サテリコンのレビュー・感想・評価
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古代ローマを学べる教育的映画(大嘘)
古代ローマ帝国において暴君として知られるネロ・クラウディウスに仕えたペトロニウス(「クォ・ヴァディス」では架空の人物である主人公の叔父と設定)が書いたとされる当時の堕落したローマを描いた風刺小説「サテュリコン」をイタリアを代表する「映像の魔術師」フェデリコ・フェリーニが映画化した作品。当時の文化を学べる学生にもオススメな教育的映画!!
………というのは大嘘で、後期フェリーニの特徴である奇抜な世界観をエログロで濃厚に味付けした作品である。後に実写映画版「ベルサイユのばら」にてジェローデル伯爵を演じる当時新人のマーティン・ポッターの主人公エンコルピオ(エンコルピウス)、彼が愛する少年奴隷ジトーネ(ギトン)、ハイラム・ケラーがギラギラした目と出っ歯気味の歯で魅せる悪友アシルト(アスキュリトス)の3人が古代ローマ世界を探求する。サテュリコンは完全な形で現存していない。その為かほぼオムニバス形式となっている。古典ゆえにセリフも芝居調。建物や衣装、ヘアメイクなど時代考証がどこまで正確かは分からないが、後期においてチネチッタでのセット撮影に拘った監督らしい「なんだかそれっぽい」奇想天外な世界を醸し出す。また日本人としては、サテュリコンの有名な場面である「トリマルキオの饗宴」に登場する無教養な成金の解放奴隷トリマルキオが開く生前葬のシーンで般若心経が流れていることにも注目したい。当然ネイティブによる読経ではないので不自然な響きではあるのだが、それがかえって不思議で奇抜、そして異様な画面にマッチしているのだ。
時代設定は2000年以上昔の話ではあるが、挿入される兵士と未亡人の逸話や途中細身のエンコルピオに"妻"として嫁いでしまう逞しい倒錯的な将軍(古代ローマでは同性愛は一般的だったが年上や身分の高い者が目下の者に対して"受け"に回ることは恥とされた)など現代にも通ずる人間の滑稽さが描かれている。
ただ、スティーブン・スピルバーグに対するジョン・ウィリアムズ、宮崎駿に対する久石譲、ティム・バートンに対するダニー・エルフマン、アルフレッド・ヒッチコックに対するバーナード・ハーマンのようにその音楽でフェリーニとの名コンビを演じてきたニーノ・ロータ(「ゴッドファーザー」が有名)の音楽が今作ではあまり魅力を感じず、その点で減点とした。
いい構成の文章ではないが、胡乱な世界に引っ張られたと思ってご容赦願う(鑑賞するのは3回目)。
古代ローマの退廃的な社会を旅する若者を現代に共鳴させたフェリーニ監督のニューシネマ
「アマルコルド」「道」と観てきたフェリーニ作品の、今度はそれらとは全く違う時代と内容に当惑しながらも、この紀元前のローマを舞台にした学生が体験する放浪の旅に圧倒されながら観ることになった。主人公エンコルピオが予想もしない事件や出来事に遭遇するストーリーには、一貫したものはない。だから論理的な解釈は浮かばないし、物語というより動く古代絵巻の絵画を鑑賞する面白さに終始している。ここにあるのは、酒池肉林と背徳的な性に象徴される古代ローマの退廃的で享楽的な人間の赤裸々な姿。それを映像に再現したフェリーニ監督独自の世界だ。建造物や奴隷船の巨大セット、貴族から奴隷までの色鮮やかな衣装、そして様々な人たちを登場させる背景のスケール感などが、フェリーニ監督の豊かなイマジネーションによって見事に創作されている。見世物映画として、個性的かつ贅沢な巨匠の作品。
それでも、この映画のフェリーニ監督には、アメリカ・ニューシネマに対抗したエネルギーを感じた。学生運動が激しい時代に偶然制作されたからかも知れないが、若者を主人公にした社会派映画を古代ローマの時代で気兼ねなく自由自在に描いたようなフェリーニ監督の奔放さと若さがある。その感性は、若い映画作家に負けていない。この点で、この作品はフェリーニ映画の中で特別な価値をもっていると思う。
