「タルコフスキーの極めて個人的で詩的な映像美の独白」鏡 Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
タルコフスキーの極めて個人的で詩的な映像美の独白
ある人々にとって、今度のタルコフスキーの「鏡」は全く理解不能の、簡単に言ってしまえば詰らないものでしかないであろう。主人公の追憶シーンの断片的な羅列、その一つ一つが当時の社会状況から意味をもつ政治的な見解、そして登場する役者の重複する演技スタイル。これらが、作者アンドレイ・タルコフスキー個人の主観的な視界の中で完全に映像化されている。僕は、このような特殊な“作家だけの映像美”に出会うと、まず最初に一般的な評価は望めないだろうという、映画鑑賞の孤独化を危惧する。つまり、タルコフスキーの創作の中には観客に対して、解りやすく提供する意図は全くなく、ここには映像の語り手ではない“映像の呟き=独白”があるだけだからだ。それによって観客の独立した鑑賞態度が問題になるであろう。
それならば、その観客を拒否した世界から、美しいもの、映像表現の優れたものを、こちらから奪ってみてはどうだろうという考えが僕を支配する。先ずゲオルギー・レルベルグのカメラが、ストーリーとは無関係に思える自然の有り様を執拗に長く撮っているのが注目に値する。母マリアが庭の柵に腰掛けている場面の風に戦ぐ野辺のカットは、それだけで詩的な風景画として母の姿を表現している。また、水が入った盥で髪を洗う場面では、天井から水と壁が落ちてくるスローモーションの美しい映像が流れる。ここでは同じ詩人で映画監督のジャン・コクトーに似たイマジネーションを想像した。そして、国立出版所の原稿に校正ミスがあったと慌てて急ぐマリアの音の無いスローモーション映像。主張を抑えた沈黙の表現に、ソビエト国民の声に出せない苦悩が感じ取れる。
この他にも時間を止めた印象的な映像が幾つもある。例えば子供たちが火事場へ向かった後の、テーブルの上から落ちていく花瓶、テーブルからワイングラスを持ち上げた時に残ったくもりが消えゆくカット。それらは記憶の世界にある些細な時間をイメージした作者の映像として存在する。人生を振り返り、個人的な記憶を映像詩として表現する作者は、また幸せではないだろうか。ここまで自分の為の映画が創作できることが、羨ましいと思った。それ故、内容が孕んでいる作者の本当の苦悩まで理解することはない。独りの幸福な詩人の映像美である。
タルコフスキーの自伝的私映画そのものの静かな映画。全体を見通せるストーリーの完結さは無く、あるのは病床に臥す主人公の断片的追想であり、それは感傷ではなく自責の苦悶に近い。極めて個性的な独白の映像詩。
1980年 7月20日 岩波ホール
公開当時、内容の解り難さのため評価されなかった。個人的にも絶賛するまでではないと思ったが、意外にも映像は脳裏に残っていて、その後忘れられない作品になった。どちらかというと理数系の思考を得意とする自分には文学コンプレックスがあり、このような詩そのものの様な映像は苦手である。しかし、嫌いではない。自分勝手な想像が許されるからだ。そこが映画と文学の違いだと思う。