「難解かつ深遠な一級品の映画だが、やってることは女のマウント合戦&自己啓発セミナーかも」仮面 ペルソナ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
難解かつ深遠な一級品の映画だが、やってることは女のマウント合戦&自己啓発セミナーかも
いやあ、これは参った。
歯ごたえがありすぎて、感想が書けないよ(笑)。
さすがに難しすぎて、話をちゃんと理解できたとはとても思えない。
単に「分からないように作ってある」難解な映画ってのは、「難解でした」でそのまま放置してもなんの痛痒も感じないんだが、こういう「ちゃんと知識と見識をもって観れば、より高次の思考を間違いなく引き出せる」はずの映画ってのは、ある意味タチが悪い。こっちの歯が立たないと、どうにも身動きがとれなくなって、二進も三進もいかなくなっちゃう・・・・・・。
これまでベルイマンは、『野いちご』と『処女の泉』くらいしか観たことがなかったので、冒頭の完全に「前衛」に近いようなイメージ映像の羅列からして、バリバリに度肝を抜かれた。
最初、映像会社かフィルム会社のロゴかと思ったくらい。最近ああいうのあるでしょ?(笑)。
結局、ふだんコスチューム・プレイの劇映画を撮っているような巨匠が、こんな出だしでこんな内容のほぼ実験映画みたいな映画を、ふつうにしれっと撮ってみせた時代がまさに60年代なんだなあと。
60年代というと古臭く思えるかもしれないが、その実態は、音楽ではジョン・ケージ、絵画ではジャクスン・ポロック、映画ではケネス・アンガーが輩出され活躍していた頃だ。1920年代以来、もっとも「前衛」の極北に近づいた時代、それが60年代だったのだ。
だから、『仮面ペルソナ』は、正直「きのう撮られた新作だ」と言われても、まったくおかしくないくらいに新しい。
このあいだ『裁かるるジャンヌ』を観て、映画って20年代にはほぼほぼ「完成」してたメディアだったんだな、ってことを痛感させられたわけだが、『仮面ペルソナ』を観ると、この手の「難解な映画」の表現技法や映像文法ってのも、70年前にはもう、やれることの大半はだいたい出揃ってたってことがわかる(フェリーニの『8 1/2』は63年)。
『仮面ペルソナ』の内容については、「ふたり」の女性の対話と対決に仮託して、実際には「ひとり」の女性の内面の葛藤とトラウマとその超克を描いている――と解釈するのが一般的なのかな?
まあ、鑑賞者それぞれの多様な解釈を許容しうる映画だとは思う。
たとえば、Wikiのあらすじだと、だいたい観たままのことが書いてあったように思うが、Kinenoteのあらすじを見たら、「その頃から夢ともうつつともさだかならぬ状態の中で、エリザベートとアルマの肉体は入れかわり始めたのだ。」とか、あれ、そんな話だっけ?と思うくらい、かなり踏み込んだ解釈で全文が貫かれていて、まあまあ仰天した。
個人的には、ことさら形而上的な解釈を行わずとも、表面上に見えるだけの物語――ふたりの女が閉鎖空間内で同一化ののち反撥、分離する過程で、過去に発する内なる病理を克服する物語――としてそのまま受け止めて観ても、十分面白い映画だったと思う。極限まで「ヒリついている」うえに、観る者の脳内をぐちゃぐちゃとかき混ぜてくるような、極上の「サイコ・サスペンス」だといって構わない。
まず、エリーサベットとアルマのふたりは、寝そべった「患者」と、立って見下ろす「看護師」として対峙する。この「患者」と「看護師」というのがまさに、一般的な心理学用語としての「ペルソナ」にあたる。
そのうち、別荘での濃密な同居生活を経て、ふたりの「個」は不分明になり、自我の境界はあいまいになり、お互いが(というより、専ら「看護師」から尊敬する「女優」に向かって一方的に同化していく形で)、同じようなファッションをまとい、シンメトリカルな立ち位置をとるようになる。
ここでポイントとなるのは、「患者=女優=エリーサベット」は、自ら「話すことをやめた」人間だということだ。