1977年 5月24日 池袋文芸坐
撮影大変だったろうな
頽廃期のローマを描くフェリーニ監督作。
奔放なイマジネーションの洪水。熟れた(または熟れ過ぎて腐った)果実をズラリと揃えて見せつけられた気分。異型への愛と「お前も一員だ」というメッセージ。
何と言っても美術が圧倒的。意味などわからなくともその画面を見てればいい。猥雑でプリミティブな表現の連続。世界の宗教的な音をモチーフにしたであろう音響も素晴らしい。
エピソードの積み重ね&アンチクライマックス幕切れ。見終わった後しばし呆然とした。
キリスト教の道徳観を押し付けられる前のローマと道徳観の薄れた現代
キリスト教の道徳観(まあ、これも怪しいもんだが)が席巻する前、人間の欲望が露になっていたローマの酒池肉林ぶりをフェリーニらしい壮大なスケールでイマジネーション豊かに描いた世界。こういう世界を良しとするか眉をしかめるかは個人の自由でしょう。だから、フェリーニの意図を探るよりこの映画を観て自分なりにどう感じるかの方が大事だと思うけど…
文明の一皮を剥ぐと、どのような世界になるのか
オリジナルの予告編にこうあった
ローマ、ビフォーキリスト、アフターフェリーニ
正に本作を一言で言えばこうなる
かといってキリスト教を賞揚する作品でも決してない
文明の一皮を剥ぐと、どのような世界になるのか
それをこれでもかと露悪的にフェリーニには描く
弱肉強食の暴力が支配する世界、ことに道徳的な退廃はほじくり出すかの様に執拗に描写を重ねる
冒頭から主人公たる美貌のバイセクシャルな青年が、美少年を競っての痴話喧嘩の話で始まる
だから、それだけで延々と終盤迄続くのかと、ノンケの自分はいささか辟易したのだがさにあらん、フェリーニの狙いはそこには在らず上記の世界と現代の世界との対比にある
なので中盤以降、監督の意図が見えて来るにしたがって俄然面白くなってくる
ロケや海上のシーンもあるが、基本舞台劇的な構成だ
考古学的に考証はどれ程正しいのかは不明だが、多分そうだったろうとういう程の説得力はある
同性愛、小児愛、乱交の酒池肉林
夫の死に悲しむ余りに食事もとらず泣き続ける未亡人は逞しい兵士の慰めにすぐに体を許し果ては夫の遺体も兵士の落ち度を隠す為に差し出す
果ては食人シーンまでも
文明の一皮を剥ぎ取ってしまえば人間社会の本当の姿とはこれだと、フェリーニは繰り返し見せつける
それはコナンザグレートやマッドマックスの世界に近い
フェリーニは十年から二十年は早くその世界観私達に提示したのだ
製作は1969年だけに、ヒッピー的サイケデリック的な演出がなされている
キリスト教以前の邪教が支配していることを示すために般若心経がつかわれたり、ガムランがBGMに使われていたりする
もちろん仏教を邪教として揶揄する目的はフェリーニにはなくただ雰囲気として利用しているに過ぎにない
首の取れたふくよかな豊穣神の石像の下で、貴婦人の相手をして性的不能者になるシーンや、空に向かって高く起立する三角錘の石柱など性的な暗喩は無数に使われるが、般若心経のようにムード的な演出に過ぎない
衣装は東洋的な風味が施されてあるシーンがあり、これはスターウォーズの最初の三部作以降の作品の衣装に影響を与えていたように思われる
ラストシーンは主人公達の姿が壁画となり二千年後の現代に残る様で終る
そこには遺跡に吹きわたる荒涼たる風の声だけが聞こえるのみだ
つまり現代のキリスト教による道徳観やヒューマニティ観が世界を支配している現代といえど、一皮剥げばたちまちこうなるのだ
いや実はもうそうであってそうではないと装っているだけなのだ
そうフェリーニは主張している
そう自分には感じられた
美しい映像が随所にあり、美しい青年年達の顔と裸体は常時写されている
睡魔が訪れることは無かった
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