華氏451(1966)のレビュー・感想・評価
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本(文字文化)に対する映画(映像文化)からのオマージュなのかも。
害毒の根源として、もっぱら燃やされる本の数―。
しかし、本(脚本)がないと映画は作れないわけですから、やっぱり本(文字文化)は、すべての文化の基本になっていると言えると思います。
最後には、本の焼却については名うてだった主人公も、本を読むことの魅力に気づいたというのも、理由のないことではなかったと思います。
You Tube動画を始めとして、映像文化全盛期とも言える昨今ですが、改めて読書の面白さ、興味深さに気づくことのできる一本ではないでしょうか。
(追記)
本来は火を消す役割の消防士が、本作では火を点ける(本を燃やす)役回りを果たしているという設定は、面白かったと思います。
(追記2)
451℉は、紙の発火点のようです。
主人公が所属する消防署が451分署というのも、監督のウィットでしょう。
(追記3)
いかにもフランスっぽいのか、主人公が乗る消防車が、とてもスタイリッシュでした。格好はいいのですが、フルスピードでカーブを走って乗員に遠心力がかかると危なくて、あまり実用的ではないかも知れませんね。
トリュフォー監督の失敗作でも、忘れられない映画の奇跡
フランソワ・トリュフォー監督の失敗作。SF映画の失敗作でも、ラストの奇跡で忘れられない映画になる。映画の神様に守られたトリュフォー監督の野心と苦労が、映像の美しさの極みに到達する。何て素敵なラストシークエンスであろう。大好きなジュリー・クリスティの代表作の一本。
テレビより本って、時代もあったのね。
令和にあまりふさわしくない映画を選んでしまいました…。
近未来の時代を描いた独裁政権のファンタジー。
本を読むことを禁ずる国では、国民が隠し持っている書物を消防士たちが焼き滅ぼします。
火を消すことが職務の彼らが、火を操り沢山の書物を消滅させるという…。
テレビから発せられる謎の電波によって、女性たちはどんどん考える自由を失い、子供を産み育てる道具と成り果てる世界。
国民の考える自由を国が奪ったなら…。
民主主義の社会が確立したからこそ、この映画は意味あるものとなったようにも感じます。
まだまだ独裁政権の国が、世界のあちこちに存在するのも事実。
書物を焼いても、考える自由が失われないように、国が国民を抑制することは何をどう頑張っても無謀な行為だと信じたくなります。
押さえつければつけるほど、歯向かいたくなるのが人間なのかもしれないと感じました。
冒頭ではいきなり音声でキャストとスタッフの紹介。しかも、日本語版...
冒頭ではいきなり音声でキャストとスタッフの紹介。しかも、日本語版では字幕があるが、元々は存在しない。そう、ここは活字が許されない世界なのだ。漫画にも文字はついてない。劇中テレビドラマの内容はすごくつまらないのだが、壁掛けの薄型テレビであることや番組が双方向ドラマになっていて、現代のTVを想像させるので非常に興味深い。
思想的書物が燃やされるという史実は焚書坑儒や文化大革命を思い出してしまうが、この作品では活字が印刷されていれば何もかも燃やしてしまう。活字がない世界ということには矛盾点がありすぎるが、権力者によって奪われてしまうこと、それに疑問を持ち反抗することをテーマとしてとらえれば、それなりに楽しめる。
しかし、このストーリーが映像化されたのは時期が早すぎたのでしょうね。現代で映像化すれば、いい映画になると思われるシーンも多かった。何といっても、トリュフォー監督にSFは似合わない気がする。
なんとも
50年前の映画だけあって映像はなんというか...という感じ。
ただ、その中でも本が燃えるシーンは綺麗。
一ページずつ燃えていくシーンは目が奪われました。
話はディストピアなお話し。
今でこそこういう話は割とあるけど、当時としては新しかったのかな。
世の中は燃焼物で溢れているのに
総合50点 ( ストーリー:35点|キャスト:60点|演出:60点|ビジュアル:65点|音楽:65点 )
燃えやすく家事のもとになるから本を所持するのは禁止で重罪、それなのに家の中には普通に帷帳や絨毯等の燃えやすいもので溢れている。管理社会の怖さを描いているのだろうが、幼稚な設定で矛盾だらけなのでさっぱりはまれない。もっとしっかりとした設定がまず必要だし、人の心情を掘り下げ過剰な統制社会の緊張感を出す演出も必要。
二人の図書館狂いが描いたデストピア
ブラッドベリの華氏451はKindle出版されているがまだ読んでいない。
1953年に出版された名作が1966年にトリュフォーによって映画化されたが、2015年正月にボクは初めて渋谷で観た。
二人の図書館狂いが描いたデストピア、なんとも大げさな書きようだが、感想はこれがすべてだ。
まだどう評価すべきかよくわからない。
華氏451は書物が自然発火する温度。
込められている意味は秦始皇帝やナチの焚書という神話ではなく、禁書・発禁に近いような気がする。
しかし、禁書・発禁がテーマなら中世の修道院を舞台にして、エーコが「薔薇の名前」を書いているが、これとも違うようだ。
ブラッドベリは未来社会のデストピアを書いたのではないだろうか。
本を焼かれた人々は森の中に逃げ込みブックピープルと化す。
そこには当然、図書館も本もなく、居心地の良さそうな森はピープル一人一人が一冊ずつ丸々暗記する事で生まれた未来の図書館だ。
しかし、その森では各々がブツブツと暗記した字面を口するだけ、一切の会話もなければコミュニケーションもない。
その姿は毎日見かけるメトロの中のスマホ人間のワークスタイルに似ている。
イヤフォーンを耳にかけ、しきりに話しかけ、歩き回る煌びやかな無印都市。
各々は満足そうだが、外見からは一切の想像を拒否し、自己の世界に埋没する2015年のボク自身の日常。
トリュフォーはそんな森を映画にした。
そう、春樹が1Q84で書いたリトルピープルのデストピア。
世界観が面白い
大学のメディア学の講義で観た作品。一昔前のSFなので、メディア規制の教材としてはどうかと思うけど、娯楽としては「もしかしたらこんな世界になってしまうかもね」という想像をかきたてられて面白かった。
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