劇場公開日 1952年10月9日

「(生前の母の観た映画。そんな思い出を見たくって) 「生きる」ことの賛歌。」生きる(1952) 野球十兵衛さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0(生前の母の観た映画。そんな思い出を見たくって) 「生きる」ことの賛歌。

2022年6月13日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

泣ける

悲しい

私にしては珍しく、名作・オブ・名作邦画のレビューです。
アマプラ課金の東宝チャンネルにラインナップされていた作品ですので、観なきゃ勿体ないと思い。

こういう映画と私のレビュースタイルは、すこぶる相性が悪いのですね。
今回はおちゃらけは封印して、真面目に書くつもりです。
名作中の名作の古典映画ですので、ネタバレは上等ですよね。
そして、この映画、生前の母との思い出の作品なのですね。

母が遠い目で思い出すように語っていたものです。
この映画を観た時に、てっきり志村喬さんはリアルにお亡くなりになったと思い込んでいたらしいのですね。
赤貧の家庭に生まれ育った母ですので、映画館での鑑賞ではなかったのですね。
村の公民館の映画鑑賞会で観たらしいのです。。
何しろ、辺鄙極まりないド田舎ですから。
村の娯楽といえばそんなものくらいでしょう。母は大喜びだったろうな…と思うです。
スレていない母、当時の年齢は、計算すると、おそらく10代中盤です。
映画というものが、どういう物だとか、まだわかっていなかったんでしょうね。
後にテレビだか映画だかで志村喬さんのお姿を見た時に
「えっ?この人死んだんとちゃうん!?」と、かなり驚いたそうな(笑)
そんな純真な母の幼き日を回想すると、ちょっと涙が。

またしょっぱなから、割とどうでもいいことを書いてからのレビュー本文です。

実はこの映画、導入部で地雷臭を感じたんですよ。
くどすぎるナレーションの説明だとか、ステレオタイプのお役所仕事の描写だとか。
もしかすると楽しめないかなぁ…と、思いました。
主人公・渡辺氏が遠くない自分の“死”を知る察するあたりも、ありきたりかな…と思い。

ですが一杯飲み屋で小説家くずれと知り合った件からは、このおじさんに妙な可愛さを感じたんですよ。
そのあたりから一気に渡辺さんに、ぐいぐいと感情を引き込まれまして。
今まで「生きてきて」自分の全く知らなかった異世界に戸惑いながらも、しばしの間「生きる」ことの物珍しさを感じる描写(帽子事件)に少し笑っちゃいました。
ストリップホールの件だとか。「ああっ!Σ('◉⌓◉’)」だとか(笑)
そしてダンスホール(?)のピアノ演奏に合わせて、涙ポロポロと歌う『ゴンドラの唄』の哀しいこと哀しいこと。
ここでうるっと来ちゃいました。
何かの映画じゃないけれど「その顔はやめて」って言いたくなるほど、何とも言えない不憫な表情なの。
『ゴンドラの唄』はこの作品の挿入歌として、これ以上の物はないと思い。
むしろこの歌を着想として、この作品が生まれたのではないかとさえ思い。

“とよ”との交流では、観ているこちらまで思いっきり楽しくなっちゃったの。
渡辺さん!「生きる」ことを思いっきり楽しんで!って思っちゃうの。
死なないで!お願い!黒澤さんのいけず!って思っちゃうの。
“とよ”との間で見せる渡辺さんの笑顔に、感情移入目いっぱいですよ。
干からびた“木乃伊”が、どんどん生気を取り戻す様子に。
なのに、ぼっちになった途端、やはり死の恐怖に怯えるさまには、本当に同情以上の物を禁じ得ないの。

息子との残された時間を大切にしたい父なのに。
あのバカ息子、なーんにも気づかずにゼニ金のことばかりで厳しい態度とるのには、本当に頭に来ちゃったの!鬼かよ!
(仕方ないちゃぁ仕方ないんですが)
一方で“とよ”密会の約束の取り付けに、ニヤリニヤリとするさまが、本当に可愛いの。
気を許した“とよ”と遊ぶと言っても、カフェ→お汁粉屋→お寿司屋orお蕎麦屋、そんなことしか繰り返せない渡辺さんが本当に可愛いの。
なのに、いい加減愛想つかされている渡辺さんが本当に可哀そうなの。
当然ながら誰にもわかってもらえない胸中、いかばかりのものがあったでしょうか。

