「自分が幸せならば、相手も幸せだと思っていた。それが間違いだった。」クレイマー、クレイマー とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
自分が幸せならば、相手も幸せだと思っていた。それが間違いだった。
つい、自分と相手と同じと思ってしまう。
テッドは、決して、家族のことを考えていなかったわけではない。
バーバリーのコートが欲しいと言えば、(あまりの高額にビビッて)手を震わせながらも購入しているし。
経済的に満足させていれば、それが家族を守り、幸せにしていることだと思っていただけ。
ジョアンナやビリーの話を聞くことなく。
完全なる自己満足。
日本でも、定年離婚を妻に突き付けられる夫と同じ。
ジョアンナが出て行って、ビリーのお世話をするようになり、話を聞き、一緒に生活をして、学校行事にも顔を出し、初めての自転車とかの経験を共有し、ビリーの気持ちを一番に考え、良い父親になっていったテッド。
でも、自分の気持ちとビリーの気持ちが同じと思っていたところは変わらず。
ジョアンナから「ビリーが欲しいの」と言われて、テッドは「あの子が承知すると?」とビリーの気持ちを決めつける。
だから、面会を求められて連れて行った公園で、母の声を聞いただけで、テッドの手を振り切って駆け出していくビリーに驚き、一人取り残される。ビリーもテッドと同じように母に怒り、拒絶するとでも思っていたのだろう。
子どもにとって、両親の、家族のどちらかを選べるわけではないのに。
7歳。母が出て行った時は6歳(小学1年生)か。その6年間、母と二人暮らし同然であったであろう。テッドは会社から、365日働くように求められ、それに応じていたのだから。その母との日々が忘れられるわけがない。
母が出て行ってからの18か月。父が父なりに自分を大切に動いてくれているようになったこともわかる年齢。電話に出るよりも、ビリーへの絵本の読み聞かせを続ける。ビリーに「電話だよ」と言われて、やっと電話にでるテッド。
どちらも、ビリーにとっては大切な宝物。
そんなビリーの気持ちを知ったからか、裁判では、ジョアンナへの配慮が足らなかったことを詫びる発言も。ジョアンナが自己否定をするシーンで、口パクでフォローするシーンも。相手の弁護士から揚げ足を取られる可能性もあるのに。
裁判は、どちらがビリーの親にふさわしいかを探るものではなかった。
相手を完膚なきまでに叩き潰し、雇い主の望みを勝ち取るためのもの。弁護士にとってはそうであった。証人が伝えたい、証言したいことではなく、弁護士が目的のために必要な言葉を切り取る。真実を見つけるものでもない。否、真実を捻じ曲げてしまう可能性もあるのではないかと恐ろしくなった。
それでも、弁護士からの質問からはみ出す形で、今のテッドの様子がジョアンナに伝わる。マーガレットの言葉でも耳を傾けられなかったのに、子育てしている様子が見えてくる。一生懸命に子育てしているテッド。家を出る前には考えられなかった姿。
そして、親権の行方は?ビリーは誰と暮らすことになるのか。
★ ★ ★ ★ ★
原作未読。
脚本と演出がすごい。
シンプルにそぎ落としている。それでいて、細かい日常をさりげなく丁寧に描いている。
旅立ちを準備するジョアンナ。自分の衣服以外に、ビリーの物であろう汚れた服をも中に入れる。これだけでも、どれだけ、本当はビリーと別れがたく思っているのかを示す。
別れを切り出そうとしているジョアンナの話を一切聞かずに、一方的に自分の話ばかりをしているテッド。しかも、ジョアンナも良かったと思ってくれると思い込んでいる。あまりにも話を聞いてくれないので、実力行使するしかない。こんなやりとりがずっと続いているということも判る。
有名なフレンチトースト、アイスクリーム、ワイングラス…。
「僕が悪かったからママは出て行ったの?」と言うビリーからの問いに答えるテッド。
よくぞ、ここまで自己分析/反省が進んだものだと思う。いつの間に?
