ゴッドファーザーPARTIIのレビュー・感想・評価
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ヴィトー編とマイケル編、1本で2本分の映画を楽しめた感じでお得
ヴィトー編とマイケル編、1本で2本分の映画を楽しめた感じでお得。しかもどちらのパートも面白い。
前作よりもファミリー内と家庭環境に悩まさられ苦悩するマイケル。台詞は少ないけど、視線や表情だけで感情を表現するアルパチーノの演技はすごかった。
「母が死ぬまではアイツに手を出すな」マイケルがフレド殺しを決心して、アルに放った台詞にぞっとする。いくら兄弟といえど裏切りは絶対に許さないマイケルの徹底っぷりは狂気を感じる。大物が釣れるまじない中に射殺...釣りを楽しみにしてたアンソニーがかわいそう。
「息子を中絶したわ」ケイがマイケルに放った台詞も怖い。血を絶やすためとはいえ実の息子を殺すのはどんなに辛かっただろう。それを聞いてだんだんと怒りが込み上げてくるマイケルの顔も恐ろしい。
ヴィトー編でのファミリー勢揃いしてるところを見ると、裏切りなどで減った現代パートと比べちゃって切なくなる。ファザーの誕生日祝いで1人食卓に残るマイケルで締めるのも後味いいのか悪いのか分からない。あれは結局最後はマイケルだけがファミリーで生き残ることを示唆しているのだろうか。
二つの物語が、交互に展開するため、前のストーリーを良く覚えていない...
二つの物語が、交互に展開するため、前のストーリーを良く覚えていないと、全体のストーリーが分かりづらい。
1901年からのビトーのストーリーは、セピア色かかった映像で、ロバート・デニーロがイタリア語を堪能に操りながら、かすれ声でビトーがドンとしての歩みを始めるまでを演じきっている。臆せず、動ぜず。自分が恩義を感じたり、自分を頼ってきた者のためには、危険を顧みずに便宜を図ってやる。それが、ファミリーの鉄則のようだ。その土地のヤクザのファヌッチを殺す手口なんかは冷静で、とても初めてとは思えない。故郷のシチリアに家族と共に帰った時には、父、兄、母のかたきのドン・チッチオをナイフで切り裂いて殺し、復讐を遂げる。恩義は、忘れない。と共に、復讐も忘れないということだ。
1958年からのパートⅠに続く、マイケルの物語は、ニューヨークからネバダに本拠地を移し、賭博やホテル業で、力づくで拡張し、合法化を目指す物語。しかし、強引なやり方により、周囲のマフィアとの軋轢が激化していく。ハイマン・ロスは、ビジネスパートナーを装いながら、マイケルを二重三重の罠にハメてしまおうという老獪さが凄い。フランクの暗殺未遂を企て、マイケルに容疑がかかるようにする。老齢になるまで、生き残ってきたのは、裏の手口が巧妙だからだろう。マイケルは、ハイマン・ロスの腹心、ジョニー・オラとフレドとの間に面識があるにも関わらず、フレドが嘘をついて会ったことがないと言ったことから、フレドが裏切り者と確信し、自宅襲撃の首謀者がハイマン・ロスと確信する。ハイマン・ロスは、マイケルに、ラスベガスの創始者モー・グリーンを殺されたことに対する強い気持ちを口にする。それが、マイケルを殺そうとした動機なのだろう。マイケルは暗殺者を差し向け、ジョニー・オラを殺すが、ロスには失敗。帰国後、フランクが裁判の証言者に立つことになり、今までの悪事が暴露されるピンチに立つ。フランクの兄を呼び寄せて圧力をかけ、証言されないで済む。がしかし、一部始終を聴いていた、ケイは、家を出ていくことを決意。