もういいから!いっそ自分の余命が幾ばくもないこと、みんなに吐露してよ!って思っちゃうの。
でも、それができなかたったのが渡辺さんの強さであったり優しさであったり、哀しさであったりだと思うの。

私、恥ずかしながら長年の鬱との付き合いがあった日々の中で、何度も死んでしまいたいと思うことがあったのですね。
でも、実際に差し迫った死を実感したことなど一度たりともありませんでした。
死がすぐぞこにあるっていうのはどんな気持ちなのでしょうか。
母の最期も、もはや助かる見込みもないことを知った短い日々でした。
どんな気持ちで私たち家族と向き合ってくれたのかなぁ。
私がそうであったように、まだまだ伝えたいことが山ほどあったろうなぁ。
「親孝行したい時に親は無し」ってこれ、真実だから。

カフェで“とよ”の横に座って半ば強引に、朴訥かつ必死に「生きる」実感だとか、「生きた」証がほしいと訴える志村さんの好演が素晴らしかったです。
母じゃないけれど、この人=志村さん本当に死んじゃうんじゃないかと思うほど迫真の演技なんですね。
「その顔はやめて」ですよ。
からの「ハッピバースデー♪トゥーユー♪」が本当に心憎い演出なの。
「生まれ変わった」シン・渡辺さんの再出発、門出の歌として。

したら、いきなりの渡辺さんのお通夜じゃないですか!
通夜の席で、出席のみなさんの回想の語りが続くじゃないですか。
ここで渡辺さんが何を、どうやってきたのかが明らかになっていくのですね。
尺の三分の一使って。
このシーンの前後の順の構成、斬新で秀逸だと思いました。
通夜を後に持ってくると、渡辺さんの最期のカットがかなり霞みますし。
尺の取り方のバランスも狂ってきますし。
物語として、彼の「生きざま」と功労を描くのなら、この順番しかないと思い。
そして、役所のお偉いさんの不誠実さと傲慢さが、めーっちゃ頭きたのな!
手柄横取りするなし!ですよ!
でも、渡辺さんにとってはそんなことは当然、どうでもよかったことと思い。
雪の降る中、自分が「生きた」証で造った、公園のブランコで『ゴンドラの唄』を歌いながら天に召されたのって、ある意味幸せな最期だったかな…と思ったです。
きっと「生きた」ことへの悔いはなかったと思いたいです。

で、謎なのが“とよ”が通夜の席に現れたのかどうか。
通夜では全く姿が見えなかったのですが
うさぎさんのオモチャがお供えされていたことを見ると
きっと会いに来てくれたに違いない…そう思いたいです。
ここだけが胸につっかえてスッキリしなかったです。
“とよ”が渡辺さんの遺影を静かに見守っているシーンがあってもよさそうなものの。
意図的にそれを外したのなら、きっと黒澤監督の描きたい映画なりの理由があったに違いないのですが。
アホの私には、それがよくわかりませんでした。

そんな渡辺さんの「生きざま」を忘れないでいてくれる人って
名もなき職員Aくらいしかいないのは、とても寂しかったです。

真面目な話、この作品を観ても、まだ「生きる」ことへの感謝の気持ちは湧かなかったんですね。
でも、もし私が近い日々に死を迎えることを知った日には、きっとこの映画のことを思い出すでしょう。。
そんな日々が来ることがあったなら、私は渡辺さんのように懸命に「生きる」ことができるのかなぁ…?
自分が「生きた」ことの賛歌を奏でることができるのかなぁ…?
何だか自分がとても恥ずかしい…
観終えた感想はこれに尽きます。
困った映画をチョイスしたもんだ…(^_^;

次回はまた東宝チャンネルで、頭バカにできる怪獣物でも観ようかなぁ。

野球十兵衛、