「映画作家だけが起こせるモンタージュの「奇跡」、それは世界の既存の秩序をも塗り替える。」奇跡(1954) じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
映画作家だけが起こせるモンタージュの「奇跡」、それは世界の既存の秩序をも塗り替える。
極私的な感想をそっと述べるなら、ラストの「復活劇」は、若干ホラー味あったなあ(笑)
ふつうに怖いよ、それ、みたいな。
BGMが長調なだけだろ、みたいな。
むしろ、『ローズマリーの赤ちゃん』のラストとかに近い恐怖がある。
ま、・・・・・・神様なんて信じてないからね。すいません。
信仰者ならぬ身で、こういった真摯に神の実在と不在、奇蹟の実在と不在を扱ったキリスト教映画を鑑賞するのは、なかなかにハードルの高いものだ。
ふつうに日本で育って、盆暮れは神仏・祖霊にお参りするし、高山でご来迎見たら神気をびりびり感じるし、役満張ったら必死で神頼みはするけれど、恩寵を与えてくれる人格神の存在を信じるなんて「ほぼありえない」、という平均的な日本人に仕上がっている自分にとっては、作中で登場人物たちが闘わせる宗教的・思想的対立それ自体が、ふつうにナンセンスにしか思えなくて、「いやいやここは自分もそういう立場に身を置いたつもりでちゃんと感情移入しないと」と自分に言い聞かせて観るみたいなことになってくる。
本作におけるボーオン家とピーターセン家は、同じルター派のプロテスタントでありながらも、現世を肯定的にとらえる一派と、死後の福音に重きを置く一派に分かれて対立している。日本でいうと現世利益の密教系と極楽往生の浄土教系の違いみたいでもあるし、逆になんでもありの大乗仏教の真宗といろいろ戒律や制約の多い小乗仏教の禅宗の違いみたいでもある。
ただ、そのなかで子供の結婚を認める認めないで反目して、ぐちぐちやり合っているのを延々見せられると、なんだか日蓮正宗と創価学会のいがみ合いでも見ているような気になってくるし、仕立て屋が自宅に会衆集めて法話会やってるのもエホバみたいでなんか怖いし、さらに「われこそは神」とか言い出す新宗教系の次男坊まで出てくる始末で(発端がキルケゴールってのは笑うところなのか??)、ありていに言って、出てくる人間みんな宗教的すぎて、僕にとってはあまりに縁遠いタイプばかりである。
だから、そういったバイアス抜きで作品を120%鑑賞し、心から作品の出来に感服し、そのモンタージュの精度と映像の強度についてまっすぐ語れる中条先生や蓮實先生は本当にすごいと思う。
ぶっちゃけ僕には、登場人物たちの悲しみや苦悩に寄り添えるほどの想像力が欠けている。
だって、そうはいっても神様なんかいないし、理屈を外れた奇跡なんか存在するはずもないし、人間は死んだら土に帰るだけで、あの世とかあるわけがないって「先入観」が、僕のなかでは強すぎるから。
(これが完全なフィクションで、主人公だけが宇宙人に気づいているのに回りが無理解とかになったら、とたんに「宇宙人信じない大衆とか馬鹿じゃないの?」って、その時だけはなれちゃうのが不思議だけどw)
一方で、映画としての画面の強靭さと、こだわりぬかれた演出の緊迫感は、たしかにすさまじい。
冒頭、丘を背景にたなびく白いシーツからして、鮮烈だ。
カメラがパンして、石室か石塁のようなボーオン農場の堅固な石組みを映す。
四方を石壁に閉ざされ、内庭を有する、ロの字型の農場らしからぬ石造建築。
それは、堅牢な宗教観に支えられながらも、世間に対してなかば心を閉ざし、守旧的な地主として孤立して生きるボーオン家の明喩――建築化された心象風景でもある。
カメラが室内に入ると、そこには驚くほど閉鎖的な空間が立ち現れる。
徹底的に奥行きを欠いた、背後に壁の迫るラファエル前派の絵画のような息苦しい室内空間。
その書き割りじみた密室内で、登場人物たちは概ね横並びに並んで、息詰まる会話劇を展開する。
壁には、窓がうがたれ陽光が差し込むが、そこから外の風景はよく見えない。
代わりに、ご先祖だか宗教指導者だかの肖像画が部屋のど真ん中に掛けられ、さらには大きな掛け時計が時を刻んでいる。この二つは、ほとんどの会話シーンで後ろに映り込むことになる。
