生きものの記録のレビュー・感想・評価
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テーマに負けた物語
見事なショットやセリフに溢れた作品ではあるのだが、全体を俯瞰してみると物語が反核という強いテーマ性を抱えきれていない、というのが正直な感想。
反核というテーマを、『ゴジラ』のような明らかに非現実的な暗喩世界ではなく、我々の実生活の延長線上に存在する現実世界に定立させることで、確かに反核のリアリティや切迫性は増すだろう。しかしまさにそのことによって、喜一の「ブラジル移住」という途方もない計画の滑稽さばかりがいやに強調されてしまっていたように感じた。
作品のアイレベルが現実世界に準拠している以上、受け手としては、水爆を恐れる喜一の気持ちもある程度理解できる一方で、喜一の奇行に煩わされる家族たちの気持ちも同じくらい理解できてしまう。
結果、喜一の主張と家族の主張は同等の説得力を有したものとして対消滅してしまい、その焼け跡には反核というテーマだけが実体のない漠とした概念のまま漂っていた…そんな感じ。
そう考えると、徹底的な虚構世界を作り上げ、そこに恐怖の絶対的対象としてのーーまた同時に核戦争の暗喩としてのーー「ゴジラ」を配置することで受け手の感情の方向をある程度一定化させ、そこを土台に反核論を打ち出していた『ゴジラ』はやっぱりすごかったんだな、と。
クロサワの「ゴジラ」
Blu-rayで鑑賞。
本作が公開された1955年は、前年に第五福竜丸事件が起こり、米ソ軍拡競争の激化など、核の脅威が今よりももっと身近だったのではないかなと想像します。
核に怯える喜一の姿は周囲の目には過剰に映る。いつ核爆弾が落ちて来るか分からない状況にも拘わらず、何故普通に暮らせるのだろう。果たしてどちらが狂人なのか。
本作は黒澤明監督流の「ゴジラ」だと思いました。同作も第五福竜丸事件を受けて製作されており、両作は同じ親から産まれた兄弟みたいなもの。被爆国だからこそ産まれ得た作品たちであるとも言え、こめられた怒りと悲しみは今尚色褪せることなく、強く訴え掛けて来るものがありました。
そして本作のテーマは、福島第一原子力発電所の事故を経た現在の状況にも当て嵌まるのではないかと思いました。
原爆を原発に置き換えても成立してしまう。喜一老人の周囲みたく、知識はあるはずなのに直視しようとしない。
見て見ぬふりと云うか、普段は見えていない。頭の片隅にはあるけれど、常に意識しているわけではありません。
側にありながら、忘れてしまう存在(現地住民は別)。それがあの事故で関心が高められることになりました。
ですが私自身、当時も今も喜一老人のような心境には至ってはおりません。どこかまだ、他人事として捉えている部分があります。いつ自分に降り掛かって来るかも分からないと云うのに…。それくらい、意識を変えるのは容易ではないのかも。
※修正(2023/06/01)
逃げ場を求める男
終戦直後は、お妾さんがいても、それほど大騒ぎにはならなかったと、母方の婆ちゃんに聞いた事があります。映画の公開が昭和30年。広島・長崎への原爆投下は昭和20年ですから、わずか10年後。米ソが核兵器開発を競っていた時代。その7年後がキューバ危機。笑えないし、まんざら狂気とも思えない。実際、核シェルターを築造した官民が、どれだけ居た事か。いや、居る事か。
黒澤明作品を見て、常に思う事は、その「画」の素晴らしさなんです。
冒頭。走る路面電車のパンタグラフを追いかけつつ、「歯科」の看板を上げたビルで止まるカメラ。ズームして行きながら、カメラは窓枠を超えて行く...いや、実際は超えられないので、「超えて窓の中に入って行く、そこに歯科医の姿」と言う表現。
ラスト。精神病棟の階段を下りて来る志村喬さんと、上って来る根岸明美さんの姿を左右にとらえる構図。二人は踊り場ですれ違い、今度を背を向けて登っていく根岸明美さんと、同じく背を向けて降りて行く志村喬さん。階段を下り終わり、上り終わり、同時に歩む方向を変える二人。
これを映像芸術と呼ばずして、何を映像芸術って呼べば良いのでしょうか?
黒澤明の、構図と人物で創る「動く絵画」は、本当に素晴らしいです。
邦画、頑張ってよ。
などと。昔の日本映画を見ると、そう思ってしまうことばかり。
だってですよ。今週末見た、あれとか。先週のあれと、あれとか。黒澤の子孫である日本人が撮った映画だなんて、思いたくないw
やっぱり黒澤は素晴らしい。
ちなみに。
今の時代、核兵器は、それを無力化する手段を持っていれば脅威ではありません。有事に際しては、逃げずに無力化する行動を取るしかありません。国際司法裁判所の裁定を「紙屑」と吐き捨て、南シナ海に基地を4つも作った隣国は、「次の10年間で核兵器を10倍に増やす」と、昨年公言していますが、知らない人多過ぎです。
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