「はっと我に返るラスト」禁じられた遊び(1952) よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
はっと我に返るラスト
大人たちの身勝手な争いの犠牲となる子供たちの姿が痛々しい。文字通り胸が痛む。
ここでいう大人たちの争いとは、墓を巡って隣家と諍いが起きることだけを指して言うのではない。この世で最も大きな大人のケンカである戦争こそが、そもそもの主人公の幼女の運命を容赦なく変更している。
ドイツ軍の飛行機が逃げ惑う一般人に襲いかかるところや、彼女の両親が機銃掃射によって落命するところなどは、テクノロジーの発達した後年の戦争映画の迫力には及ばない。
だが、自動車のエンジンスターターの不調から始まる、一家の不運にははらはらさせられる。シナリオの上手さに唸らされた。緊張感と必然性を伴って、映画は少女の悲劇に向かって進んでいく。
少女は、死んでしまった両親のことよりも愛犬の行方のほうを気にしている。この大人には理解しがたい少女の心の動きに非常にリアリティを感じる。
両親との生き別れという、少女にとっては本来絶望的な状況にもかかわらず、身を寄せることになる農家の家族は親切で、特に少年がとても親身になってくれる。
戦争の時代には、あり得るケースなのかも知れないが、現在の観客にとっては下手をするとご都合主義ととらえられかねない。
しかし、観客は、両親の死を忘れるほどに犬のことを心配する少女の主観という視点を得ているので、この後に続く出来事に対しても、幼い女の子の目を通しての評価を下せるのだ。
墓標を蒐集するという、秘密の遊びが大人たち間に誤解を生み、諍いごとに発展してしまう。「禁じられた遊び」(フランス語原題も同じ)とは、表面的にはこのことを指すが、本当は誰の遊びのことであろうか。大人たちの、特に権力者たちの「禁じられた遊び」である戦争によって、誰が一番傷ついているのか。
赤十字が迎えに来たことが幸せにつながるとは思わない少女の視点は、すでに観客の主観となっている。観客は少女の価値判断にそって事態を評価している。
だから、少年の名を呼びながら待合室を離れる少女を見ても、その心情への同一化のほうが強く、彼女の焦りや不安への感情移入が先立つ。
しかし、少年を求めて駅の雑踏の中へ消えてゆく少女を、カメラが引いていくときに、我に返った観客は事態の深刻さにおろおろとするばかりである。ようやく客観的な視点を取り戻した者たちは、あの少女が永遠に我々の前からいなくなってしまうことに胸を詰まらせるのである。
戦争が終わっても、消えることのない傷が残ることを、思い知らされる。ナルシソ・イエペスのギターの音とともに忘れることの出来ない感情に襲われる。