おもいでの夏(1971)のレビュー・感想・評価
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0037 ジェニファーオニールに溺れる
1971年公開
ガキならこんな展開絶対あこがれるよな。
ミシュルルグラン優美なテーマにのって
妄想が脳内一杯に拡がる。
こんな若奥様にみつめられたら卒倒するって。
これ一作でジェニファーオニールは映画史に残るようになる。
95点
初鑑賞 1977年12月16日 大毎地下劇場
テレビ初鑑賞 1976年10月31日『日曜洋画劇場』
純粋な憧れ
懐かしいミッシェルルグランの名曲がタイトルバックに流れていく。
ゲイリーグライムズ扮する思春期の高校2年生ハーミーは、悪ガキ3人でジェニファーオニール扮するドロシーを初めて眺めて見た。
性への関心が頭に蔓延している思春期に導いてくれる年上の女性はまるで女神の様。ましてジェニファーオニールの様に綺麗な人なら憧れて夢中になるのも無理の無い事だ。純粋な気持ちこそ制御出来ず想いはふくらむばかり。そんな想いを胸に人は成長していくのさ。久しぶりに観たけど、やっぱり名作だったな。
1942年の忘れられない夏を追憶するノスタルジーを感傷的に美しく描いたマリガン監督の秀作
古くはフランス映画のレイモン・ラディゲ原作の「肉体の悪魔」やシドニー=ガブリエル・コレット原作の「青い麦」に描かれた、年上の女性に抱く少年の憧憬と性的好奇心を扱った青春映画。特に「青い麦」とはひと夏の経験のお話で類似点が多く、ストーリーとして特に際立つ劇的な展開はない。それは世界共通の少年が経験する未熟で何処か滑稽な男の成長過程の一時に過ぎず、人に語るほど特別なドラマではない。しかし、このアメリカ映画は、そのフランスの恋愛映画の厳しさに対して、主人公のモノローグで語られるノスタルジックなリリシズムが、淡いパステル調の美しい映像によって表現されている。そんな普遍性をもつ男の不器用な初体験を扱っていながら、名手ロバート・サーティースの撮影が回顧調の映像美を極めていて、同じような経験を持つ男たちの共鳴を誘う。想い出は美化され懐かしければ懐かしいほど、青春期のあの充足感と喪失感は何だったんだろうと、自分の人生を省みる大人になってしまったことに気付くだろう。そんな主人公ハーミーを演じるゲーリー・グライムスの何処にでも居そうなごく普通の優等生タイプの平凡さが、この美しくも弱々しさを兼ねた映画の世界観にマッチしている。そして何より、そんな少年を夢中にさせる人妻ドロシーを演じたジェニファー・オニールの清涼感のある美しさと、しなやかな身体の線を持て余したような仕草がコケティッシュな大人の魅力に溢れていて、羨望の想いで見つめてしまうのだ。
舞台となる1942年のニューイングランド地方のナンタケット島は戦火を遠く離れて、出兵する夫を持つドロシー以外に第二次世界大戦の影響は殆どなく、穏やかな潮風と波の音に囲まれた避暑地の恵まれた環境に、ハーミーと同じ思春期を迎えたオシーとベンジーの友だちも加わり、アメリカ映画らしいユーモア溢れる青春スケッチが展開する。また些細な事だが、海岸でマシュマロを焼くシーンで初めてその食べ方を知ったのも印象に残る。後半のドロシーとハーミーを繊細にして清潔に描いたマリガン監督の演出もいい。このユーモアとリリシズムのバランスと転化が素晴らしい。
ハーマン・ローチャー自ら回顧録の原作を脚本にした故、美化されたストーリーではあるだろう。それを承知で監督のロバート・マリガンは演出している。サーティースの奇麗な映像に甘酸っぱい青春の記憶を染める様に、ある程度距離を置いて映画作品にしたマリガン監督の堅実さが出ていると思う。そして、この美しく切ない世界観に更に情感を加えて映像と溶け込んだミシェル・ルグランの音楽がやはり素晴らしい。映画も音楽も美しくなくてはならない理想の一つとして、大切にしたいアメリカ映画の一本になるだろう。
1977年 1月29日 池袋文芸坐
