怒りの葡萄のレビュー・感想・評価
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アメリカ文学の社会主義的小説をリアリズムとヒューマニズムで映像化したフォードの名作
1930年代の世界恐慌を背景としたオクラホマ小作農家の過酷な実態を告発したジョン・スタインベックの原作を、西部劇の神様と称されるジョン・フォード監督が「駅馬車」の翌年に監督した、アメリカ社会派映画の代表作。開墾されることで砂嵐(ダストボール 1931年から1939年アメリカ中西部の大平原)が発生し、同時に干ばつに見舞われて農産物の収穫激減により生活が困窮に陥った農民が、カリフォルニアに活路を見出そうとする物語。そこに農業の近代化を進める資本家の機械化と大規模経営の効率化の波が襲います。原作の社会主義的小説は1939年4月に出版され賛否両論の評価で大論争を生み、映画化にあたり製作者のダリル・F・ザナックは実際にオクラホマを調査させて、実態は小説以上に悲惨であったという逸話も残っています。原作を読んだヘンリー・フォンダが出演を強く希望したことも含め、アメリカ資本主義社会の負の側面を写実したリアリズム映画を、僅か8ヵ月足らずで制作したハリウッドの真剣さが伝わります。その為か、日本公開は製作されてから23年も経った1963年に漸く公開されました。それは偶然にも同年制作の、赤狩りの影響を受けて日本公開が20年遅れた「チャップリンの独裁者」と同じです。
しかし、この映画の長所が農民の悲惨さを伝えた社会性だけに終わる訳ではありません。淀川長治さんは、「駅馬車」など多くの西部劇で有名なフォード監督をサイレントから見続けていて、ホームドラマの大家と称していました。一概に西部劇監督の枠にはめるべきで無いのは、翌年の「わが谷は緑なりき」とこの「怒りの葡萄」の名作を観れば理解できるでしょう。前者は19世紀末イギリス・ウェールズの家父長制における父親像の絶対的権威を讃えて、今作は二つの世界大戦の間にある20世紀のアメリカ資本主義社会の犠牲になる、ジョード家族の母親像の生命力に一縷の望みを見出そうとしています。時代や社会の激しい変化に対応せざるを得ないとき、子供から見れば旧世代の両親の生き様や価値観をどう解釈し理解するかが、人間が成長する基礎となる。そこに生まれる軋轢や共感性を描くのがホームドラマの意義とすれば、フォード監督の本当の資質が見えてくると思います。アカデミー助演女優賞受賞のジェーン・ダーウェルの大河の流れのような落ち着きから冷静に物事を判断し人としての道を諭す、長男トム・ジョードとの会話には、そのエッセンスが凝縮されています。またそれは正義感はあるが感情の抑制が出来ないトムを演じるヘンリー・フォンダの演技と奇麗に調和して含蓄のある場面になっている。ここにジョン・フォード監督の演出の美しさ、人間を優しく包み込むヒューマニティーがあります。
オクラホマから追われ夜逃げ同然で一家を乗せたおんぼろトラックが、ルート66の道路を走りカリフォルニアに向かうロードムービーの特質を持つエピソードの中で、一際印象的なシーンがあります。それはトム・ジョード・シニアが年老いた祖母の為にパンを10セントで買おうとしてお店の女性と一悶着する場面。店の主人に促されて仕方なく15セントのパンを10セントで譲ってあげるのですが、そんな女性が孫二人が欲しがっていた飴を2つで1セントと嘘を付いて売るのです。更にそこにいた長距離ドライバーの男性二人が、飴1つが5セントじゃないかと言いながら店を出る時、お釣りはいらないと会計を済ませるところまでの善意の伝達に、フォード監督らしい演出タッチが窺えます。彼女が2つの大きなコインを見詰めて、“ねえ、見てよ、優しいじゃない”の台詞もいいし、彼女の真剣で一寸険しい表情もいい。短い場面ですが、この女優がみせる表情の変化にフォード監督の演出の素晴らしさがあります。
