「一人の男を「聖域」に導く驚愕の二部構成」生きる(1952) 平野レミゼラブルさんの映画レビュー(感想・評価)
一人の男を「聖域」に導く驚愕の二部構成
雪の降る中、ブランコをこぐ志村喬があまりに有名な作品で、むしろ観る前までこのイメージ以外の内容を知らないくらいでした。
胃がんを宣告されて絶望していた男が、最期の最期に自分のやるべき使命として「公園を作る」ことを定めて奮起する単純な話でしたが、その物語の構成には心底あっけにとられ「この監督、天才では…?」となりました(天才です)。
死をテーマにした作品ですが、全体的な流れは妙にコミカル。
主人公の渡邊勘治が胃がんと宣告されるとこからして可笑しいですからね。まず待合室で他の患者が「胃がんは直接宣告されない。軽い胃潰瘍ですなと医者が言ったら間違いなく胃がん」と話すのを聞き、実際に医者がその患者と全く同じことを言って胃がんだと確信する流れは悲劇というよりは喜劇です。 そもそも冒頭から描かれるお役所仕事の様子なんかも、極端に積まれた書類やたらい回しのテンポの良さからコントじみてすらいます。
息子夫婦からも邪険にされるような状況で、志村喬の縮こまった背中や表情にこそ悲哀が溢れていますが、こうした笑いを交えているため必要以上に哀しい気持ちにはなりません。
むしろ、飲み屋で知り合った作家や部下の女の子に色々と遊び方を教わっていく姿はハッチャケてますし、同時に渡邊という男がこれまでどれだけ不器用に生きて流されてきたのかがハッキリしてきます。
そして、お役所仕事に飽き飽きして、おもちゃを作る会社に転職した元部下の女の子の「何かを作ってみれば」という何気ない一言で、渡邊は「死ぬ前に市民のために公園を作る」という天啓を得て、ハッピーバースデーの歌に導かれて奮起する。このハッピーバースデーの曲は渡邊が第二の生を『生きる』ことを決意した象徴としてわかりやすくユニーク。
客の皆が急にちょうど良いタイミングで歌いだすので、ミュージカルめいた幻想的な雰囲気さえありますが、全く関係ない他の学生の誕生日を祝うための歌だと判明する種明かしも茶目っ気があります。
なので、これからの後半はいよいよ渡邊が公園作りに邁進していく姿が感動的に描かれるんだろうなァ!とワクワクしていましたが、いきなり渡邊の遺影が映るので度肝を抜かれます。えっ…バッサリカット…!?まだ1時間もあるのに!?
ここからの第二部は、渡邊の通夜で上司や部下に家族が故人の思い出や急に公園作りに邁進した理由を好き勝手に推測して語っていく形になっているのです。
渡邊の最期の仕事を勝手に自分の手柄にしたり、渡邊の行動自体を腐す上司は腹立たしいし、そんな上司たちを黙らせる市民たちの感謝の焼香は感動的。 渡邊不在の状況の中、会話劇だけで残りの1時間をダラダラせずまとめていく脚本の秀逸さにやはり唸らせられます。
ハッピーバースデーからの死というこの思い切った二部構成だけでも面白いんですけど、ハッピーバースデー後の渡邊の描写をバッサリ切ったことで、死に臨む渡邊の心境が全くわからなくなってしまったことが凄いんですよね。
彼がどのような気持ちで周囲の反発やヤクザからの脅しにも屈せず公園を作り遂げたのかは、親族や部下たちの推測でしか語られません。
一応、渡邊の机の中にだいぶ昔に書いたであろう改革案の書類がみられる辺り、若い時は革新的だったけど、お役所仕事に流されて「ミイラ」になってしまったことは示唆されていましたが、それでも何故急に公園作りを思い立ったかは不透明なままなのです。
元部下の女の子の発言は間違いなく動機の一つではあります。しかし、肝心の彼女はこの通夜には参加していないのです。よしんば、参加していたとしてもただの元上司と部下の関係でしかない以上、彼女にだって渡邊の気持ちなんてわかるわけがないという。
渡邊があの発言後にどのように気持ちを変え、公園作りに生きる意味を見出したのかは、観客の目線からしても完璧にはわかりません。
この敢えて伏せる作りで、物語のラストまで興味を持続させ、そして明かされないまま終わることで渡邊勘治という男の人生は「聖域」そのものとなるのです。
部下たちは渡邊の最期を「生きながら死ぬより、死に臨んで生きることを全うすることが重要だ」と解釈し、奮起を促します。
しかし、仕事に戻った翌日には既にお役所仕事に流されていて、実践できないまま終わってしまう。死に臨んだ人間の気持ちなんて、結局自分も死に臨まなきゃわからないのです。
巨匠黒澤のこの不器用な人間を賛歌するシニカルな目線に、やはり最後まで「ぐぬぬ」と唸ってしまいました。