「無言のエリザベートが炙り出すアルマの外面(ペルソナ)と内面(シャドウ)」仮面 ペルソナ talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
無言のエリザベートが炙り出すアルマの外面(ペルソナ)と内面(シャドウ)
<映画のことば>
どうしてなの。
ウソをつかず、真実だけを語ることが大切?
本心なんか口に出さず、ウソをつくほうが簡単だわ。
深く考えずに生きるほうが、ずっと楽でしょう。
あなたも怠惰になるべきよ。
作中でははっきりと、そうであるとは描かれてはいないのですけれども。
上掲の映画のことばは、実は、エリザベート付きの看護師だったアルマの人生観なのでしょう。
つまり、これがアルマのシャドウ(ペルソナ(仮面)を演じるために普段抑え込んでいる感情ないし人格)ということです。
そして、本編中に何度か挿入されている、拷問のようなカットは、アルマのシャドウとしての残虐性を意味するものと、解釈しました。
評論子は。
「どうしようもなく冷たい女」「なにもかもウソと芝居」だったと言うのは、当のアルマの言葉(告白)でもあり、そして彼女の隠された「残忍性」でもあったようです。
ときに、看護師という職業の必然として「献身」という性質は、常に職業倫理として要求されるものなので、そのことは、看護師の職務上の心構えとしてのナイチンゲール誓
詞にも、色濃く映し出されているところです。
「我が生涯を清く過ごし、我が任務を忠実に尽くさんことを我はすべての毒あるもの、害あるものを絶ち、悪しき薬を用いることなく、また知りつつこれをすすめざるべし。
我は我が力の限り、我が任務の標準を高くせんことをつとむべし。
我が任務にあたりて、取り扱える人々の私事のすべて、我が知りえたる一家の内事のすべて、我はひとにもらさざるべし。
我は心より医師を助け、我が手に託されたる人々の幸のために身を捧げん」
その一方で、いみじくも「芸術家の心は温かいものだと信じてた。人を助けるために創造するのだ」というのは、作中のアルマのセリフにあったとおり。
看護師であるアルマよりも、そのアリエルに看護される患者のエリザベートのほうが、実はよっぽど献身的に、演技を通じて「人を助けるために創造する」という女優という仕事をしてきたのではないかと、評論子は、思います。
否、女優業に打ち込むため(母性を欠くという批判を甘んじて受けてまでも、そして「何日も続く難産に苦しんで」産んだ)息子との生活も打ち捨てて、自分を見失ってしまうほ
ど「人を助けるために創造」してきたエリザベートとしては。
そのペルソナ(仮面)に疲れ果てて、ついには失語症に陥り、(俳優としての命脈である)セリフを表現することもできなくなってしまうまで。
その女優としての頑ななまでのエリザベートのシャドウが、医師の別荘で生活を共にする過程で、アルマのペルソナ(仮面)を容赦なく剥ぎ取り、彼女のそのシャドウを赤裸々に露出させたというのが本作のプロットだと評しても、それは決して評論子の独断ではないように思われます。
心理学における「ペルソナ」とは、心理学者のカール・グスタフ・ユングが提唱した概念で、個人が社会的な環境に適応するために用いる外的側面、すなわち「他人に見せる自分」。
ペルソナは、ラテン語で「仮面」を意味する「Persona」に由来し、社会の中で適切に機能するために不可欠なものであるが、自己を発見し、それを発展させることが重要で、ペルソナに過度に依存すると、他者に期待される「表面的な自分」に縛られ、本来の自己を見失うことになる(Google検索によるAI要約)ということだそうです。
本作は、評論子が参加している映画サークルで、「映画を語る会」のような催しに参加するに当たって鑑賞した『野いちご』の評の参考とするため、同じくイングマール・ベルイマン監督の手になる作品として鑑賞したものでした。
ところが、どっこい。
いやはや、こちらの方が、はるかに難解な作品で、どちらがどちらの評の参考になったのか分からないくらいですけれども(汗)。
それでも、仮面(ペルソナ)に隠されがちな人の一面を描いた一本としては、佳作と評することができると思います。
評論子は。