フレドの裏切りが家族を危険に曝し、妻であるケイがお腹の子を堕胎し、妻が家を出ていくことになったマイケルの怒りはおさまらない。せっかく、家族のために組織の合法化を目指してきたのに、水の泡。感情的になったマイケルは、フレドを殺させ、ハイマン・ロスを暗殺させ、フランクには自殺をさせる。
ストーリーをなぞってみたが、改めて、相手を安心させておいて、裏では手をまわして裏切る、殺すという手口が徹底していることがわかる。自分がそういう世界に身を置いているということは、自分の周囲、家族にも、その影響が及ぶということ。家族に対しても安心できる人は、ほぼいない。マイケルがビジネスを含めて信頼しているのは、トム・ヘイゲンだけだ。時代が変わって、売春、麻薬が幅を利かせ、一般人をも巻き込み、巨額のマネーが動く世の中になってしまい、ファミリー以上に、損得や利益のためなら何でもする世の中になってしまった。ビトーの時代のように、上手く行かない理由がそこにあるのだろう。
ゴッド・ファーザーとして、周囲から頼られる存在から始まっているのだが、時間と共に、離別、裏切り、殺される等で、家族がバラバラになり、マイケルは孤立、孤独を深めていく。最後、マイケルが、1941年のビトーの誕生日の回想するシーンがそれを物語っている。ただ、この頃から、マイケルは、他の家族とは違って一人で事を進める傾向があったようにも見える。皆が父の誕生日を祝おうという時にも、父に内緒で軍隊を志望したこと、お祝いをしに部屋を皆が出ていった時も、一人部屋に残ることなどから透けてみえた。
※更に細かくみると、ラス・ベガスを作ったモー・グリーンやハイマン・ロスは、ユダヤ人であることがわかる。金中心、損得中心の社会は、ユダヤ的な社会だ。ユダヤ人の結束は固く、やり方も巧妙。ユダヤ人は、選民思想で、その経典「タルムード」によれば、ユダヤ人以外はゴイム(獣)らしいから、他の人種が麻薬、売春で身を滅ぼそうが、騙して金を巻き上げようが関係ないと聞く。パートⅡでは、裏社会を操るものとして、ユダヤ人が描かれている。ギーリー議員を買収し、政治家を操り、キューバというアメリカとは政治や法体制が異なる異国で、砂糖、果物、通信や交通、観光業でぼろ儲けしてきた様子も描かれている。その罠に嵌り、議会で追及されて、マスコミにリークされ危うく失脚するところになるのも、ユダヤ人の常套手段だろう。
フランシス・フォード・コッポラは、マフィアを描いたのではなく、アメリカという国そのものを描いたとインタビューで答えているのを聞いたことがある。そうなのだ。これこそが、アメリカの本質。アメリカ社会の闇を描いているという点で、弛緩がなく、意味がないシーンがないことからも、これこそが傑作というに相応しい映画だ。
記憶の中で燦然と輝く傑作映画
フランシス・フォード・コッポラ監督による1974年製作のアメリカ映画。
原題:The Godfather: Part II、配給:パラマウント映画=CIC。
おくばせながらPart IIIを見て、Part IIのことを思い出しレビューを記述。Part Iと違って、映画館で見てとても感動したのを覚えている。随分と昔、高校生の頃で何に感動したのだろうか?
