、その生々しいリアリズムに衝撃を受けた。去年観た映画のなかでは『マンディンゴ』と並ぶ超ド級のインパクトだった。
一緒に観た『吸血鬼』のほうはただただ退屈で、何が面白いんだか皆目わからなかったけど、機会があったら、他のドライヤー作品も観てみたいと思った。
それが今回、最新のレストア版の上映ということで、一挙4本が小屋にかかった。
まずは、正月2日に『奇跡』と『ゲアトルーズ』を立て続けに観た。
万人が喜ぶ映画かといわれるとどうかな、という感じだが、個人的には満足感のある重厚な映画体験だった。渋いけどベルイマンやブレッソンが好きな人なら十分いけるだろう、みたいな。
で、これである。
マジでひっくり返った。
こんなん、俺見逃してたのか。
アホだろ、俺。恥ずかしい。
1920年代に、これだけの達成がすでにあったとすると、映画史にたいした伸びしろなんて最早ないのかもしれない。そう思えるくらいの衝撃度だった。
ちなみに自分は『戦艦ポチョムキン』も『黄金狂時代』も『サンライズ』も映画館で(活弁付きで)観ているが、しょうじきそこまでの衝撃は受けなかった。唯一近いのは、オーソン・ウェルズに最初に触れたときのインパクトだが、両者のあいだには20年以上の開きがある。
極端なクロースアップ。史上初のノーメイク。土に埋めたカメラでの仰角撮影。
お仕着せの脚本を拒絶し、裁判記録に立ちかえって、当時のやりとりを再現したドライヤー自身による脚本。
それらから生まれる圧倒的なリアリティ。
ジャンヌ・ダルクを救国の聖女ではなく、ありのままの存在として描いた作品……。
世のなかで流布する本作に寄せられた賛辞は、すべて「真に受けて良い」。
真に受けたうえで、身構えて、期待値を最高度に引き上げて観たとしてなお、
その数倍のエネルギーを画面からかまされ、連打を食らい、ノックアウトされる。
これは、そういう映画体験だ。
ただ、本作の「リアリティ」の部分をあまりに強調すると、実際に観た印象としての「表現主義」的な強烈さと齟齬をきたすかもしれない。
事実、ロベール・ブレッソンは一貫して本作を否定していたらしい(むべなるかな)。
ここで提供される「リアリティ」は、けっしてドキュメンタリータッチのリアリティではない。
本作は、自然とはおよそ縁遠い。いや、どちらかといえば外連味たっぷりである。
むしろ、本作のほとんどが、「演劇的」な「顔芸」で成立しているといってもよい。
日本人の演劇でたとえるなら、「歌舞伎」に近いような「えぐみ」がある。
ここでのリアリティとは、魂のリアリティだ。
積み重ねられてきた伝説や、語り手のスタンスや、宗教的な背景や、小説家による脚色を排した、「裁判記録から浮かび上がるジャンヌ・ダルクと異端審問官の魂のあり方」を画面に焼き付ける。
それが、本作のリアリティなのだ。
そのための「表現手段」自体は、リアルというよりは、激烈に表現主義的だ。
本作における極端なクロースアップと、極端な「顔芸」の連続は、一般には映画史的、映画技法的なコンテクストで語られるし、それはそれでいっこうに構わないのだが、大学で美術史を専攻した人間からすると、どうしても本作は「美術史的文脈」で語りたくなる。
ここでのジャンル・ダルクの、首を少し傾げながら、上目づかいに中空を見つめ、目いっぱいに涙をためて、片方からはそれを一筋こぼれさせる、恍惚とした表情は、まさにルネッサンス期、マニエリスム期からバロックにかけての殉教聖女像やマグダラのマリアに観られる、典型的な「型」をそのまま踏襲しているからだ。
いちばん知られた例でいえば、たとえばルーベンス。あるいは、エル・グレコや、さらにさかのぼってティツィアーノなどの有名作でも、本作のジャンヌの祖型となる造形は容易に見出される。