すなわち、この家族が交わすやり取りは、過去の因習/宗教的契約の継続を表す肖像画と、時間の拘束を示す時計によって、常に背後から見張られ、「圧」を掛けられているのであって、登場人物は恒常的に室内を統べる「時間」と「空間」の外的拘束に雁字搦めにされているのだ。
老人は、必ずしも「自分で考えて」意見を言っているわけではない。
あの部屋の、後ろから見張っている何かに「言わされて」いる部分もきっとある、ということだ。
一方、ときにカメラが屋外に出ると、今度は空と山なみの境界をほぼスクリーンの天地中央にとって、仰角で撮るようなロングショットが徹底される。ここでは、この物語が「神の領域」(天)と「人の領域」(地)のせめぎ合いの話であることが厳然と視覚化され、かつ天は常に「仰ぎ見る」ものとして視点を固定化されている。
そのほか、次男がイエスの再臨と室内への進入を示唆する場面での、車のライトによって窓格子の「十字架」状の影が壁を這ってゆく印象的なシーンや、気絶して倒れた次男を前後から抱え上げて運ぶシーンの「十字架降下」や「ピエタ」の図像との外形的類似など、本作の画面には常に宗教的な隠喩と明喩が刻印されている。
また、パンフで須藤健太郎氏が指摘しているとおり、前半でずっとスタティックな長廻しで撮られていたのが、終盤の「奇跡」が近づくにつれて、カット割りとモンタージュが唐突に用いられるようになる。いわば、映像表現における奇跡そのものと言っていい「編集」作業が、そのまま「奇跡」の顕在化と直結している点は大変興味深い。失踪したヨハンネスを探すあたりで唐突にワイプが使われたのには、正直びっくりした。え、そんなことやるんだ、みたいな。
「モンタージュの技巧」が用いられるほどに、映画としての仮想現実は「人工性」を増し、何も起きるはずのない日常に、何が起きてもおかしくない特別な気配、「ハレ」の気配が漂い始める。
その効果を、ドライヤーは明らかに意図して仕掛けている。
この作品のラストは、事前に聞いていなくても「あり得る結末」としてはじゅうぶん予測可能なものだ。
逆に「これ」が起きないと、話は終われないくらいのところもあるだろう。
それでも、このラストはショッキングだ。
なぜか。
2時間かけて、そんなことは到底起きないような映画内の「リアリティ」を醸成してきたからだ。
ただただ息を殺すような室内での長回しで、フィクションのえぐみを抑えてきたからだ。
それを、ある種の力業で、あのエンディングに着地させるのだ。
そこでだけ、「編集」という映画ならではのマジックを稼働させることによって。
この監督の、「ショッキング」なシーンをここぞという瞬間に乾坤一擲でかましてくる嗅覚は、去年8月に観た『怒りの日』において最大限に発揮されていた。
観るのはこれからだが、『裁かるるジャンヌ』でも、きっとそうなのだろう。
本作のラストで(少数派ではあるだろうが)、「ホラー」に近い「怖さ」を感じたという僕の個人的感覚も、ドライヤーのかましてくる「ショック」の仕掛けが、人間の皮膚感覚や生理的な「惧れ」の感覚にじかに訴えてくるものであることに起因するのではないか。
正直に言えば、テーマの親近感と表現の直接性の部分で、僕にとっては『怒りの日』のほうが圧倒的に面白かったのは確かだ。
だが、『奇跡』もまた、強烈な引力で観客を引き付ける映画であった。
前半こそ少しかったるくて眠たくもなったが、老人と長男の嫁が三男坊の処遇について語り合うあたりからは、こちらの集中力もぐっと増し、そのままラストまで息を殺して見入ってしまった。
考えてみると、『怒りの日』では「魔女」の呪いが二人の神父の死によってたまさか「実現」することによって、映画全体が善悪二元論を超えたオカルティズムの不穏な気配を身にまとっていたのだった。本作でドライヤーは「魔女」のかわりに「聖者」を登場させて、より確信的に「奇跡」を起こしてみせる。
「奇跡」が社会に与える衝撃性(インパクト)の差もあって、『怒りの日』の呪いはけっきょく社会を変革するほどの効力を発揮し得なかったが、『奇跡』のラストはその後の世界まで染め変えてしまう可能性を秘める。
ただ、映画としての本質は、じつはあまり変わらないのではないか、というのが僕の結論だ。