元はジョアンナの親友であるマーガレットとの交流。初めは、ジョアンナをたきつけた、鼻持ちならないウーマンリブとして登場するが…。いつの間にか、テッドにとって自分に何かあった時に、ビリーを託す存在にまでなっている。たぶん、細かくは描かれていなかったが、たくさんやり取りがあって、テッドが自分の夫婦生活を振り返るようになったのであろう。そのやり取りは見事に割愛。テッドの変化だけを要点を絞って描いている。
テッドの上司。365日働くことを望む。ビリーを迎えに行かなければいけないテッドに、他の社員の勤務〇周年のパーティにしつこく誘う。部下の家庭よりも、自分の出世に繋がる仕事を優先することを強いる。部下の家庭が壊れたって、仕事でのチームワークが良好ならばと。テッドが家庭を顧みなかったのは、単にテッドのせいだけではないことを示す。
USAなら、テッドほどの収入があるのなら、ナニーの力を借りてビリーの世話をすることもあろうに。
原作では、ナニーも出ていたとか。
でも映画では見事に割愛。
子育てと仕事の両立の難しさを描き出す。そしてテッドの変化を描き出す。
原作では、ビリーの親としてふさわしいのかをはかる為の心理判定員とのやり取りもあるそうだ。映画でも、テッドの切れやすさが描かれたが、虐待防止という観点から、性格傾向を押さえておくのは必要であろう。ジョアンナの方は情緒不安定さを見極めることが必要であろう。
だが、映画ではそこは割愛。証言に対する反応を丁寧に描くことに絞っている。一見、法廷劇なのだが、テッドとジョアンナの変化の方が見ごたえある。
役者もすごい。
ホフマンさんて、こんなにイケメンでしたっけ?
ストリープさん。冒頭のうつろな「愛している」(公園で再会した時の表情と全く違う)。このままだったら、母子心中でもしてしまうのではないかという危うさを醸し出す。ワインレストランでは、優しげでありながら、「ビリーが欲しい」という時の間・眼差し。法廷での、逡巡しながらの証言。テッドやマーガレットの話を聞きつつ揺れる様。そして、ラストの決断。
筋だけ追えば、ジョアンナはわがままに映るのだが、そうせざるを得ない女性として、その時々の想いを表現して下さる。元々アサーションが苦手な女性だったのだろう。子育ての悩みを抱える今の女性なら共感できるのではないだろうか。何にでもなれる、なるために頑張れと強要される学生時代。なのに、母となったとたん、母以外の何物にも成れない自分。勿論、母となる喜びはあれど。家族以外の人からも妻・母と呼ばれ、名を呼んでくれるのは、憎い姑だけと言う川柳もあったっけ。男だって、家庭を背負い、家を出れば7人の敵がいると言われるような生活を送っている方も多いと思うが、少なくとも、名前で呼ばれる。それだけでもうらやましく感じる母。ましてや、この映画のテッドは、自分の思うとおりの仕事をしている。それを見ながらの籠の鳥。けっして、わがままとは言えない。
そして何よりもビリーを演じたジャスティン君。間の取り方とかが絶妙。
音楽も良い。
父子家庭の再生、親権争いという暗い話に、あのかわいらしい音楽。雨だれのようでもあり、その小さな物語に寄り添ってくれている。
★ ★ ★ ★ ★
自己実現。親権・養育権争い。夫婦のあり方。その中での子ども。
子どもの価値。
親権・養育権争いが、相手への報復になっている場合になっていることもある。優位性を示すための争いになっている場合もある。自分の寂しさを埋めるための手段。離婚と言う”失敗”を補償するための手段になっている場合も。
この映画では、押し付け合いではなく、奪い合いで良かった。
奪い合いでさえ、子どもはこれほど傷つくのだから、押し付け合いや、放置された子どもはいかばかりなのか。
離婚こそしなくても、ずっと争いを見せられている子ども、夫婦げんかの八つ当たりをされている子ども、無視されている子どもの気持ちも、考えるだけでイタイ。
途中、テッドが女性と関係を持つさまが描かれるが、部屋の様子を覚えていなかった私は、ホテルかどこかで、一晩ビリーが放置されたのかと思ってしまった。
では、家だからよいのかと言えば、そうでもなく、現実場面では、親と恋人の喘ぎ声が聞こえてくると苦しんでいる中学生や高校生もいる。
親も一人の人間ではある。どう生きるかはその人次第ではあるのだろうが。
この映画のように、ビリー(子)のためにどうしたらいいのかを一番に考え、親の独りよがりではなく、子の気持ちに共感し、大切に思って行動してくれる親が増えますように。
一緒にいる、別れて生活する、そのどちらでも、自分の話に耳を傾けてくれて、大切にしてくれる経験があれば、子どもは、その子なりに幸せなのではないだろうか。
『となりのトトロ』の、さつきとメイの母も、入院していて別居状態だが、髪をすいてもらい、話を聞いてもらい、寂しさはありつつも幸せそうだった。
愛の形は一つではないと思う。相手の立場にたって、何ができるかだと。それが相手が許容できて、自分も無理しないことなら、それが、その人たちの愛の形なのではないかと思う。