砂丘のレビュー・感想・評価
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学生運動とヒッピー
当世アメリカ若者風物詩
「イージー・ライダー」も最後には撃たれたが、僕はあのシーンは、映画製作者たちの、世に染まってしまった自己への総括、自身への糾弾だと思っている。
本作、
「ラジエーター用の水」が、=黄色いタンクが、何もない道路脇に置いてあって、ハッとした。
砂漠の一本道で何かに飢え乾いている僕としては、印象的なそのシーンに見入った。
映画のオープニングは学生集会。
理想と現実の境界線で、卒業を前に進むべき道を探って激論を交わす学生たち。
黒人、白人、ノンポリにモラトリアム。
干上がった湖底は自分の心。
乾いた砂の上で肉体を交える若者たち。
あの年代に我々を翻弄する激情と、世のシステム・親世代への憎しみと反発・・
「自分とは何か」を苦しんで自らに問うていたあの頃の焦燥感をヒリヒリと思い出す。
そういえば僕の実家は大学の正門のすぐそばで、機動隊とゲバ棒の闘いをいつも見ていた。
教員だった両親のもとに学生たちはよく来ていた。
火炎瓶が飛び交っていた。
実はお話の筋書きなぞ、監督に取っては前作同様どうでも良いことなのだ
ミケランジェロ・アントニオーニ監督の作品はどれも観るのに忍耐力を試される
本作はその最高峰だ
果てしなくつまらない
いや果てしなくつまらないようにわざと撮っているのだ
本作のテーマは一体何だったのだろう
アメリカは広大だ
ミケランジェロ・アントニオーニ監督もハリウッド進出でそう感じたであろう
原題の「ザブリスキー・ポイント」は、サンフランシスコからラスベガスに向かう飛行機の航空路の下にある
上空から見下ろすと、本作にあるような見渡す限りの砂漠が広がっている
もしかしたら監督も撮影前にこの光景を見たのかも知れない
前作欲望では1966年のロンドン
そして本作では1970年のLA
同じようにその若者文化を描くことがテーマだ
1970年の米国の若者達は空疎な論議に明け暮れている
やっていることは、若ければ何でも許されるというような甘えた独りよがりな行動に過ぎない
単なる遅すぎた反抗期の集団ヒステリーだ
それを全くシンパシーのない目でフィルムに残して行く
アルバイト秘書の娘が探していたのはドライブインの親父がうろ覚えでいうジミー・パターソンではなく、フィリリスとロン・パターソンのことだ
つまり彼女はヒッピーの集団ルネッサンス・フェア ―ズに加わろうと居そうな場所を探していたのだ
学生運動で浮き上がった若者とヒッピーに憧れる娘のつかの間の愛
ザブリスキー・ポイントの枯れた塩湖の底でマリファナでトリップしつつ砂まみれで愛し合っているといつしかヒッピー達と乱交状態になっている
そして愛し合った若者が大人達に殺されたことを知る
職場に戻ろうと会社に向かうと、彼女は会社の作った砂漠のリゾートで遊ぶ主婦達を目にし、秘書として目にした大人達のビジネスの会話を思い出す
若者は大人達に殺されたのだ
大人なんかみんな死んでしまえば良いのだと、彼女は砂漠のリゾート住宅の大爆破を夢想するのだ
それなら何故あれほど大規模な爆破シーンを延々と執拗に写すのだろう?
そう、これはハリウッド映画なのだ
ハリウッド映画ってのはこうなんだろ、だからたっぷりいれといたよ
そういう監督の嫌味が聞こえるような気がする
爆発シーンは米国映画らしさの表現なのだ
実はお話の筋書きなぞ、監督に取っては前作同様どうでも良いことなのだ
監督が描きたいのは彼が米国らしいと感じた風景と、そこに暮らす若者たちの行動と風俗なのだ
それだけなのだ
だからラストシーンに流れる曲はロイ・オービソンのSo Youngなのだ
なんたる皮肉だろう
期待したピンクフロイドの楽曲は肩透かしだった
全く存在感もないし、本作に使用する意義すらもない
単に超スローで撮った爆発シーンの破片の浮遊シーンに合うというだけのことでしかない
ニック・メイソンが批判するわけだ
しかし、捉えられた映像は美しい
ずっと後年のパリテキサスのような映像がもう既にここにある
また終盤の大爆発シーンはどんな特撮映画よりもリアルで、現代の今でも目を見張るクオリティがある
それだけが観る価値かも知れない
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