ロバート・マリガンの映画は、「アラバマ物語」「マンハッタン物語」「下り階段をのぼれ」「悪を呼ぶ少年」と観てきたが、この作品と「アラバマ物語」が代表作になると思う。とても意外だったのは、尊敬する映画批評家飯島正氏が、1971年のベストテンに挙げていたことだった。読者選出(男女共)のベストテンに選ばれるのは解るが、これは嬉しい驚きだった。この年のキネマ旬報ベストテン外で私のお気に入り映画は、この「おもいでの夏」とロバート・ワイズ監督の「アンドロメダ...」デ・シーカ監督の「悲しみの青春」、そしてエリオ・ペトリ監督の「殺人捜査」になる。
ついでに個人的な1971年のベストテンを選ぶと、
①ベニスに死す②悲しみの青春③ライアンの娘④ファイブ・イージー・ピーセス⑤おもいでの夏⑥わが青春のフロレンス⑦殺人捜査⑧哀しみのトリスターナ⑨屋根の上のバイオリン弾き⑩アンドロメダ... 次点バニシング・ポイント になります。
音楽が最高♪そしてすべて
初めて観たのが高校生の頃深夜TVで。この曲は深夜放送のBGMとして使われていたのが懐かしい。甘酸っぱい少年の心が私と同期するかと思っていたのに、意外と冷静に見た記憶がある。当時であっても、人妻に恋するという設定は珍しかったのだろうか、草分け的な存在なのですかね。少年時代は何故か年上女性に惹かれるというのが定説になっている(?)かも。
結局、このテの映画が何故いいのか!?やはり、年上の女性に恋する性春時代の物語だからか。このお話、1942年ということで、日本ではどうだったのか?そう考えると悲しくなります。この時代にしなければならないという必然性を感じないし、脳天気すぎる友達にむかついたりもします。
薬局のシーンではもっと笑いが欲しかったかな・・・
甘酸っぱくもほろ苦い、人生の通過儀礼の映画
彼女とのことほど、私を恐れさせ混乱させた体験はない。
もう二度とないだろう。
彼女に与えられた、あの安らぎ、あの不安、あの自信、そして無力感。
冒頭に流れるナレーションが、本作の全てを物語っています。
15歳の少年が、肉体的にも精神的にも大人の男へ一歩進んだ、ひと夏の甘く苦く切ない出来事を描いた、子供から大人に成長していく通過儀礼がテーマの映画です。
当然、主人公ハーミーの視覚から捉えた、徹底して一人称の映像であり、40数年前、ハーミーと同じ15歳の時に観たこの映画は、完全にハーミーと同一視点に感情移入して観た記憶があり、胸が苦しくなるほどに悩ましく強烈な印象を与えてくれました。
延々と描写されるドラッグストアの長回しシーンは、将に思春期のバカな男たちが嘗て辿った通過儀礼そのものであり、コーヒーは苦味を我慢してブラックで飲むのが、大人の男への入場券と思えていました。大人を模倣するために、虚勢を張って思いきり背伸びしたあの頃を経て、いつの間にか人は一人前になっていくのでしょうか。
己自身を顧みても得心できる、10代の少年たちの何と無邪気で無知で愚かなことか、そして呆れるほどに性への好奇心を滾らせていたことか。
原題でもある、ハーミーたちの「1942年の夏」の空は、常に晴天だけれど、セピア色の靄のかかったような青磁色の蒼空であり、気持ちは晴れて精気は漲っていながら、心はどんよりとして不安定な、恰も思春期の心象風景を現しているかのようで、これにアンニュイな哀感と寂寥感のこもった、単調だけれど情感豊かに心に染み入ってくるミシェル・ルグランによるテーマ曲が重なると、観客を浮揚感とノスタルジックな既視感に導いていきます。
そしてハーミーに強烈な懊悩を与えた、人妻ドロシーを演じるジェニファー・オニールの何と燦然と優美にして妖艶で、官能的に神秘的で蠱惑的なことか。
彼女とのベッドシーン、初めての異性、海の潮の香、寄せる波と引く波の音の心地良い揺らぎの音色、静謐にして厳粛なこのシーン。これほど煽情的で耽美的で抒情的なベッドシーンは他に知りません。然しハーミーにとって、興奮と歓喜の坩堝のはずなのに、何故か哀愁と悔悟の思いが過ります。
エンディングでのナレーション、「まだ少年が少年であった時代だった。人生のささやかな出会い、人はそれで何かを得て何かを失う。」
「私は、嘗ての出会いから何を得て何を失ったのだろうか」、ふと自問自答してみたくなりました。
大人への階段
これだけ大真面目に少年期の性への目覚めを扱った映画も珍しいかもしれない、個人差はあるだろうが誰もが通る道、親には聞けないから悪友たちで猛勉強、ただ、前半は生々し過ぎて観ている方が気恥ずかしくなる。
