数に溺れてのレビュー・感想・評価
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乾いた死、唯の無
ピーター・グリーナウェイ監督作品。
狂気的な天才ですね。何でこんな作品が創作できるのか理解できません。
少女の縄跳びの運動は生の飛躍だと思ったのは束の間、鳥の死骸が同じフレームに配置されることから、数えるものは死骸であることが語られてしまう。
1、2、3、4、…シーンが積み重なる度に、死骸が積み重なっていく。死はあらゆる情動を排する。3人のシシーが夫を淡々と溺れさせるように、そこに動機はあるにせよ悲嘆すべき運命や激しい憎悪は存在しない。
単なる死に至るゲーム。私たちが死んだら唯の無だと宣告し、それまでの生を遊戯的に楽しめばいいと寿ぐ。
ハレルヤハレルヤ。火花を散らす花火が輝く。生死生死生死の流転。
グリーナウェイの作品はあまりに美しい。その美しさは肉肉しい生が乾ききった死として描かれているからだと思う。美しさは分かる。けれどニヒリズムから一歩引きたい私は別の美しさを見出したいと思ってしまう。すなわち唯の生としての希望を。
グリーナウェイによって仕組まれたゲーム
ピーター・グリーナウェイ監督 『数に溺れて』(Drowning by Numbers, 1988)
グリーナウェイ作品と言えば、『コックと泥棒、その妻と愛人』『プロスペローの本』のようなバロック的で重厚、あるいは残酷な饗宴を想起しがちだ。しかし本作において際立つのは、その圧倒的な「軽妙さ」である。
3人の同名の女性「シシー・コルピッツ」たちが、それぞれの夫を次々と溺死させていく物語。本来ならば陰惨なサスペンスになり得るこのプロットを、グリーナウェイによって巧妙に仕組まれた大人のための寓話となっている。あるいは上質かつ危険なほど下品なブラックジョークとして描き出されている。重力を感じさせない死、悲壮感のない犯罪。この軽やかさによって、本作を他のフィルモグラフィの中で特異な位置に押し上げている。
スクリーンに映る一瞬一瞬が、そのまま絵画のようである。 かつて画家を志したグリーナウェイの「映像的感性美」は、単なる美しい風景を捉えることではない。それは、構図、色彩、人物の配置、光の加減、それらすべてが完璧なバランスで統制された「人工的な美」への執着と言える。どのシーンを切り取っても、ルネサンス期やフランドル派の絵画を思わせる陰影と色彩設計が施されており、自然の無秩序ささえも、監督の美学によって飼いならされているように見える。この過剰なまでの美意識が、不道徳な殺人を「芸術的な儀式」へと昇華させている。
また、その世界観を決定づけているのは、細部への偏執的なこだわりである。奇妙な遊び道具、不思議な昆虫標本、アンティークな家具。一見不自然とも思えるすべての小道具が「死」と「遊び」のメタファーとして機能しており、画面の隅々まで目が離せない。
そして重要なモチーフとして特筆すべきなのが“水”である。3件の殺人が全て溺死であるように、形を持たぬ不定形の液体である水は、他の管理可能な小道具や小動物とは異なり、グリーナウェイにとって管理不能な『恐怖』の象徴なのかもしれない。水は人間の外部にあるもの、そして血は一度人間のフィルターを通過して排出されたものとして扱われる。水と血という二つの液体は、いずれも「完璧に構築された人工的秩序を侵食し、自然の混沌へと引き戻す力」を象徴している。グリーナウェイの世界における“液体”とは、支配や管理が不可能な、人工美の向こう側に潜む本源的な恐怖そのものである。
横移動のドリー撮影による長回しは、グリーナウェイの映画においては定番だが、この映画においても随所にこの演出は用いられている。それはカメラが止まらずに一定速度で動き続けることで、観客はフレームの外にある「次の展開」へと強制的に、しかし滑らかに連れて行かれる。これにより変化していく時間の中の状況を断絶することなく「横に長い巻物(空間)」のように扱われ、少し引いた位置から登場人物の心境の変化や狂騒的な状況の変化を、あえて冷静な視点で捉えさせることにより、グリーナウェイ特有の「残酷なまでの客観性」を生む演出となっている。
観客は映画を観ながら、同時にあるゲームへの参加を強制される。それは、1から100までの数字を見つけ出すというゲームだ。この数字の遊戯性は単なるギミックではなく、グリーナウェイが“世界そのものを人工的なルールで構築する作家”であることを端的に示す仕掛けでもある。看板、牛の背中、木に打ち付けられた札、あるいは衣服の模様。数字たちは画面の至る所に、時には堂々と、時には巧妙に隠されている。ストーリーを追うべきか、数字を探すべきか。この「遊び」は観客の集中力を物語から意図的に逸脱させる。これは「映画とは物語を語るだけの媒体ではない」というグリーナウェイ流のアイロニーであり、映像体験そのものをゲーム化し、彼の作ったルールの中に誘われているような試みだ。
役者たちの演技においても感情を露わにするようなことはほぼなく、役者たちは感情を剥奪されたロボットのように振る舞う。彼らはグリーナウェイというプレイヤーの手によって盤上を動かされる、単なるチェスの駒に過ぎないのだ。
映画全体を包みこむ音楽についても触れておきたい。モーツァルトの「協奏交響曲」を解体し再構築したマイケルナイマンによるミニマル・ミュージックは、この映画の心臓音と言える。絵画でいえば、地塗りのような効果と言えだろう。執拗に繰り返されるフレーズは、物語の円環構造(繰り返し行われる殺人)と完璧に同期し、優雅で軽妙でありながらどこか不穏な空気を醸成している。
この映画はグリーナウェイによって仕組まれたゲームである。彼の手のひらで弄ばれている感覚を味わいながら、自分の身も彼に委ねてしまえば、それはそれで心地の良いものである。そしてその“心地よさ”こそが、グリーナウェイの最も危険で、最も魅力的な罠でもある。
シュールで独特な作風
グリーナウェイの代表的中二病作品
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