「『新ドイツ零年』が映し出す歴史の廃墟と亡霊」新ドイツ零年 t2lawさんの映画レビュー(感想・評価)
『新ドイツ零年』が映し出す歴史の廃墟と亡霊
1991年、ベルリンの壁が崩壊し、ソビエト連邦が終焉を迎えたその年。ジャン=リュック・ゴダールが発表した『新ドイツ零年』は、単なる東西統合の記録ではない。それは、映画という装置を用いてドイツの分断史を総括し、共産主義の挫折を冷徹に弔う、壮大な「思考のインスタレーション」である。
<ロッセリーニの「廃墟」を継承する眼差し>
本作の核心には、ロベルト・ロッセリーニが1948年に撮り上げた『ドイツ零年』への強烈な意識がある。ナチス支配が崩壊した直後のベルリン、その廃墟を彷徨う少年のロングショットを引用することで、ゴダールは「新たな零年(出発点)」に立つドイツを、歴史の連続性の中に置いた。
ローザ・ルクセンブルクが運河に投げ込まれた現場を巡るロードムービー的な構成は、共産支配側から見た東ドイツの記憶を辿る巡礼であり、同時にその記憶が消滅しゆくことへのレクイエムでもある。
<レミー・コーション:アルファヴィルからの帰還>
本作最大の映画的衝撃は、主演のエディ・コンスタンティーヌが、1965年の『アルファヴィル』と同じスパイ「レミー・コーション(003)」として登場することだ。
かつてパリの夜景を舞台に全体主義国家への潜入を描いた『アルファヴィル』。その劇中では明かされなかった仮想敵国が、実は「東ドイツ」であったという事実を、ゴダールは26年という歳月をかけて回答したのである。老いたスパイが東側の潜伏生活を終え、西側へと帰還する歩みは、そのまま「共産主義の失敗」という現実の投影に他ならない。
<46年の総括と、西側の空虚>
ベルリンの壁が建設された1961年から、ソ連が解体された1991年まで。ドイツが歩んだ46年間に及ぶ分断の歳月を、ゴダールは老スパイの足跡を通して一本の線へと繋ぎ合わせた。
しかし、彼が辿り着いた「西側」は、決して希望に満ちた新天地ではない。そこは、スパイという記号さえ無効化された「クソみたいな西側」の風景が広がる場所である。
本作は、歴史が大きく動く瞬間に立ち会いながら、映画が歴史の証人であり、かつその歴史を再構築する言語であることを証明した。ゴダールは、レミー・コーションの彷徨を通じて、我々に問いかける。壁が消えた後に残ったのは、自由か、それともただの空虚か。