激情型で敵に殺された長兄と違って、常に冷静・冷徹に判断を下す三男マイケル、アルパチーノが格好良かった。意志の弱さからか結果的に組織に害を与える次兄ジョン・カザール殺害指令を、冷酷に出すマイケル。同時に敵対する人間も排除するが、妻ダイアン・キートンにはその冷酷さのためか、愛想を尽かされ去られてしまう。家族が皆健在だった昔を想い出す、孤独なマイケル。
対照的に描かれる若き頃の父ロバート・デ・ニーロの姿が、ノスタルジックなシチリアやニューヨークの映像も伴い、何とも魅力的であった。穏やかながらドスが有る話し方も相まって、虜になってしまったのを覚えている。そして、哀調を帯びながら美しいニーノ・ロータの音楽。一介のイタリア系移民からニューヨークのドンにのし上がっていく姿、家族や仲間をとても大切にする姿勢に、現在との対比もあり、大きく心を動かされた。
当時はヤクザ映画の延長線上という感じで見ていた気もするが、今思うと特殊だがある部分では代表的とも思える米国人ファミリー(他国から遅れてやってきた移民ファミリー)の昔と現在を見事に描ききった大河ドラマということか。そしてファミリーの今昔という点では、多くの日本人も同じか。田舎で裕福な大家族の一員として穏やかに生きた父母、対照的に競争社会の都会で何とか小さな家族を作る自分たちの様に。
この映画をステップにハリウッドの中心メンバーとなっていく、アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ、コッポラ監督の代表作という意味でも感慨を覚える。この映画を契機に、映画の面白さにのめり込んでいった。スクリーン誌だけで飽き足らず、キネ旬、更にシナリオまで定期購読していくことになる。自分の記憶の中で、今も燦然と輝く傑作映画である。
製作フランシス・フォード・コッポラ、原作マリオ・プーゾ、脚本フランシス・フォード・コッポラ 、マリオ・プーゾ。
撮影ゴードン・ウィリス、美術ディーン・タボウラリス、衣装セオドア・バン・ランクル、編集ピーター・ツィンナー、バリー・マルキン、リチャード・マークス、音楽ニーノ・ロータ、カーマイン・コッポラ。
出演 アル・パチーノ、ロバート・デュバル、ダイアン・キートン、ロバート・デ・ニーロ、タリア・シャイア、ジョン・カザール、マリアンナ・ヒル、マイケル・ヴィンセント・ガッツォー、G・D・スプラドリン、リチャード・ブライト、ハリー・ディーン・スタントン、
ダニー・アイエロ、ジェームズ・カーン。
二代めの憂鬱
午前十時の映画祭12にて。
1901年のイタリア・シチリア島で、9歳のビトはマフィアにはむかったと父を殺され、父の葬儀の最中に兄を殺され、ビトだけは助けてくれと嘆願に行った母まで殺され、天涯孤独となり、ひとりでアメリカ・ニューヨークへと渡った。ニューヨークのリトルイタリーで成長し、困ってた住民に寄り添い、街を牛耳ってたギャングを殺したことで、移民たちから信頼され、頭角を現していき、初代ゴッドファーザーとなった。その父を回想する二代目のマイケルは、妻に逃げられ、兄弟や義兄弟を殺さないといけなくなり孤独感を深めていく、という話。
偉大な父の後継者で二代めの大変さ、ボンクラ兄弟の面倒をみないといけない責任感、色んな思いを感じさせてくれる作品だった。
権力を持つと人は変わっていく、変わらざるを得なくなっていく、望むことでなくても。そんな思いを持つ、味わい深さを持てた。
大画面で観れ、感謝です。
マイケルがもうカッコいい!
リバイバル上映なので、逃さず映画館へ見に行きました!
長くて休憩時間のある作品だしマイケルはちょっと亭主関白すぎる感じもありますが、カッコいいので全てOKです。
父であるビト・コルレオーネの若かりし頃の描写もあり、大きな画面で見れて良かったです!!