さらに、ジャンヌを徹底的に追い込んでゆく司祭や異端審問官のグロテスクで下卑た面相も、ダ・ヴィンチの素描や北方ルネッサンス絵画(たとえばクエンティン・マセイス)でお馴染みのものだ。これらを、背景を敢えて細密に描写せず、強烈なライティングで浮かび上がらせて強調するドラマチックな視覚効果も、カラヴァッジョやリベーラなどバロックの画家たちのハイライト技法と共通する。映画内で散りばめられる中世ならではの大道芸人や拷問器具、モーニングスター、いざり車といった要素も、ボスやブリューゲルの絵画からそのまま移植したものだ。
何より、本作の舞台として、ドライヤーはあえて中世建築をロケ地として用いず、「中世絵画に出てくる書き割りのような建築」を再現する意図をもって、新たにセットを組んだのだという。
なるほど、後年に至るまでドライヤー作品で顕著な「奥行きのない空間」の淵源は中世絵画だったのか。どうりで『奇跡』を観て、僕はその空間把握がまるで「ラファエル前派」のようだと思ったわけだ。なにせラファエル前派は、「ラファエロ以前」すなわち、盛期ルネッサンス以前(後期ゴチック~初期ルネッサンス)の様式に立ち返ることをモットーとした画家集団だったのだから。
こうしてドライヤーは、絵画芸術の豊穣な蓄積をよすがに、ホイジンガが闊達に描き出したような「中世の秋」の時代を、ある種の「概念」として映像化しようと図ったのだった。
それは「幻想の中世」といってもいいのかもしれない。
あるいは、「ドクメント(文書)を通じて脳内で再現される中世」というべきか。
要するに、ドライヤーは、15世紀半ばの「リアル」な情景を客観的な視点で眼前に再現したかったのではなく、それを描写した文書と絵画を紐解くことで心のうちに立ち現れる「仮想のリアル」をフィルムに焼き付けようとしたのだ。
美術史的文脈に則って中世を幻想的&リアルに再現する意図をもった映画という意味では、本作は『神々のたそがれ』や『沈黙の鳥』、あるいはこの夏公開されるらしい『マルケータ・ラザロヴァ』の遠いご先祖、ということになる。いずれの映画も「鳥」が重要なモチーフとして登場するのは興味深いし、そういえば、どの作品も主人公の属性こそまちまちだが、いわゆる「受難劇(Passion)」である。
この映画の主眼は、図書館に何世紀にもわたって保管されてきた裁判記録というタイムカプセルを開けて追体験した、ジャンヌ・ダルク裁判の「脳内リアル」をそのまま再現することにある。実際、本作のすべてのセリフが、資料上に遺された生のやりとりをほぼ加工なしで採用しているらしい。
だからこそ、本作の顔芸は、きわめて演劇的だ。
なぜなら、これは裁判記録の「絵解き」だからだ。
一つ一つの遺されたセリフが、どういった意図をもって放たれたのかを「説明」することが本作の第一義である以上、一つ一つの表情の演技は、そのセリフを口にしたときの心情や体調、高揚感や落胆、うちに秘めた陰謀や殉教の法悦をそれぞれ明確に反映したものでなければならない。
たとえば、異端審問官はあけすけに表情を「あざけり」と「余裕」から「驚き(真顔)」、さらには「猛烈な怒り」から「猫なで声の懐柔」へ千変万化させる。
ジャンヌもまた、応えづらい質問を掛けられた時の困惑や、やり過ごそうとする虚ろさ、一瞬の法悦と叩きおとされる絶望、恐怖、ためらい、決意――と、さまざまな表情を、ある意味衝撃的なくらいに「わかりやすく」示してくれる。
その説明過多で、これ見よがしで、外連にとんだ大げささを、おそらくロベール・ブレッソンは許せなかったのだろう(少なくとも彼の映画哲学とはほぼ真逆のアプローチだ)。
