ガッジョ・ディーロのレビュー・感想・評価
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悲しみの中の歌と踊り
父のカセットテープの歌い手、ノラ・ルカを探しにフランスからルーマニアのロマの暮らす地域にやってきたシュテファン(見た目はハリー・スタイルズ風)。
言葉は通じないけれど歌と踊りが好きで明るい、楽しい人たち、くらいの感じで彼らとの交流を楽しむ。
そんな中で、ルーマニアの人との争いから住んでいたところが全て焼かれ、世話になったイシドールの息子も亡くなる。
その後、今までのテープなど全て壊すシュテファン。
シュテファンはきっと、そこでロマの歌や踊りの本当の意味を知ったのだろう。悲しみの中から生まれる音楽を。
最後に踊るシュテファンとそれを見て微笑むサビーナが印象的だった。
監督はロマでもアルジェリア人で、フランスかぶれの男目線な作品に仕立てていると感じた
三部作と言うから、この作品の前に、関係する話が存在するのだと思う。
この話自体では、ガッジョ・ディーロが何故ここへ(ルーマニアへ)やって来たかが分からない。
手作りの蓄音機を作ってあげて、ロマの人達に聞かせて、円満さを繕うが、なんと当時10万円もしたDATの録音機を持っている。
そもそも、ルーマニアのロマのスースー村を訪れるのに、現地の言葉を全く分からずに訪れる無謀な事はフランス人と言えどもしまい。
話の流れを単純に受け取れば、馬鹿息子は殺人をおかしていて、仕返しされる理由はあろうかと思う。ロマ族全体に対する差別とは全く違う。ルーマニア人の酒場へ背広とネクタイ姿で乗り込む姿は、『仁義なき戦い』みたいだ。つまり、ロマ族の反社会的組織って事だ。
この話をアイロニーとしてとらえるなら、ロマにも馬鹿な男が沢山いて、結局泣くのは女性と子供って事を言いたいのかと感じた。
しかし、サビーナはこの世間知らずの馬鹿なフランス人にくっついて、この地を離れようとしている。ベルギーで嫌なことあったはずなのに、騙される懲りないロマの女という事だ。なんで、DATのテープを破壊して、埋めるのだ?映画の初めにパンとチーズで飯を食べた所で。理解できない。
監督は母方はロマでも、父親はアルジェリア人(父系が強いベルベル族)で、フランスかぶれの男目線な作品に仕立てていると感じた。だから、
到底、共感することは出来ない。
25年前の映画だが、本当にこんな事があって、こんな生活をしていたのだろうか?
日本で言えば、沖縄で観光用の琉球民謡を見て感動し、『沖縄には、差別された歴史がある。』って語っているように思えた。つまり、フランス人や外国人向けの観光映画。
『ノラ・ルカ』って東ヨーロッパのロマ族の歌と紹介されているが、イスラエル国歌のハティクヴァみたいだ。もっとも、ハティクヴァはスメタナ(チェコーボヘミア)のモルダウそっくり。東ヨーロッパ全体で好まれたメロディーのような気がする。但し、ここで登場するロマ族の音楽はインドの民族音楽とトルコのベリーダンスのスーバークロスオーバーって言ったところだ。
持論で申せば、ロマ音楽の普及はジャンゴ・ラインハルト(ベルギー?)の存在が大きく影響していて、ステファン・グラッペリ、ヘルムート・ツァハリアス、ウェルナー・ミューラー、アルフレッド・ハウゼ 等など 彼らが
タンゴ、フラメンコ、ラテンをイージーリスニングとして、西洋(ヨーロッパ、アメリカ)へ普及させた。勿論、ポール・モーリアとか、レイモン・ルフェーヴルとかジェームス・ラストとかヘンリー・マンシーニまで含めていいかなぁ。
しかし、そうなる前にクラシックとして
チャルダッシュやチゴイネルワイゼンもロマ音楽ですよね。黒い瞳なんかもロマだね。ロマとロシア、ウクライナ民族音楽とのクロスオーバーだね。
誰にも聞いてもらえない含蓄飛ばしきった。ほぼ受け売り、しかし、今は亡きオジキのコレクションで、良く聞かせて貰った。個人的にはヘルムート・ツァハリアスの『黒い瞳』が好きだっただけかもしれない。
まぁ、
こんな時、中村とうよう先生がご存命ならと感じた。
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