胃が痛くなります
自宅で動画配信サービスを利用して視聴しました。
前作から続いて本作を鑑賞。
先代であるビト・コルレオーネの若いころと、現在のマイケル・コルレオーネが描かれます。現在よりも貧しく苦しい生活のはずなのにファミリーとして成立している、現在はお金はあるはずなのに、ファミリーなのか。1作目でビトが言っていた「男は家族を大切にしなければ」という発言が刺さりますね。
これまでファミリーや兄弟として生きてきた人の裏切り・・・。胃が痛くなりますね。それだけマイケルに感情移入しているのかもしれません。マイケルが家にいるシーンは画面が全体的に暗いのも非常に鬱々とさせますね。
公聴会のシーンは本物の報道映像みたいに見えました。すごいリアリティです。随分と前の映画ですが、古臭くて見るに堪えないとならないのは、こういう映像作りにもあるのでしょうか。
まだ3作目を見ていませんが、なんとなくバッドエンドに進んでいるようにしか見えないところが辛いです。3作目を見るのが少し怖いですね。
苦悩するリーダー像
ビトーとマイケルの親子がそれぞれどうゴッドファーザーになって、どう君臨するのかの過程なんだけど、その対比はマイケルにとっては酷すぎるかなあ。
人助けから始まり自分の帝国を築いたビトーの根底は家族と信頼だったように見える。ロバート・デ・ニーロは若くてカッコいい。さすがにオスカー受賞も納得。
一方、マイケルは定められた家庭の息子として、結果的に親の意図で跡継ぎになる。彼は近代的な組織ビジネスにしたかった。そこは、ファミリーよりカンパニーで信頼より能力。リーダーとして彼は、支配し君臨するスタイルをとった。結果として、ファミリーと疎遠になり、身内も妻さえも離れていく。そして裏切りは兄弟でも許せずラストにつながる。家族も仕事上の組織、2つのファミリーとも信頼できないマイケルの姿はあまりに冷たく悲しい。
暗殺で尊敬を集めた父、軽蔑しかされない三男
パート2
モーグリーンを殺して、ラスベガスの利権をとり、さらにキューバへ進出した三男マイケル率いるコルレオーネ一家。
兄のフレドと、父と昔馴染みのフランクがマイケルのことをよく思っていなく、マイケルは罠にかけられる。FBIの罠なのか、ユダヤ人ギャングの罠なのか。マイケルとトムは上院委員会で告訴される。これはコルレオーネ一家の終わりの始まりなのか。
コルレオーネ一家の始まりが描かれる。シシリア島のコルレオーネ村で父と兄と母を殺された少年ビトは単身ニューヨークへ出る。言葉も分からず、頼るものもなく。
20世紀初頭のニューヨークのイタリア人ファミリーの中で頭角を現して行く。仲間を作り家族を作る。
ビトの三男マイケルは、ずっと避け続けてきた父の跡を継ぐ。ファミリーのボスであろうとする。本来は尊敬を集めなければならない存在がいまや軽蔑される存在に。そこは、兄、妹、古くからの仲間からの妬みが増幅された場所。妻からさえも裏切られる。
ハイマンロスという引退したビジネスマンと、気のいい老いぼれフランク、フレドという自分の分身にして唯一の理解者を消す。コニーというおなじ血を分けた妹、そして最愛の息子を産んだ妻にさえも辛く当たるマイケルはどんどん孤独に陥ってゆく。
父親、マフィアとしての苦しみ
今作はマイケルの家族の始まりと崩壊か描かれていく。
フレドの裏切り、仲間の反発、妻との関係。
全てやりきれない気持ちでいっぱいになる。
前作よりさらに心が締めつけられる悲しい物語。
若い頃のビトコリオーネ役のロバート デ ニーロの美貌とオーラが漂う演技は見る価値があり、楽しめた。
過去と現在が交互になっていて、ソニーもまたでてくる。
あの頃とはすっかり変わってしまったのだと感じさせるような作りになっていた。
とにかくデニーロ
ロバート・デ・ニーロは声までかすれさせて、ビトの貧しい時代ということでかなり減量したんだろう。
とにかく徹底している。
正直言って三部作ではあんま好きじゃない。とにかく暗いんだよな〜
終止表情が硬く、不機嫌そうでしかも何度かかんしゃく起こすマイケルも好きになれない。
ただ、今でこそ時系列があっちこっちいく映画などたくさんあるから新鮮味ないだろうけど、むかしはうまい構成だと思ったなあ。
何十年もまえだけど深夜にパート1とごっちゃにした特別版がやっててやっぱいいわと思ったですよ。
そこではマイケルの奥さんが離婚したあと、修道院みたいなとこでろうそくをいくつもたてながら、何か贖罪というかそんなシーンで終わりますが、