彼女の存在は、身近にいる人間にとっては、語りを引き出す「触媒」として機能する。
合わせ鏡のように似た風貌の「話さない女」を前にして、「看護師=アルマ」はいつしか多弁になり、自分の内面を問わず語りで語るようになり、ついには過去の強烈なトラウマまで自ら暴露するに至る。
この、聞き役が何も意見をはさまず、ただ促し続ける行為は、実際に「カウンセリング」においてきわめて有効かつ基本的な手法とされているものだ。そう考えると、アルマは実のところ、ほぼ「強制的に」エリーサベットによって「語らされている」といってもいいのかもしれない。
ところがこの後、「わざわざ封の空いた状態で」エリーサベットから渡された手紙を、アルマが盗み読み「させられる」ことで、両者のあいだで強烈な仲たがいと、ビンタ合戦が勃発。
お湯をかけられそうになったエリーサベットが発する「やめて!」の声は、本作におけるほぼ唯一の彼女の肉声(もう一回はアルマに復唱させられる「無」)であり、映画が一瞬約束事を「わや」にして、「しらふ」に戻る恐ろしい瞬間だ。
と同時にこれは、圧倒的に「マウント」を取られていた側のアルマが、はじめてエリーサベットからマウントを「取り返した」瞬間でもある。
でも、それもまたエリーサベットが仕掛けた、もうひとつの「罠」なのかもしれない……。
心地よい「レズビアン的な同化」のあとに訪れた、強烈な反作用としての「再分離」。
感情の暴発は、さらなる両者のストレス増大とマウント合戦の激化を招来する。
ここに、アルマをエリーサベットと「誤認」するエリーサベットの夫が登場して、事態はさらなる混乱を迎える(そんなことは現実には絶対にあり得ないので、実はアルマはエリーサベットの別人格/分離された架空の人格説が説得力を持つわけだ)。
あげく、エリーサベットと完全に同化したアルマは、エリーサベットの代わりに彼女のトラウマ源となった「過去の物語」を、まるで自らが体験してきた事実であるかのようにしゃべりつづける。
アルマは、語らないエリーサベットの代わりに、エリーサベットとして内なる病理を語り、語られることでエリーサベットは心的バインドから解放されることになる。
誤解を恐れずにいうなら、ここで展開されているのは「自己啓発セミナー」に近い「施術」だ。
殻にこもっている自我を解き放ち、精神的外傷を癒すために、まずは徹底した「自分語り」を通して、過去の事件と今の自己を分析し、丸裸にする。話者は聞き手による徹底的な批判を浴びて、自我が崩壊するほどの激情と狂乱のるつぼに放り込まれる。そのストレスから立ち直るなかで、いつしかトラウマも客体化され、新たな自我が形成される。
結局、ふたたび「戦闘服=ペルソナ=ナース服」をまとったアルマが、改めて他者性を獲得し、別荘から去っていくところで映画は終わる。エリーサベットが、無事に女優に復帰したらしいことを示すワンショットも挿入される。
ふたりの女が近づき、ぶつかり合い、去っていき、気づくと両者が癒されている――。
心理劇、サスペンスとして一応の平仄は合っている。だが、細部においては分からないことが多い。というか、分からないことだらけだ。
●冒頭、中盤、終盤と、何度か挿入されるイメージカットには、「羊殺し」「掌への釘打ち」「死者の復活」など、明らかに「キリスト教的な隠喩」、それも「キリストの犠牲と贖罪」を想起させるものが含まれるが、そのわりに、作中の要素であまり「宗教的」な部分がつかみとれず(神に仕えるナースの話や、聖書の引用などは出てくるけど)、どうリンクさせるべきなのか、イマイチ判然としない。
もしかして、「エリーサベットの沈黙」は、「神の沈黙」と関係しているのか? 本作の前が「神の沈黙三部作」なのだから、あながちおかしな考えでもない気はするが。
●同様に、イメージカットのなかには、エレクトしたペニスが含まれる。まるでケネス・アンガーみたいだが、これは単なるフロイト的な映画としての印象付けに過ぎないのか、それとも「女性の妊娠」を裏テーマとする本作にとって、もっと重要な意味があるのか。そういや、別荘での最初期のショットで、女ふたりが戸外で「キノコの下処理をしている」シーンもあったな……。でも、いうほど本編で性的な側面が強調されるわけでもないので、そのへん判断にとまどう。
