禁じられた遊び(1952)のレビュー・感想・評価
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子供らしい残酷で無邪気で、そして愛に満ちた映画でした。
お墓作りに夢中になり、挙げ句の果てに、人様の十字架を盗み出してしまう、まるで死ぬことや命のことを未だ理解していない、そんな子供らしい残酷で無邪気な姿を捉えた映画――そんな風に目に映ったのですが、果たしてそうでしょうか。子供は素直で純粋です。大人達は(確かに身近な人を失い悲しんではいるのですが)十字架の権威ばかり囚われていて、そんな彼らを二人の子供がからかっているかのような、そんな風に捉えたのは私だけでしょうか。そして、ミッシェルは大人達に問いかけます。十字架を取るか、愛すべきポーレットを取るのかと。その問いかけに、あろうことか、ポーレットを選ぶ振りをして、十字架の在処を聞き出すだまし討ちをしてしまったのです。これにミッシェルが憤慨するのは当たり前です。その、荒れるミッシェルをただジッと見守るミミズクの姿が印象的でした。そのミミズクにミッシェルはポーレットから貰った首飾りをプレゼントします――そう、自分を認め、慕うべき相手はそのミミズクだけになってしまった。そして、引き取られていったポーレットは、あれほど生き物の死を弄んでいたかのような少女は、自分を慕ってくれた少年の名を叫び、少年を求めて走り去ってしまう。形式的な葬儀や、十字架の権威では無く、本当に愛すべき相手を知っていたのではないかと、私は感じました。
とはいえ、やはり古い時代、戦時中の厳しい時代の世界です。そんな大人達のことを責めたくはありません。戦争で翻弄され、貧しい生活しかしらず、病気や怪我で死んでしまっても、なすすべもなく故人を見送るしか無い。そんな死ぬような大怪我をしている相手に下剤を飲ませてどうするのか、そんな無知な彼らの姿も物悲しい、それでも家庭と生活を守るために、必死で働いて生活をしている彼らのことを、繰り返しですが、決して攻めたくないのです――やがては、我々もそうなのでしょうか。未来の人から、我々も哀れみの目を向けられるような、無知で物悲しい生活を送っている罪深い大人達であるのかもしれませんね。
ともあれ、いろんなことを考えさせられた素晴らしい映画でした。
「橋の上のママとパパのところ」
ミシェルの抵抗虚しくポーレットが警察に保護されるシーン。無力感を自分を裏切った親への怒りで塗り固め、彼女を残し水車小屋へと走り去るミシェル。怒りに任せて彼女の為に作った箱庭のような墓地を破壊し十字架を川へと放り込む。これは親への復讐だろうか、それとも彼女の痕跡を消し去ろうとしているのだろうか。
そこをポーレットを乗せた車が音と砂煙を残して姿無く走り去る。その後ポーレットの壊れた首飾りを引き千切ろうとして思い留まり、100年預かってくれと言ってフクロウに託す。優しくフクロウを撫でながら。
きっとアメリカ映画なら、ミシェルはポーレットと一緒に親と警察から逃げ出すだろう。ディズニーなら、フクロウを撫でたところで何かしらの魔法が起きるだろう。ジブリならドーラが出てきて喝を入れただろう。だが、この作品では何も起きない。ミシェルはポーレットとの事を過去のことにして舞台から退場する。それがこの後のラストシーンを一層悲劇的なものにしている。
ラスト、喧騒の中でミシェルという名を耳にするポーレット。ミシェルの名を連呼しながら辺りを見回す目が、抱き合う男女を捕らえる。か細い声で二回ママと呟いた後、今度は助けを求めるかのようにミシェルの名を何度も叫びながら画面の奥へと走り去っていく。
ミシェルがポーレットを探しに来ることはない。それを知っているだけにとても辛い。彼女の不透明な未来を危惧すると共に、同じ境遇の多くの子供が喧騒に紛れて届かぬ声を上げているのではないかという想像を掻き立てられて、とても恐ろしくなる。
…
吐血をした兄を見て洗濯の心配をする娘。息子の死に涙しながら、スプーンにとったひまし油を瓶に戻す母。翌日娘に隣の息子に惚れるなよと軽口を叩いた後に妻の尻を叩く夫。値札を付けたままの十字架。墓穴から出るのを手伝た喧嘩相手を穴の中に残して走り去る父。我が物顔の蝿達。
場違いに思える行動や台詞が、感情や生活の生々しさを強調しているように思う。
…
近くに迫る戦争と、隣人との諍いという組み合わせから「イニシェリン島の精霊」を思い出した。
ナルシソ・イエペスのギターは長調で終わる。
さて、この少女の運命をどう見るかなんだが『少女終末旅行』や『この世界の片隅に』と同じ結末もあるのではと考えている。