州を越えるたびに検閲があり、アリゾナ砂漠からロッキー山脈を通って、漸くカリフォルニアの緑豊かな大地を見下ろす安堵感と達成感のシーンでは、母親が祖母の最期を隠して検問を抜けたことが分かります。そして辿り着いた貧民キャンプの食べ物に飢えた子供たちの描写には驚きを隠せません。食事を用意するジョード家に集まる子供たちを見て、自分たちより貧しい人たちがいることに唖然とする母親。そこから逃げ出し桃の収穫作業にあり付くも、ストを先導するジム・ケーシーの予言通り賃金が半額になる。労働力が過剰になれば地主の言い値の最低賃金になり、日雇い労働と言うより奴隷に近い扱いを受ける。この社会の矛盾を指摘し、人々の生活の未来を思うケーシーがやろうとしていたことを受け継ぐ主人公トムの覚醒の物語でした。端役含め出演する俳優全てが個性的で演技もいいのですが、フォンダとジェーン・ダーウェルに並んで特にケーシー役のジョン・キャラダインが素晴らしい。「駅馬車」で澄ました賭博師を演じた俳優と同じ人とは思えないほどの説教師の役柄は、原作者スタインベックが海洋生物学者で哲学者のエド・リケッツという人物をモデルにしていると言われ、キャラダインの演技にも深みがあります。
アカデミー賞について不思議に思うのは、ノミネートにも選ばれなかった撮影のグレッグ・トーランドの業績です。同じフォード作品「果てなき航路」で候補に挙がっていても、この作品のカメラワークの素晴らしさと、作品の内容に合った陰翳の濃いモノクロ映像の統一感には個人的に絶賛したい気持ちです。前年にワイラーの「嵐が丘」で受賞しているのが影響したのでしょうが、この作品が名作になった大きな要因の一つであることに異議を唱える人はいないと思われます。翌年オーソン・ウェルズの「市民ケーン」で名声を刻む名手トーランドは、惜しくも44歳で早逝されました。また作品賞にヒッチコック監督のアメリカデビュー作「レベッカ」が選ばれたのは、この賛否両論の原作の「怒りの葡萄」とヒトラー批判の「チャップリンの独裁者」を避けた結果であると思われます。これもアカデミー賞の特質を表していると言えるでしょう。
平原の一本道が印象的なルート66の道路にウィル・ロジャース・ハイウェイと表示した看板のカットがあります。ウィル・ロジャースはサイレント期の人気スターで、オクラホマ出身のカウボーイでした。晩年にはフォードの「プリースト判事」「周遊する蒸気船」に主演して1935年飛行機事故により亡くなっています。フォード監督の哀悼の意味も込めたインサートカットと思いました。
タイトルなし(ネタバレ)
ほぼ原作通りですが、映画のエンディングの後、小説では洪水に見舞われる、トムの妹が死産してしまうといった場面が続くのですが、映画では描かれていませんでした。
また、登場する人数が、トムの家族に絞っても11人と多く、小説であればこそ各キャラクターの掘り下げができますが、映画では2時間の枠に収めなければいけない都合上簡略化されており、兄のノアに至っては別れのシーンすらなく、いつの間にかいなくなっています。
簡略化は小説の映像化の宿命といえばそれまでですが、
せめて妹の悲劇について描くことは、貧困の悲惨さを伝えると言う点で必要ではなかったかなと感じました
川の流れのように生きていく強さ
1930年代のアメリカ合衆国オクラホマが舞台。大恐慌、台頭する資本主義、深刻化する砂嵐。それらの影響で、慣れ住んだオクラホマを捨てて希望の地カリフォルニアへ向かうジョード一家の話です。
原作者のジョン・スタインベックはこの作品によりピュリッツァー賞を受賞し、後にノーベル文学書も受賞しています。
この映画の素晴らしい点を3つご紹介します。
1)セリフが素晴らしい
いくつも印象に残るセリフがありました。最も印象に残るのは、映画の最後でのママ・ジョードセリフです。
『女は男より変わり身が上手だ。
男は物事にすぐとらわれる。
人の生死、農場の事、何にでもすぐとらわれる。
逆に女は川のようにながれている。
滝もあれば渦もある。
けど流れが止まったりしない。
それが女なんだ。』