夫の戦死の通知を受け取った新妻の心理としてとか、貞節さにとか疑問は残るものの、当事者でなければ分からない通じるものがあったのだろう、戦争の影が若者たちに忍び寄っていた時代背景もあったかもしれない・・。原作ハーマン・ローチャーの回想によるものだそうだが、こんな体験をすれば一生忘れない思い出になることは間違いない。
タイトルからの想像とは違ったので面食らったが、赤裸々な青春の一ページでした。
冒頭のテーマ曲で、もううるうるします
ミッシェルルグランオーケストラの哀愁のメロディ、あのピアノの音色だけでノックアウト
ジェニファーオニール23歳、綺麗なお姉さんそのもの
ラストの主人公の顔つきが見事に大人に変わっています
良い本物の映画を観た満足感の素晴らしい余韻が残りました
公開当時はポールモーリア楽団などイージーリスニングの流行があり、ミッシェルルグランオーケストラも特に人気がありました
このテーマ曲は大ヒットして当楽団の十八番となり、今では映画音楽の定番として誰もが知る名曲です
劇中、主人公達が女の子と観る映画はベティデイビス主演の「情熱の航路」です
1942年公開ですから、公開されたばかりの作品です
避暑地の田舎の映画館ですから、2番館、3番館だったと思われます
シネコンの無い昔は最初に公開する都心の封切り館があり、半月、1ヶ月程遅れて2番館、3番館と時間差を置いて地方の映画館に順に公開されていくシステムだったのです
青春の1ページ
女のことで頭がいっぱいな少年の描き方はいかにもアメリカ的なドライな描き方だ。なんといってもこの映画のラストの少年と女性との体験の描写。乾いた映像にミッシェル・ルグランの曲が針のノイズ音と共に重なり、なんともいえない叙情性を出しています。セリフもなく、針のノイズ音だけで十数分ずっと引っ張るその演出はこの映画だけではないでしょうか。
おもいでを 過ごした夏よ 甦れ
Gyaoで「おもいでの夏」という映画が掛かってた。かつて観たことがあるかもしれない。1970年アメリカ作品。もちろんリアルタイムではなかろう。ミシェル・ルグランの音楽は懐かしい。記憶に残っている。
1942年の夏、戦火を逃れてニューイングランド沖合いの美しい島にやって来た少年ハーミー(ゲイリー・グライムズ)とその家族。とはいえ家族は一切登場しない。15歳の少年が少年としての最後の夏を送る、それが原題でもある「1942年の夏」の出来事。そこにはハーミーと、そこで知り合ったオシー(ジェリー・ハウザー)とベンジー(オリヴァー・コナント)という同い年の友人。そして、思春期の彼らの興味である女の子が登場すれば十分だ。けれど、そこに、小高い丘の家に住む美しい人妻ドロシーが登場する。
よくある話といえば、それまでだ。例えば思春期映画「青い体験」などと比較されるのも仕方がなかろう。けれど、一般的によくある話だとしても、一人一人からすれば、少年のひと夏の体験は、その少年だけのものだ。そして、彼にとって、大きな分岐点でもある。そこをしっかりと弁えて描かれているからこそ、ありきたりでありながら、この映画は誰にも切ないのだ。そして、単なる一通過地点として記憶の底に埋没させてしまい毎日を送る人々に、自らの特異な分岐点、悔いなる杭がまたにょきにょきと頭を持ち上げてくるのだ。「あの夏、もし、そんな体験がなかったら」「その体験に、もしああしていたら」そんな空想がぬめぬめ染み出てくるのだ。
それはキーワードが夏だとしても、実際の季節の夏ではないかもしれない。人妻ドロシーを演じるジェニファー・オニールは美しい。ハーミーとお相手をする同世代の女の子アギー(キャサリン・アレンタック)もけっして可愛くないわけではない。でも、ドロシーのご主人が赴く戦地からの悲報によりハーミーが体験するドロシーは、夏が終わる海のように切なくきらきらと輝いていなければならない。そして、私たちは、そんな輝きを忘れていたことに悔やまなければならない。悔やむことで、時間を遡る、そこへ立ち戻るということを可能にする。
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