後にも先にもこのバージョンみてない。パッケージ化してないのかな。
ビトの青年期も長かったりする、時間が
ちなみにパート3が公開される何年も前の話だけど
やっぱりでも、パート2はフレドとの確執が無視できない。ぶっちゃけビトの青年期とかどうでもいいもんなあ(笑)
本来自分が二代目なはずなのに弟に継がれる。
なぜならだってお前ダメな奴じゃん、ボスなんか務まらないじゃん?と
実際ダメな兄貴なんだが、そりゃおもしろくないよな…
で、この確執がパート3
にもかなりつながる。
やりきれないよねえ。
三作目は劇場でみたので結構ひいきしてしまうが、二作目も悪くはないです、ただ三部作のなかでは評価は落ちますね。
And Then There Were Few
Part Iと補い合うような作品でした。どちらを先に観ても良さそうですが、本作の方が、完成度が高いと思いました。
MamaやClemenza, Tessioの若き頃の役者に、Part Iの役者の面影があるような人達をちゃんと選んでますね(^。^)。DeNiroがBrandoのしゃがれ声を上手く真似ていました。
Vitoの悲しい生い立ちや、揉め事を上手く収める能力に長けていた彼がNYで頭角を表す過程が描かれています。家族と友人の生活を守ることを優先して組織を固めてきたVitoに対し、ビジネスとしての組織を守るために家族や長年の仲間をも犠牲にするMichaelとの対比が素晴らしいです。大家族に誕生日を祝ってもらう晩年のVitoと、木枯らしが吹く中、一人物思いにふける晩年のMichael。Familyとは何なのか、血縁と情とビジネスが絡みあう世界で悩んだ末、Michaelらしい最後のシーンだと思いました。
Vitoの誕生日パーティ前のテーブルを囲む回顧シーン。兄弟達の特徴が非常に分かりやすいです。導火線の短い長男Sonny、気弱で優しい次男Fredo、養子故に一歩引いて常に客観的かつ冷静なTom、兄達に押され気味で発言権のない末妹Connie、そして昔から何でも自分で決めたい三男Michael。このシーンを最初に観ておけば、Part Iの理解が深まるかなと思いました。
Al PacinoのイケメンぶりはPart Iで観ていたけれど、若きRobert DeNiroがシャープでびっくり、すごくイケメンだった…。いや、今もお二人とも渋くて格好良いです。あ、Robert Duvallもね(^^)。
パートⅠと基本構図が同じ
オープニングのシークエンスが結婚式。その式が行われている屋敷の奥では、ゴッドファーザーへの忠誠が誓われている。
これはパートⅠと全く同じ構図である。違いはと言えば、パーティー会場に流れる音楽が、パートⅠではイタリアの土俗的なものだったのに対して、時が流れたパートⅡではダンスのための音楽がアメリカナイズされていることである。
これは、この作品では、彼らファミリーのアメリカ社会への浸透ではなく、アメリカというもののファミリーへの浸透、つまり、彼ら自身のアメリカナイズが描かれることの宣言であるかのようだ。
変奏曲。パートⅡのパートⅠに対する位置づけを一言で表わすならばこうであろう。
パートⅠと同様、追い詰められ危機に陥ったマイケルがとった戦略は、連携した敵たちを同時に殲滅するというものだった。
主人公のマイケル・コルレオーネは、父の辿ってきた道に思いを巡らす。これは、ロバート・デニーロが父ビトーを演じるセピア色の部分に限らず、現在進行形のマイケルの物語においても彼の心中にあるのものは常に父親への想いである。
ファミリーとしての信頼、結束が崩れていくのは、果たして父とは時代が異なるからなのか、それとも自分と父の力量の違いによるものなのか。マイケルはその逡巡から離れることは出来ない。
糟糠の妻、実の兄、子供のころから信頼してきた者たちによる裏切り。これに対して冷徹に対処すれば自分の周りには誰もいなくなってしまう。
皮肉なことに最後に傍に残ったのは、二度目の出戻りをしてきた不肖の妹ひとりである。
ロバート・デニーロかっこいい、、!
前作に引き続き見ましたが相変わらず重圧感のあるマフィア映画。
陰影の使い方もよく工夫され、マフィアの恐ろしさがよく表現されてた。
ロバート・デニーロが若き日のドン・コルレオーネを演じててとてもよかった。
最後の方どんどん悪い方向に進んでいくマイケル、、、奥さん殴って子供だけ引き取ったり、お兄ちゃん殺しちゃうし、、、
続きが気になる!!どうなるマイケル!
