イタリア式離婚狂想曲のレビュー・感想・評価
全2件を表示
妄想から計画、実行の妻殺害の独善夫をカルカチュアした爆笑社会派コメディ
今はどうなのか詳しく知らないが、この作品が作られた時代のイタリアは、一度結婚したならば夫婦の何方かが亡くならない限り離婚が成立しないという国の法律である。ここに、シチリアの貴族で長年連れ添った妻に飽きて、同じ屋根の下で生活する従妹の女学生に恋する男が居る。妻は豊満な身体で夜と限らず営みを求めてくるのに、夫は拒否するだけに収まらず、それがエスカレートして殺意を抱くまでになる。ピエトロ・ジェルミのこの皮肉たっぷりな人間悲喜劇の始まりは、先ずその夫の殺意の妄想をコメディタッチで大いに笑わせてくれる。石鹸を作る大きな釜を見詰めていると、妻を刺し殺して煮え滾った石鹸液の中へ投げ入れるし、砂浜で頭部だけ出した海水浴を楽しむ妻を眺めれば、底なし沼に飲み込まれる幻想を抱く。そして、人間ロケットの記事が載った新聞を読めば、妻が宇宙飛行士になって地球から居なくなってしまえと、限りなく思いを巡らすのだ。夫のエゴ丸出しの願望をストレートに表現した可笑しさと残酷さ。妻への愛情は微塵もない。その妻が居なくなって、どうしても若く美しい従妹と一緒になりたい、この夫の居たたまれぬもがきに説得力はないのだが、こんな男の性(さが)にチョッピリ同情して観ている男性観客もいるだろう。妻の立場で視れば、これほど女性を馬鹿にした話はない。それは男と女の関係については、どっちもどっちなのだから。
それでも、脚本はとても練られている。妻の不貞を工作し殺害の正当化を企むところから、この夫の本当に頭がおかしくなった姿を見せていくところが巧い。夫は、結婚前の妻が付き合っていた恋人を家の修理の仕事を口実に招待して、妻との逢引きを仕組む。テープ録音機を買ってきては、裁判の為の証拠作りをする。ここの描写の夫を演じるマルチェロ・マストロヤンニがいい。イタリア男の悲哀が漂い、良くも悪くも男の為の作品として成立しているのだ。カルロ・ルスティケリの音楽がまた効果を出している。ところが、夫がフェリーニの「甘い生活」を映画館で観ている間に、妻は家を出て、かつての恋人と駆け落ちしてしまう。すると世間からは間男された、だらしない夫と烙印されて非難の手紙がたくさん届く。街を歩いていても、白い目で見られるのだ。これが、浮気された夫は侮辱の責任を妻に取らせ夫の名誉を守れと云う、社会通念の圧力になるところが興味深い。愛が無くても夫婦は夫婦という法律から派生した不文律。結局夫は、憎んでもいない妻を探し当て射殺してしまう。ここまで描くと、離婚厳禁の法律に対する作者の批判が感じられる。何年かの刑期を終えて夫は再び故郷の地を踏む。念願の従妹と結婚して、ハッピーエンドで終わるかに見せて、最後はその若妻が若い男と出来てしまうのかの暗示を加えている。映画は、男と女の駆け引きに終わりがないこの世の法則を、シニカルに表現していた。
一生に一度の結婚でなくてはならないか、それとも何度でも相手を選んで変えたいか。人は男も女も恋愛には正直でありたいと思っている。情熱の国イタリアの男性も女性も、それだけに苦労が多いのだろう。そんなイタリア人の本音が、ジェルミ監督のユニークな視点かつ挑戦的なストーリーによって可笑しく切なく映像化されていた。
法に縛られ他人の干渉を受けて、それでも愛に正直であろうとする男の虚しさを、ピエトロ・ジェルミがエゴイズム露呈承知で告白させた人間喜劇のケッサク映画。マルチェロ・マストロヤンニの髭を貯えた容貌のキャラクター作りから、必死に動き回る演技の様相まで、可笑しくて笑いが止まらない。殺人計画に躍起になるところの早送りの演出のカルカチュアも見事。人情派監督ジェルミの作家的立場を論証した社会映画の側面もある。
1979年 5月12日 フィルムセンター
イタリア式、笑えました
役者も脚本もイイ。
離婚禁止のカソリック社会で、結婚12年目、妻に愛情の失せた男が、うぶで可憐な若い女性に乗り換えるために、あらゆる方策を考え、計算し、実行する、その執念が半端ない。想像シーンが大概笑える。可笑しい。でもラストのラスト、やっと手に入れた新妻の水着姿の脚先のアップ。えーーーーっ⁈ 一気に男が不憫になった(笑)。
運命の恋人の、最初の教会でのヴェール姿の横顔が、主人公が何もかも投げうってでも手に入れたくなるのが納得の、マリア様さながらの美しさ。「ヴェニスに死す」のビヨン・アンデルセン君に似てると思った。
全2件を表示