オクラホマを出る時に夢見たカリフォルニアでは、全く異なる現実が待ち受けていました。それを受け止めながらもそれにとらわれずに生き続けていく力強さを感じました。なんとなく「風と共に去りぬ」のスカーレットにも通じる力強さのように感じました。
ところで、川のながれって、鴨長明や秋元康なども取り上げるように、人生や生き方の比喩表現としてよく使われますね。
2)ママ・ジョード役のジョーン・ダーウェルが素晴らしい
ママ・ジョード役でアカデミー賞助演女優賞を受賞したジェーン・ダーウェルの演技が素晴らしいです。はまり役という言葉がピッタリです。
いわゆる「おっかさん」的なお母さん役です。カリフォルニアへ向かう道中の困難を経ても、カリフォルニアが夢見た理想郷と違っても、彼女が大丈夫と言えば大丈夫な気になります。自分の家族だけでなく、お腹が空いている子供たちにご飯を分けてあげる慈悲深さも素晴らしいです。無鉄砲なところもある主人公のトムも、ママのことが大好きなことがひしひしと伝わってきます。日本人でキャスティングするなら草笛光子さんか樹木希林さんあたりでしょうか。
3)音楽が素晴らしい
作中で使用されている、どこかで耳にしたことのある曲は「赤い河の谷間(Red River Valley)」です。原曲は白人青年とインディアンの娘の恋心を歌った曲です。本作中ではインストゥルメンタル曲を効果的に使用しています。曲のタイトルであるRed Riverがオクラホマを流れている河なので、この曲が選ばれたのかもしれません。ノスタルジー感漂うこの曲を耳にすると、ママと別れてひとり旅立っていくトムの姿を思い出さずにはいられません。
家族愛、正義、勇気などを感じたい人におススメの作品です。
ジョン・フォード監督の傑作
初見は、学生時代(1979年7月27日)、新宿アートビレッジで鑑賞。(『市民ケーン』との2本立て)
本日(2022年10月23日)、43年ぶりに鑑賞。
学生時代は「酷な労働環境」を見てツラい気持ちが残っただけに思えていたが、改めて見直すと「人間愛に溢れた傑作」であった。
ある男が歩いている。彼はトム・ジョード(ヘンリー・フォンダ)、トラック運転手に頼んで便乗させてもらう。運転手はトムの素性に探りを入れると、トムは「俺は刑務所にいたんだ。人殺しで…」と実家近くでトラックを降りる。
トムは元牧師だったケーシー(ジョン・キャラダイン)と会い、仮出所だと話す。そして、ケーシーと一緒に実家に辿り着くが、実家はもぬけの殻。家族は先祖代々の土地を捨てて、凶作で土地会社に土地を奪われ、叔父の家に行っていた。そこで、トムは母親(ジェーン・ダーウェル)と再会。トムを含めてジョード一家は「仕事のあるカリフォルニア」を目指して、オクラホマからカリフォルニアへのオンボロトラックでの旅を始める。
希望を抱きながら、カリフォルニアを目指す家族だが、途中でじい様が亡くなり家族で葬り、実際にカリフォルニアで辛い目にあった男から厳しい現実を話されて不安になる家族だが、やはりカリフォルニアを目指してトラックを走らせるのだが……。
記載したいエピソードは多数あるが、書ききれないので、印象的なところだけ…。
旅の途中、カフェでパンを買いたい父親が「10セントでパンが欲しいのだが…」と言うと、彼らの様子を見た店主は「じゃあ、出してやれ」と店員(妻?)に言うのだが、その女性は「15セントよ!」と厳しい。それでも店主が「10セントでいいから渡してやれ」と言ってパンを渡す。子供2人にキャンデーを買ってやりたくなった父親が「これはいくら?」と女性に確認すると「2つで1セント」と言って、父親は買っていくのだが、彼らが出て行った後、実はもっと高かったことを話す客。
愛情あふれる場面で、感動で心震えた。
いろいろとツラい事がトムを含めたジョード一家に降りかかるが、力強く生きていこうとする彼ら、特にトムの母親を演じたジェーン・ダーウェルの「以前だったらダメだったけど、いろんな事の後だから前向きになれるのが女性なのよ」的な言葉が素晴らしい!