*実際の歴史を知る事の面白さが魅力*
こんな最高の作品があるだろうか。
最早文学。
この度はクライムファミリーコルレオーネの歴史と現代へようこそと言う感じ。
Part2は続きと思って観るよりも、実在したモブスターの知識を得てから鑑賞する事で一気に面白味を増す。
マイケルの洗練された姿は、まさに苦悩の塊そのもの。品位と重たい存在感が備わっており、むしろここまで圧倒するキャラクターは映画らしいといえばそうだ。
さらにマイケルの父親の若かりし頃をデニーロが演じているが、何と言う格好良さだろうか!
Part2の面白味は、「マイケルがいかに強いか」と言う点にあるのではと思う。
まず、明らか過ぎるマイヤー・ランスキーをモデルにしたハイマン・ロス。ランスキーが言ったとされる台詞までロスに言わせる始末だ。実際に国を転々とするも受け入れてもらえぬランスキーだが、そんなところまで忠実にロスは演じている。実際のランスキーは、殺されてはいない。そのはずである。マイケルは?容赦なく殺すのだから、最早その世界では無敵のような強さだ。ランスキーは、その世界でもナンバーワンとも言われたルチアーノの右腕のような人物だった。映画などでは時々、英語の会話の方(字幕でなく台詞)で、名前を耳にする事もある。「マイアミの大物」といえばこの人だった。
そしてロスは、マイケルに対し、昔自分の友人を消されたと言う話をする。ランスキーの仲間だったベンジャミン・シーゲルについて言っている。
なんて「明らか」な人物だろうか?
笑ってしまう。
この辺りは映画ランスキーやモブスターズなどなどで観られるだろう。
実在の人物を知った途端、別の面白さを引き出すのがPart2だ。
マイケルは、当時のクライムファミリーの歴史の流れとも一致した行動をとる。
バグジーがきっかけとも言えるラスベガスには続々とファミリーが進出したし、コルレオーネファミリーも行く。
ここでは出てこないが、キューバ革命の前に、CIAがモブスターらにカストロ暗殺を依頼したと言う話も有名だ。
さらに、なんとか委員会を思い出させるシーン。マイケルも呼び出されて尋問される。ああいうのが実在した時代、内部の揉め事から、コーザノストラの実情をベラベラと発言した構成員もいた。
Part2は、そう言う歴史を追って実際の出来事を思い出させる内容にもなっている。
なるほど、コルレオーネファミリーは、いかに強いか。それが嫌というほど感じる。同時にマイケルの冷酷さも完璧過ぎていて、理解不能な人物だ。だけどそれが良い。マイケルは、徹底して排除する点で冷たいが、物凄いストレスも感じているのだから。こういうキャラクターは本当にいい。マイケルは決してブレる事がない。
実在のシチリアのコルレオーネファミリーはその他同業者もだが、メディアや本に触れる限り本気で洒落にならんも
のだ。(もちろんマイケルの話とは無関係)クライムムービーは、本当に映画だからこそ魅力だ。
ラストの想い出の一場面が良い。
再びそこでPart1に返ってしまう。
ポータブルDVDによる車内鑑賞レビュー
2代目・マイケル の “その後” と、 父親・ヴィトー の “若かりし日” が 交錯し、
この二つの時代を横断する
「感情の相似 ― 似ている点」 と
「環境の相違 ― 違う点」
が絡み合いながら、“成長と成功” を堪能できるもの、 と期待していました。
しかし、
「感情の相似 ― 似ている点」 は跡形も無く消え去り、
「環境の相違 ― 違う点」 のみが強調され、
“憐れなほどの格差” に苛まされることになります。
第一作目からの感情を断ち切るような 「2代目・マイケルを襲う過酷さ」 と、
2つの世代を縦横無尽に行き来する見事な 「2つの時制のラビリンス」 が、
今作が第一作目とともにアカデミー作品賞に輝いた要因だ、と断言します。
実に、残酷で芳醇な逸品だったのです。
前作 第1作目の 「ゴッドファーザー」 において、2代目を継いだ
マイケル の “その後の物語” と、
一代で ”ファミリー” を立ち上げた マイケルの父親