だが、「中世のドクメントを読んだ興奮」に形を与えるという意味では、これほどに的確なアプローチも他にない。ドライヤーは、文字だけで残された一人の女性の苦難と慟哭、あるいは、その女性を陥落させるべくあの手この手のゆさぶりをかける異端審問官たちに、「絵」を与えようとした。そのために、それぞれのセリフと一対一対応で、「そのセリフが放たれたときの心情」を、表情やしぐさを通じて「情報」として提供する必要がある。ここでは、「はじめに言葉ありき」、なのだ。
この作品の「クロースアップ」の羅列という抽象的・表現主義的技法の淵源は、おそらくそこにある。
それにしても、ルネ・ファルコネッティの入魂の演技は、すさまじい。
ここまでひとりの女優が役に没入して、一体化し、命をともに削ったような映画が、これまでにいったい何本あることか。
なんでもパンフによれば、ドライヤーは彼女を役に入り込ませるため、朝8時から夕方6時まで独房でひとり待たせたらしい。やがて、ファルコネッティは、自分が誰かも忘れるほど役に入り込んでいった。Wikiを見ると、順撮りで進められた撮影では、さながら催眠術にかかったかのように誰もが役になり切り、処刑前のジャンヌが髪を切るシーンでは、実際にスタッフ全員が涙を流したという。
総じて、演劇人の起用がドライヤーは多いが(これも素人ばかり出演させたブレッソンとは対照的だ)、ファルコネッティはコメディー・フランセーズの出で、この作品以降映画出演がないし、コション司教役のウジェーヌ・シルヴァンも、映画出演は本作一度切りの舞台俳優である。ジャンヌに心を添わせる若き聖職者を演じたアントナン・アルトーはシュルレアリストにして、前衛演劇のパイオニアだった人物だ。
その意味では、無声映画でありつつも、本作は1920年代フランスの演劇界の「本気」中の「本気」を抉り出し、絞り出し、落とし込んだ作品だったともいえるだろう。
最後に。
僕の率直な感想として、この映画はある種のホラーだと思う。
それは、『アンダルシアの犬』がスプラッタの始祖であるのと似て、ドライヤーが、のちにわれわれがホラーをホラーと識別する鍵となるような「恐怖」の本質を理解して、作劇に利用していたということだ。
この映画は、徹底的なサディズムとマゾヒズム、精神的拷問と権力の狂気で構成されている。
そもそも、受難劇というのは、本家本元のキリストのそれからして、そういうものだ。
血と肉と痛みと恐怖の物語は、実は観客にとってはそれ自体が快楽の一部でありながら、キリスト教的な聖性によって、糊塗され、隠蔽されている。でも、その本質はまごうことなきホラー――「主人公の身体と精神が破壊されていく恐怖の興奮と快感」と直結しているのだ。
いじめられ、おとしめられ、罠にかけられ、ぼろぬののように扱われるジャンヌ・ダルク。
観客は、あるときはジャンヌと同化して恐怖に身を焦がし、あるときは審問官と同化して嗜虐の毒をひそかに食らう。
ここぞというポイントで、瀉血で静脈から噴出する血流とか、目前に迫る拷問器具の回転と先端恐怖とか、(女性の命ともいえる)髪を切り落とす恐怖とか、焼け焦げる黒い塊と化してゆくジャンヌをヴィジブルで描写するとか、「どう見てもホラーな演出」で抜群の冴えを見せているのは、そこにドライヤーの作家性の本質が存在しているからだろう。
やがて、ドライヤーは『吸血鬼』という真正のホラー映画を撮り、本作のネガともいえる魔女が火刑に処される『怒りの日』において、再び尋問と拷問の恐怖を、よりスタティックかつ一般的なリアリスティックな演出を用いて再話することになる。
この監督は、他の芸術映画の「名匠」たちと比べても、格段に「恐怖」のなんたるかを知っている。
それが、真の意味で発揮されたのが、『裁かるるジャンヌ』でいう傑作である。
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