「「嫌いだけど愛している」と 「愛しているけど嫌い」の小競り合い」いつも2人で きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
「嫌いだけど愛している」と 「愛しているけど嫌い」の小競り合い
あの「ビフォーアシリーズ」ほどではないけれど、結婚という人生の旅路を続けながら男と女が喋くるロード・ムービー。
その片割れをオードリー・ヘプバーンが務めるのだから、これは見ないわけにいかない。
「結婚とは・・
女が男に『服を脱いで』と言った時 ―
ただ単に洗濯したいだけであること」
― 砂浜で抱き合って、この名言にゲラゲラと笑い転げるマークとヘップバーンのいいシーンだ。
そして劇中、象徴的に繰り返して現れるのが、押し黙った中年男女のカット=夫婦の姿。
ザ・倦怠期。
さて、
名作「ローマの休日」では、世紀の清純アイコンとなったアン王女さまなのだが、
本作では事あるごとに「セックスセックス」と連呼するのには、いささか閉口したが、
どの出演作を観ても、彼女は、若い頃も、年を経ても、どこか一本抜けていてどんくさいところ。そして案外頑迷でしつこい性格があるところ・・
そこが庶民的でチャーミングな、彼女の生まれつきのキャラクターなんだろう。
僕は、朝帰りの売春婦を演じたオードリー・ヘプバーンの「ティファニーで朝食を」が、彼女の最高傑作だと思っているので、今回さんざん濡れ場を演じている本作は、彼女のそんな持ち味の真骨頂だとも思えるのだ。
つまり、
お姫様役ばかりでなく、
こうして身近かな、自分の連れ合いのような女を演じさせる監督の、「オードリー・ヘプバーンの人間宣言」狙いなのだと思う。
貞淑な妻も、汚れ役も演れた池内淳子とか若尾文子っぼいところをオードリーには感じるが、どうだろうか。
めんどくさい女なんだけど、憎めなくて、結局付き合いが長くなってしまう。オードリー・ヘプバーンとは、そういう役どころなのだ。
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この映画は、
ひとつのカップルのたどった歴史が、
そしてその彼らの歩んできた時間が、映画の中で前後左右に飛び回り、錯綜し、時系列などすっかり分からなくなってしまう変わった作りになっている。
けれど、古女房や加齢臭の宿六と過ごした日々を、互いに思い出す瞬間というものは、大概がこういうものだろう。
写真アルバムを開けば、着ている洋服の変遷や、あの頃乗っていた車の車種の写真で自分の時系列を思い浮かべられるけれど、
永い結婚生活を経てきているそんな経験者たちにとっては、たどってきた過去の映像というものは、断片的で、走馬灯のようで、かくのごときものなのではないだろうか。
つまり、
良い思い出も、悪い思い出も、順番などよく分からなくなっていて、すべてがバラバラにフラッシュバックしている。
映画は、かくして、繰り返し同じパターンで二人のエピソードが付け加えられていくのだ。
出会い、仲たがい、収束・・
出会い、仲たがい、収束・・
波が寄せては引くように、
彼らの車も走ったり止まったり、快調だったり壊れたり、活躍したり休憩したりするように、
夫婦カップルの歩む道程が、ここかしこに象徴的にイメージされていて
大変に面白かった。
結婚のリアル、ここに極まれり、なのだ。
オードリーに横恋慕を仕掛けた紳士の言葉
「今や悠久などというものは存在しない。終わったものは終わったと言うべきだ」。
この台詞は彗眼だと思う。
終わらせることも出来る選択肢を持たないで、単にだらだらと同衾を続ける、そのような結婚の不毛をも、本作はえぐっているかもしれない。
共感ありがとうございます。
コレ観た時、あまりの軽妙さに仰天した記憶があります。無くしがちの夫が再び絆を繋いだ?様な所もほっこりしました。
自分が繰り返し読む小説に、若い頃二人には何も無かったが全てが生き生きしていた、と在るんですがそれを表現してると思ってます。