ヴィトー の “若かりし日の物語” がリンクする、
非常に意欲的な構造を今作は成しています。
そんな今作のファーストカットは、トランペットの哀愁を帯びたメロディと共に、ゴッドファーザーとしての役割を “物憂い” 表情で行っている 二代目・マイケル を映し出してきたのです。
この時点で、ボクは
今作の性向を察知
するべきだったのです。
ファーストカットからして、 マイケル は
“物憂い” 表情 という、
判りやすい態度でいてくれたわけですから。
【 父親・ヴィトー の大帝国を引き継いだ 三男・マイケルの “その後の物語”
と
父親・ヴィトー の “若かりし日々” がリンクしてくる。 】
そんな今作のプロットから推測して、ボクは、二つの時代に展開していく “成長と成功” を体感できるものと、
大きな勘違い
をしてしまったのです。
一方は、“成長と成功” を獲得していくが
他方は真逆の悲惨な状況に陥っていく。
今作はそんな、過酷な展開をしていったのです。
この皮肉なストーリーを今作は、ある “象徴的なモノ” に託してタイトルバックに
結実させていたのです。
“象徴的なモノ” それは、
マイケル が座っていた
書斎の 重厚な椅子。
その年季の入り具合から、先代・ヴィトー の時代から使われ続けている物だと推察することができます。
先代・ヴィトー の様々な局面を身近に見守ってきて、これからの 2代目・マイケル の諸行を目撃していくこの椅子こそが、
2世代の物語を俯瞰していく
今作のタイトルバックに、最適な被写体であったのです。
しかも、椅子というモノが暗示する事柄を考えると、その想いはひときわ重くなるのです。
椅子が暗示するもの
それは、 「地位」 。
若かりし ヴィトー が如何にしてこの 「地位」 を築き、
若き マイケル が如何にしてその 「地位」 を保つために、悲惨な人生に
堕ちていくのか。
そんな今作の世界観を象徴するこのタイトルバックに、
ボク は早々に映画的興味を駆き立てられたのです。
この素晴らしいオープニングショットの後、
映画は ヴィトー 9歳時の過酷な運命を語ってきました。
辛い経緯の後、シシリー島を追われるように彼は、9歳の身で単身アメリカに逃れてくるのです。
移民船がニューヨークに近づき、デッキの移民たちが無言で一つの方向を
見つめている。
勿論、幼きヴィトーもいる。
その視線の行き着く先に、 自由の女神 が静かに姿を見せてきたのです。
この映像を、郷愁を湛えた音楽が包み込んでいきました。
「不安と夢」 が混ざったこの船上に、自分の命を守る為に9歳の男の子がいることに、
言いしれない 哀しさ
を感じたのです。
検閲官に名前を聞かれ、ヴィトー が英語を話せないでいると、
“コルレオーネ村の ヴィトー・アンドリーニ” という名札を誤解され、
台帳に ヴィトー・コルレオーネ と記入されてしまいます。これが彼の本名となっていきました。
それだけ、この9歳児は アメリカ大陸においては
“何もできない存在” だったのです。
今作は、天然痘の疑いでエリス島に隔離された収容所の窓越しに、 ヴィトー
が自由の女神 を虚ろに眺めている
1901年 から “ オーバラップ ” という技法を用いて、 もう一つの時制、
1958年 2代目・マイケル の時代に、移行 していきました。
“ オーバーラップ ” という技法は
「 A 」 → 「 B 」 と場面が移行する際、
先行する 【 カット 「 A 」 】 が徐々に薄くなるや、
次なる 【 カット 「 B 」 】 が現れ始めて、
2つのカットが重なりあいながら
ゆったりと場面移行をしていく表現手法を指します。
この手法を今作は、
「 A 」 で生じた 感情 を 持続 させながら、
「 B 」 という 状況 に 移行 する為に、
効果的に活用しているのです。
9歳時の ヴィトー からの “オーバラップ” 先 は 同じ年頃の アンソニー・ヴィトー・コルレオーネ のキリスト教儀式の場でした。 名前に ヴィトー の文字がある通り、彼は ヴィトー の孫、マイケルの息子にあたる少年なのです。