本作で、アカデミー助演女優賞を獲るだけある見事な存在。
全編を通じて、アチコチで感動させられるジョン・フォード監督による傑作!
とても面白かった
お母さんがとにかく素晴らしかった。全てのシーンで強い印象を残し、完全に主役として見ていた。ムショ暮らしでヤサグレてる筈のヘンリー・フォンダも何かとお母さんっ子なのがまた面白い。
そのお母さん、セリフも良きものが多かったのだが「男は生き方を転機とか節目に沿って考える。女はそうではなく、川の流れの様にとどまらないものとして捉える」と言うフレーズがやけに腑に落ちた。
ボロトラックでの道行きが「恐怖の報酬」並にスリリングだったのだが、見終わってからグーグルマップでルート66を調べたら、オクラホマからカリフォルニアまで気が遠くなる位の距離で改めて戦慄した。
描かれている問題は現代と地続きで、今こそ見られるべき映画かと。
自由の国アメリカで起きていた農民からの搾取。
ジョン・フォード監督による1939年製作のアメリカ白黒映画。
原題:The Grapes of Wrath、配給:昭映フィルム
ジョンスタインベック原作で、アカデミー賞で監督賞受賞の作品らしいが、自分にはかなり退屈な映画であった。
ただ、一家の中心というか主人公ヘンリー・フォンダの母親役ジェーン・ダーウェルは、環境が変わっても、夫とは異なりしっかりとそれに対応して生き抜いていく女性像を演じて、頼もしかった。
そして、そう昔でもない1930年代、オクラホマ州で砂漠化のため移動しなければいけなかった多くの農民を、低賃金労働で搾取する様な仕組みや移動してきた貧民が過ごす幾つかのキャンプ村がカリフォルニア州に存在した事実には驚愕。
また、有名だけど多分主演の映画を見たことがなかったヘンリー・フォンダ、品行方正のイメージであったが、こんな感じの悪っぽいあんちゃんだったとは。血は争えないというか、逆なんだが、娘・息子と似ているなと思ってしまった。
原作ジョン・スタインベック、脚本ナナリー・ジョンソン。
製作ダリル・F・ザナック、撮影グレッグ・トーランド、美術リチャード・デイ、マーク=リー・カーク、トーマス・リトル、音楽アルフレッド・ニューマン、編集ロバート・シンプソン、技術顧問トム・コリンズ。
出演はヘンリー・フォンダ、ジェーン・ダーウェル、ジョン・キャラダイン、チャーリー・グレイプウィン、ドリス・ボードン、ラッセル・シンプソン、O・Z・ホワイトヘッド、
ジョン・クォーレン、エディ・クィラン、ゼフィー・ティルバリー、フランク・サリーNoahフランク・サリー、フランク・ダリアン、ダリル・ヒックマン。
葡萄は嘲笑?聖なる血?コンコード?