ポーレットにとっての終末旅行なのかもしれない。勿論、この監督はそう描いてはいない。しかし、その表現には、ナチスに屈して悲劇を産んでしまったフランス人の贖罪が、込められている様な気がする。
原題と邦題は同じ『禁じられた遊び』だが『何が何に対しで禁止されているのか?』と考えると『奥が深い答え』が見えて来る。
それが見えた時、私は鳥肌がたった。『逃げろ!ポーレット!』と思った。しかし、思い過ごしか?ナルシソ・イエペスのギターはそれまでの短調から一転して、長調で『FIN』があらわれる。
はっと我に返るラスト
大人たちの身勝手な争いの犠牲となる子供たちの姿が痛々しい。文字通り胸が痛む。
ここでいう大人たちの争いとは、墓を巡って隣家と諍いが起きることだけを指して言うのではない。この世で最も大きな大人のケンカである戦争こそが、そもそもの主人公の幼女の運命を容赦なく変更している。
ドイツ軍の飛行機が逃げ惑う一般人に襲いかかるところや、彼女の両親が機銃掃射によって落命するところなどは、テクノロジーの発達した後年の戦争映画の迫力には及ばない。
だが、自動車のエンジンスターターの不調から始まる、一家の不運にははらはらさせられる。シナリオの上手さに唸らされた。緊張感と必然性を伴って、映画は少女の悲劇に向かって進んでいく。
少女は、死んでしまった両親のことよりも愛犬の行方のほうを気にしている。この大人には理解しがたい少女の心の動きに非常にリアリティを感じる。
両親との生き別れという、少女にとっては本来絶望的な状況にもかかわらず、身を寄せることになる農家の家族は親切で、特に少年がとても親身になってくれる。
戦争の時代には、あり得るケースなのかも知れないが、現在の観客にとっては下手をするとご都合主義ととらえられかねない。
しかし、観客は、両親の死を忘れるほどに犬のことを心配する少女の主観という視点を得ているので、この後に続く出来事に対しても、幼い女の子の目を通しての評価を下せるのだ。
墓標を蒐集するという、秘密の遊びが大人たち間に誤解を生み、諍いごとに発展してしまう。「禁じられた遊び」(フランス語原題も同じ)とは、表面的にはこのことを指すが、本当は誰の遊びのことであろうか。大人たちの、特に権力者たちの「禁じられた遊び」である戦争によって、誰が一番傷ついているのか。
赤十字が迎えに来たことが幸せにつながるとは思わない少女の視点は、すでに観客の主観となっている。観客は少女の価値判断にそって事態を評価している。
だから、少年の名を呼びながら待合室を離れる少女を見ても、その心情への同一化のほうが強く、彼女の焦りや不安への感情移入が先立つ。
しかし、少年を求めて駅の雑踏の中へ消えてゆく少女を、カメラが引いていくときに、我に返った観客は事態の深刻さにおろおろとするばかりである。ようやく客観的な視点を取り戻した者たちは、あの少女が永遠に我々の前からいなくなってしまうことに胸を詰まらせるのである。
戦争が終わっても、消えることのない傷が残ることを、思い知らされる。ナルシソ・イエペスのギターの音とともに忘れることの出来ない感情に襲われる。
名作は映画館で
初めて映画館で観たいけど、やはり音が良い。戦争のシーンも迫力あり悲惨さが伝わってくる。まして、美術がすごいリアリティ(今じゃできない再現度)
素晴らしい脚本によって戦争で起こる悲劇や現代の難民問題にも通じるあぶりだされる。少年少女の非行はメタファーとして描かれる。ニューシネマパラダイスは絶対にこの映画に影響受けてるんだろうなと、
お墓ごっこ
空襲でほぼ即死であった両親の死顔を見ても動揺しないが、動かなくなった愛犬の亡骸を抱いて初めて涙する幼女Paulette。死と隣り合わせの生活で、祈り、埋葬、墓というものを知り、色々なデザインの十字架に魅せられていきます。
Pauletteを可愛がる少し年上の男の子Michelは、彼女を喜ばせたくて、実際の墓地から沢山の十字架を盗みます。彼はお祈りを唱えられても、教会や十字架、死者への尊崇は全く理解していません。葬式や墓場での大人達の態度も微妙な点があり、果たして死とは何なのだろうと改めて思います。
彼が作った動物墓地は、いわば子供達の秘密基地。
動物の亡骸を集めて「死」と遊ぶ、墓を集めて楽しむ…。無垢な子供達が墓場ごっこに興じることを通して、戦争が子供達に与える残酷な影響を描いていました。
Michelと離れ、初めて孤独を痛感したようなPaulette。何とも切ない作品です。将来、名字を頼りに彼らが再会出来ることを願いました…。
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