英語が話せず、孤独で不安、粗末ないでたちの ヴィトー と、
キレイに着飾った孫の アンソニー。
その後の、盛大な聖餐会をしてもらえる アンソニー と
一人寂しく隔離されている ヴィトー 。
このように、
同じ年頃 ではあるが、
違う環境 にいる 二人の、
57年間の 大きな隔たりを繋ぐ “オーバーラップ” の見事さに
感動したのです。
この “オーバーラップ” の素晴らしさに触れて、ボクは、早くも今作の ”映画のルール” を見つけた思いになったのです。 それは
【 父親・ヴィトー と 2代目・マイケル の時代は、
二つの時代に共通する要素を 「ブリッジ」 にして、
“オーバーラップ” で繋いでいく 】
というものでした。
そして、このような “ルール” で活用されていく “オーバーラップ” という
表現手法は、 2つの時代に共存している
「相似」 点 ― 似かよっている点 と
「相違」 点 ― 違いがハッキリしている点 の
コントラスト をしっかりと描いていくはず。
とこの時点のボクは 大きな期待を持ったのでした。
2代目・マイケル の時代に今作のストーリーを推進していく事件が勃発しました。
あろうことか、マイケル の自宅にマシンガン攻撃がなされたのです。
驚愕する マイケル 、騒然とする “ファミリー” の面々 。 平静を装って子供を寝かし付ける彼の横顔に
“オーバーラップ” してくる
青年の姿がありました。
時は 1917年 ヴィトー 25歳。
今作は1児の父親となっていた ヴィトー の時制へと “オーバーラップ” していったのです。
9歳の時、自分の名前を主張できずに ヴィトー・コルレオーネ という名前になってしまった、あの何もできなかった孤独な少年が ロバート・デ・ニーロ に成長していたのです。
今回の時制移行が、それ以降の “オーバーラップ” 表現の指針となったわけですが、
この、2代目・マイケル と デ・ニーロ 演じる若かりし日の 父親・ヴィトー の2つの時制を結ぶものが
寝室を銃撃された直後、マイケル が息子を気遣いながら寝かし付ける
「父親の顔」 と
デ・ニーロ 演じる ヴィトー の、ベビーベッドにいる 長男 を見守る
「父親の顔」 への
“オーバーラップ” となっていたのです。
時代は違えど、子供を気遣う 普遍的な感情 を見て、心が暖かくなっていきました。
これがボクの言う
「相似点」 ― 似かよっている点 を
象徴するカットだったのです。
しかも、 “似通っている点” の中でも、 “人の想い” に注目していることから、
今作は
【 「感情の相似点」 - 時代は違えど、共通する 人の想い - を
「ブリッジ」 にして2つの時制を “オーバーラップ” で繋いでいく 】
という、映画のルール によって進行するものと、思い込んだのです。
制限文字数では語り切れず。完成版はこちら
↓
http(ダブルコロン)//ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-94.html
重厚な大作
マーロンブランドの若手時代をデニーロが演じ、過去とアルパチーノが仕切っている現代(1950年代)を行き来する構成を把握するのが大変だった。デニーロがインディーズから出世していくところ面白かった。結局裏切り者は一体誰だったのか煙に巻かれたような印象で、そこがマフィアの恐ろしさの本質なのかもしれない。売春婦が殺されて、何も覚えていないと動揺していたおじいさんは誰だったんだろう。上半身裸で髪が乱れていたせいでよくわからなかった。とにかく登場人物が多くて、誰が誰の兄弟でとか、それも把握するのが大変だった。
(追記)
1作目を見たので続けて見る。2回目だ。1作目も長いが、こっちはさらに長くて3時間20分もあって見るのが大変だ。同時多発的に敵を殺す場面はハラハラする。
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