【1930年代のニューディール政策による強制労働地移行を、2011年以降の現代日本に置き換えて考える。何時の世でも、犠牲になるのは第一次産業に従事する民であるが、それでも民は生き続けるのである。】
ー ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」や、幾つかの短編集は5年位に一度、読み返す。主に、政権に変革が起こった際である・・。ー
◆感想
・ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」を、複数回読んでいる者にとっては、正直今作はヤヤ物足りない。
だが、物語はほぼ原作通りに進む。
・牢に繋がれていたトム(ヘンリー・フォード)が、久し振りに故郷を訪れると、誰もいない廃屋が・・。
ー そして、政府の小役人が”政府の指示で”砂嵐が続くオクラホマから、カリフォルニアに移農を強引に進める姿が、フラッシュバックのように描かれる。ー
◇スタインベックが、当時強烈に放ったメッセージ。
”この地で生まれ、農作物をキチンと作り、この地で死んでいく・・。”
・彼らが政府に指示されてオンボロトラックで、移住したカリフォルニアは、真に豊かで、彼らにとって住みやすい土地であったのか・・。
<2011年以降、今作の原作を読むと、自らの意向は無視され、福島県から他県に移住させられた第一次産業に従事していた方々の姿を思い出すようになった。
福島県庁で働く学友二人の言葉や、一昨年まで足を運んでいた福島、宮城の地の状況。
人災(含む、ニューディール政策)により、生まれ故郷を追われた人たちの無念の想いは到底、計り知れない。
自由を重んじる国であれば、その地に住む民の意向をきちんと鑑み、生き続ける選択肢(厳しいのは、福島に行った時のガイガーカウンター値から、分かっている積りである。)を残しつつ、何がベストな選択肢なのかを時間を掛けてでも、模索して欲しい。
先週公開された素晴らしき問題提起映画「護られなかった者たちへ」を観て、今作を鑑賞し、再度思った次第である。>
ジョンケイシー
何度読んでも何度劇になったのを見ても、何度映画で見ても、いつもどこか引っかかる作品である。今回は、ジョン ケイシーが気になった。
この映画はジョンケイシー(ジョン・キャラダイン)が、もう説教師ではないとトム(ヘンリーフォンダ)に言うシーンから会話が始まる。女性との関係を持ったことで仕事は失ったが、人生への捉え方が前向きになったのではないかと思えた。トムの家族に歓迎され、ダストボールを抜け出て、カルフォルニアに向かうが、途中トムの祖父がなくなり、もう説教師ではないが人のためにこの役割を果たす。
カルフォルニアに着いたが広告にあった思ったような労働条件でなく搾取が行われる中、一時保釈のトムの代わりになり牢獄へ。ここでも人のための自分を犠牲にする。ケイシーはイエスキリストの化身のような存在だ。ケイシーは説教師としての宗教を既に捨てたが、宗教観は捨てていない。これは彼の政治観になって現れている。
その後労働争議の中心的人物になり、人々のために殺されてしまう。彼の哲学は労働者、季節移民が一丸となって精神的な助け合いだけでなく、人として住めるような場所や賃金のために闘うことだ。
ケイシーの生きかたやスピリットがトムに乗り移ったようになり、トムもなぜ、どうして不条理なことが起きているのか見極めるため、家族の元を去る。季節労働者が人間としての存在を勝ち取るために。
スタインベックはこの映画で作家として脚光を浴びたらしい。カルフォルニア州のサリナスのスタインベック美術館に立ち寄るのもいいねえ。
葡萄は出てこなかった
「脱獄したのか?!」・・・家族は一様にトムに声をかける(笑)仮釈放だってば!
800人募集というビラに飛びついて、なんだか楽しそうにカリフォルニアに向かう一行。行きたがらない祖父ちゃんは途中で死んでしまった。故郷で死にたかったろうに・・・
どこへ行っても労働者で溢れ追い出されてしまうファミリー。“難民”と陰口を叩かれていたが、なんだか現代にも通じるような内容だ。すると、あの場所は派遣村か?
なんとか5セントの桃摘みの職を得た家族だったが、そこは人が増えると賃金を勝手に減らされるためストライキが発生していた。その首謀者であるケイシーと言い争って勢い余って殺してしまったトム。やがて彼のため家族で逃げることになった。そしてトムは一人で・・・
最後のトムと母親(ダーウェル)の会話にジーンときた。労働争議とまではいかないけど、自然発生的なストライキ。世の悪を糾すなどと、当時としては画期的な体制批判。でも殺人罪を背負ってる男なんだし・・・
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