●同様に、イメージカットのなかには、カートゥーンや無声映画のワンシーン、そして「焼き切れるフィルム」といった、「映画」であることを強烈に想起させる呪物がでてくる。映画中盤の最大の転換点でも、「セルフィルムが燃える」という映像が、かなり唐突に挿入される。それと終盤、これもかなり唐突に、撮影中のカメラマンとベルイマンが映り込むシーンがある。ラストも、フィルムが焼き切れる形で映画は終わる。
「これは映画だ」と強烈に自己主張する、ホドロフスキー/キアロスタミ的な異化効果の存在は、たしかに面白いといえば面白い。しかしながら、この手の仕掛けが本編の内容とそこまで密接につながっている感じもせず、単発の脅かしのように挿入されるだけなので、なんだかもやもやする。
●エリーサベットとアルマは、本当に同化したり、中身が入れ替わったりしていたのか。単なるアルマの妄想なのか。だとしたら、なぜエリーサベットの夫はアルマをエリーサベットだと思い込んだのか。アルマが語ったエリーサベットの過去は真実なのか……。すべての事象について、明確な説明や断定的な言及はなく、こちらはただ想像力をめぐらせるしかない。
ちなみに、アルマに覆いかぶさったエリーサベットの髪が広がっている描写は、明らかにエドヴァルド・ムンクの絵画「愛と痛み(吸血鬼)」のビジュアルイメージを援用している。
ムンクには、「春」「病める子」「庭の木の下のふたりの女」「浜辺のふたりの女」など、ふたりの女性の関係性をテーマ/モチーフにした作品が多く、とくに「浜辺のふたりの女」は、本作におけるベルイマンの重要な霊感源になっているのではないか。あと、アルマが浜辺で思い悩む姿は同画家の「メランコリー」を想起させるし、ムンクには「ふたりが同化する」というテーマの作品(「接吻」が代表例)もたくさんある。
オーバーラップを多用してふたりの人格の入れ替わりを示唆したり、光と影でひとりの人格の二面性を表現したりする象徴的な処理も、きわめてオーセンティックな美術史的教養に裏付けられている印象が強い。
●おそらく、この映画でもっとも謎めいているのは、リヴ・ウルマン演じるエリーサベットの存在それ自体だろう。この映画の「わかりにくさ」の大半は、畢竟彼女が「いったい何を考えているのかよくわからない」ことに起因しているのではないか。
ナラティヴの難解さ以上に、要所要所で、エリーサベットが内面を推しはかるヒントを与えてくれないことの「負荷」が大きい。そのために、アルマも、観客も、やがて途方に暮れ、しだいに追い詰められてゆく。
彼女は、決してずっと無表情なわけではない。
ときには、岸田今日子とよく似た感じのアルカイックスマイルを浮かべるし、怯えや焦りを見せてアルマにマウントを譲ることもある。
でも、肝要なところでは、鉄壁の防御をまとって、不可知、不可触の存在へと変貌してしまう。
とくに、わざわざ「封をしていない手紙」を渡しておきながら、アルマに「読んだわよ」と難詰されると「びくっとして見せる」のは、どうにも合点がいかない。もしかして、すべてはエリーサベットの掌の上で起こっている「あやつり」なのでは? そもそもアルマという存在自体が、自らの精神的外傷の治療のためにエリーサベットが生み出した虚像なのでは(「自分はひどい人間ですべてが嘘で出来ている」)? エリーサベットの声が出なくなった演劇が『エレクトラ』なのはどんな意味があるのか?
……とまあ、いろいろ考えだすと切りがないけど、「すべてをさらけ出しているように見えて何重にも底がある、エリーサベット同様に得体の知れないアルマ」を演じるビビ・アンデショーンも含め、「女優の力」がこの映画を支えていることは間違いがない。
今はこんなところだが、いつか時間を空けて、他の作品もいろいろ観てから、改めてじっくり鑑賞すれば、また違った意見、感想、解釈も湧いてくるかもしれない。