「媚びない娯楽映画」カリフォルニア・ドールズ 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
媚びない娯楽映画
淀川長治の名言のひとつに「男しか出てこない映画に駄作なし」というのがあるそうだ。
『著書『男と男のいる映画』において「男しか出ていない映画に駄作無し」と格言を残している。』(ウィキペディア:淀川長治より)
読んだことがないので、名言がなにに基づいているかわからないが、わたしはアルドリッチやフランケンハイマーの映画で、それを思ったことがある。とくにアルドリッチだった。
ハリウッドの名手は、わざと女性を出さなかったわけではない。女を出さない──それがこだわりだとするなら、そんな、こだわりにはなんの意味もない。わざとそんなことをするのはザ日本映画の新人くらいないものである。
アルドリッチやフランケンハイマーは色気に頼らない娯楽映画をつくっていた。それだけのことだった。
忘れることのない、北国の帝王(1973)はいずれも超強面(こわもて)のアーネストボーグナインとリーマーヴィンで、列車車掌と無賃乗車常習犯の攻防だった。男臭いどころか、そこにあるのは、いかつい面構えと怒声と汽笛と油汚れと黒煙と意地であり、乗せまいとする男・乗ろうとする男、二者のたったそれだけの話を、ハラ~ドキ~かつダイナミックなアクション映画に仕立てていた。──のだった。
そもそもオーソリティーたち(黒澤明やスピルバーグやスコセッシなどなど)は女を色気として使わない。
なぜなら(しごく単純に言えば)基本的に裸が媚びに充当する──からだ。
なんども言っていることだが、ザ日本映画の先達・大家は、ポルノ出身者が(ひじょうに)多い。
偏見ということで構わないが、事実上ザ日本映画界ってのは、裸で釣ってきた連中が権威にのし上がってしまった業界であり、個人的には、その「いびつ」があると思っている。
(火口のふたりっていう近親相姦映画をごらんになりましたか?──あれがザ日本映画の現頂点です。石器時代をさまよう謎の古老たちが巣くっている村社会が日本映画業界です)
(ちなみにわたしは牽強付会なdis日本映画を特徴とするレビュワーです)
女子プロレスを映画にする──そのばあい、どうするだろう。女子プロレスのユニフォームは露出が多い。100人中100人の演出家が、そこにセックスアピールを盛り込むにちがいない。米ドラマGLOWもAlison BrieやBetty Gilpinの惜しまない露出で人気を博した──わけである。
むかしから言いたかったが、アルドリッチの遺作カリフォルニアドールズが、なぜいいのかと言えば、女子プロレスを描きながら、色気に注力していないから。
キャリアのすべてで、セックスアピールを用いたことのないアルドリッチが、さいごに女子プロレスを描いて、やっぱりセックスアピールを使わなかった。媚びなかった。ただし、アルドリッチは意地やこだわりによって、セックスアピールを使わなかったわけじゃなく、じぶんのなかにある娯楽映画の方法論に従ったにすぎなかった。
映画は、色気に頼るとそういう映画になる──わけである。
(すべてがそうだとは言わないが基本的な理屈として)セックスアピールのために女の裸が出てくる映画ならば、演出は無効である。いうまでもないが、演出しなくても裸で釣れるから。
日本では未成年者さえ使っていた犯罪者を全裸監督として、ヒロイックに祭り上げているが、全裸でポルノを撮ったから、なにが偉いの──という話である。(アメリカだったらとうにロンジェレミーと同じ所へ収監されているに違いない。)
で、繰り返しになるが、日本映画の先輩貴兄は、ポルノ出身者で成り立っている。かれらは性に詩情みたいなものを介入させて、昭和の昔から今に至るまで裸と行為を押し出しているわけだが、それはやはり性で釣っている映画に過ぎないと、わたしは(30年来)思っている。わけです。
カリフォルニアドールズでは演出手法として性を使っていないゆえに、むしろVicki FrederickとLaurene Landonの素のセックスアピールが表出している。ことに加え、老獪で、時には汚い仕事にも手を染めるマネージャーとして、おそらくピーターフォークの映画出演のなかでも三指の味だった。
余談だが、おりしも今(2021/07)どこかでオリンピックがおこなわているが、あなたが男性で、女性のアスリートを見るばあい、そこに性的演出が一切ないにもかかわらず、溌剌とした性を感じてしまう──ものではありませんか。にんげんとして普通のことです。