「クリスマス映画の皮を被った黄禍論」グレムリン 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
クリスマス映画の皮を被った黄禍論
序盤、バーで飲んだくれていた男が表に停めてあった車を見てこう言う。「外国車には悪魔が住んでいる」。ここでいう悪魔がグレムリン襲来の伏線であることは自明だが、それにしてもなぜ「外国車」などという言い方をするのか。
あるいは唯一グレムリン化を免れたモグワイのギズモが警官の前でアメリカ国旗を手に取るシーン。なぜこんな物語上何の必然性もないシーンが唐突に挿入されているのか。
全ては本作公開当時(1984年)の経済情勢を照応すれば合点がいく。70年代以降、日米間の貿易摩擦は過熱の一途を辿り、80年代に入ると殊に自動車業界を中心に「安くて性能の良い日本製」にアメリカ製が圧倒されるという事態が起こりはじめた。アメリカ各地ではジャパンバッシングと呼ばれるネガティブ・キャンペーンが大々的に行われ、アジア系アメリカ人の男性が誤って殺害されるといった惨事も発生した。
つまり80年代前半という時代は、アメリカが日本の、ひいてはアジアの台頭に危機感を募らせていた時代だといえる。まさに「黄禍論」の再来だ。
物語はチャイナタウンの老爺から主人公の父親が珍獣・モグワイ(魔怪)を購入してきたことに端を発する。彼が主人公の家にやってきてしまったことで悪夢のクリスマスが幕を開けることになるわけだが、注目すべきは物語の起点からしてアジアが災禍の火種として設定されている点だ。
さて、モグワイは「光を嫌う」「水をかけると増殖する」「真夜中過ぎに食事を与えると凶暴なグレムリンに豹変する」といった特性を持っていた。
物語上の必然としてこれらの禁忌はことごとく侵犯されていくわけだが、特に2つ目の「水をかけると増殖する」という特性には、80年代のアメリカを覆い尽くしていたであろう「アジアによる支配」というオブセッションが露呈している。増殖しまくったグレムリンの大群がこちらに向かって歩いてくるシーンなどはその好例だ。知らぬ間に忍び寄るアジア支配。
一方で、アメリカ国旗を手に取ったギズモはグレムリンと同じアジア的ルーツを持ちながらもアメリカ経済に跪拝した「名誉アメリカ人」として彼らに迎えられる。実際、警官はアメリカ国旗を持つギズモを見て「コイツはアメリカびいきだな」と笑顔を浮かべた。ゆえにギズモは他のグレムリンのように「駆逐」されない。
今更言うまでもないことだが、モグワイやグレムリンの身体・能力的パラメータはアジア人に対する欧米人の偏見を煮詰めたようなものだ。小さな体躯、潰れた鼻、不可解な喋り声、女子供でもギリギリ倒せるレベルの強さ。現代であれば絶対にツイッターで炎上していたと思う。
物語終盤、すったもんだの末に主人公たちは街からグレムリンを一掃することに成功する。するとそこへ冒頭の中国人の老爺がやってきて、「だからモグワイを飼い慣らすのは難しいんだよ」と苦言を呈する。このグロテスクな皮肉でもって本作は幕を閉じる。
なぜこんな映画が80年代の日本において概ね好意的に受け止められていたのかよくわからない。確かにモグワイやグレムリンの造形や動作、あるいは照明の巧みさなどは称賛に値するが、だからといって手放しに絶賛するにはあまりにも政治的悪意が込められすぎている作品だと感じた。