「職人・スピルバーグ」E.T. 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
職人・スピルバーグ
ショットだとか作家主義だとかヌーヴェルヴァーグだとかいった技法・歴史に着目した映画鑑賞ばかりしていると、自分がどうして映画にハマったのか、その原始体験が何だったのかだんだんあやふやになってくる。でも、やっぱり、一番最初の最初はこういう作品だったと思う。
自分と同じくらいちっぽけな主人公がいて、そこにバカでかかったり現代科学じゃ太刀打ちできなかったりするような異物がやってきて、そいつらと一緒になって(あるいは敵対して)空を駆けたり異世界に飛び込んだり。最後にはホロっとくるような別れがあって、現実の此岸に取り残された主人公と一緒にこっちまでほんの少し成長できたような気になれる。
そういう作品はたいていハリウッドからやってくる。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『ターミネーター』、『ナイト・ミュージアム』・・・思い出しただけでも気持ちが高揚するような、とにかく派手で巨大なアトラクション映画たち。そしてそんなハリウッド遊園地の興行主を務めるのがスティーブン・スピルバーグだ。もはや説明するまでもない。
本作はそんなスピルバーグ映画の中でもとりわけ出来のいい作品だった。全世界の当時の興行収入ランキングを塗り替えに塗り替えまくったのも頷ける。何がいいかってE.Tの造形がかなり気持ち悪いところ。ポケモンみたいにデフォルメされてない。どっちかっていうとエイリアンとかプレデターに近い。なのに可愛い。そこにはスピルバーグの強い自信が現れている。この映画には表層的な差異を貫通する普遍的な物語があるのだ、という。そして彼の目論見通り、本作は文化や国境を越えて全世界で大ヒットした。
それにハリウッド的な外連味を惜しげもなく活用する大胆さにも好感が持てる。オーケストラ調の劇伴、自然さをまったく無視した照明、そして最先端のVFX。どれだけ受け手の心を(安全性が保障される範囲内で)乱高下させるか。スピルバーグのフォーカスは終始その一点だけに定められている。こんなにやっていんだろうか?という倫理的葛藤が一切ない。その徹底性が気持ちいい。終盤の自転車逃走→飛行シーンなんかは物語解決のカタルシスと身体運動のカタルシスが同時に訪れ、恍惚にも似た感動が受け手の全身を震わせる。いや、マジでこれを中学くらいの時に見なくて正解だった。たぶん近所の崖からチャリに跨って無限の彼方を目指しただろうから。
しかしその一方で表現主義的な演出も難なく織り交ぜてしまうあたり、スピルバーグは凡百の大作映画作家とは格が違う。冷蔵庫の酒をかっ食らうE.Tと学校でカエルの解剖授業に臨むエリオットの行動がリンクしているさまがソビエト式のモンタージュで示され、それは最終的に幾百匹ものカエルを一斉に窓の外に放つという表現主義的カタルシスへと結実する。エリオットの同級生の女の子が椅子の上に立ち、その周辺を無数のカエルが取り囲んでいるショットや、自宅でE.Tが見ていたテレビ映画のワンシーンと重なるようにエリオットが女の子の腕を引いて熱い接吻を交わすショットなどは、それ単体でみればヨーロッパのイカしたアート映画のようだ。
映画史に点在するあらゆる道具を借用しながらも、それを自我に引きつけすぎず、あくまで「スピルバーグ映画」という巨大アトラクションの建築にひた臨む彼の姿はもはや熟練の家具職人のようですらある。だからこそ我々の手によく馴染むのだろう。受け手の感動のためであれば「作家性」なるものの放棄すら厭わないスピルバーグの潔さが、私はけっこう好きだ。