アデルの恋の物語のレビュー・感想・評価
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観たかった度◎鑑賞後の満足度◎ 若い頃に思っていた、一生に一度の恋にのめり込んだ挙げ句精神の均衡を壊した悲劇的な女性の話…というようなロマンチックなもの…ではありませんでした…
①やっと観れたという感激が一番大きい(46年越しの夢が叶って感激😭)。
②撮影当時19歳だったとは思えないイザベル・アジャーニの女優としての存在感に先ずは圧倒される。美しいグリーンの瞳が徐々に狂気を帯びてくる処など凄い。
③若い娘が一人の男を恋して恋して挙げ句発狂するという粗筋に、若い頃はどんな悲劇的な恋愛映画だろう、とややロマンチックに思っていた。
けれど、今観るとロマンチックどころではない立派なストーカードラマ。
それも、若い娘が飛行機などない19世紀にフランスから遥々当時新大陸で且つ内戦がおっぱじまっていた北アメリカまで追っかけていくなんて何と壮大なスケールのストーカー。
父親も大物なら娘もスケールがデカイと言うべきか。
④ただ、相手の男のあまりの程度の低さに、ユーゴーの娘ともあろう人が本当にこんな男に身も世もないほどに入れ込んだのであろうとか、父親/母親に嘘の手紙を書いたりしているところとかを考え合わせると、アデルは自分の夢というか幻想というか妄想というか、と現実の区別とがつかない“エロトマニア?”だったのだろう。
そうなるとロマンチックな面はだいぶん差し引かないといけないが、逆に自分ではどうしようもない衝動に突き動かされ行動するアデルの哀れさが胸をつく。回りにはだいぶん迷惑だったろうにしても。
⑤トリュフォーの視点は、そんなアデルの魂の彷徨を同情するでもなく突き放すでもなく寄り添っているように思える。
⑥邦題が『アデルの恋の物語』(日本語としての語感はよろしい)なので恋愛映画のように錯覚するが、原題は『アデル・H(ユーゴー)の物語』なので伝記映画なんだよね。
迷惑な家出娘
イザベルアジャーニ扮するアデルユゴーはカナダの地ハリファックスに降り立った。イギリス軍ピンソン中尉を追って来たのだった。
フランス文豪ヴィクトルユゴーの次女だからか大胆だね。イザベルアジャーニもアデルらしく気品があって可憐な女優さんだ。
ピンソン中尉からしてみても自分を追って来た家出娘は迷惑かもね。気のないピンソン中尉にブチ切れるアデルは良くないな。愛は私の宗教とな。あきらめが悪いのも問題だ。わがままなんだろうね。
狂気の恋?いやはや全ての恋は狂気を孕んでる
正にアデルの恋の物語。
相手の男性は何者でもない、対象物として配置されているだけ。
恋はエゴだ。
相手の全てを知りたい、自分だけのモノにしたい、なかんずく同化したい。
I.アジャニの存在感は演技なんて超越してる。
恋に狂う
1975年公開。「終電車」の6年前。ビクトル・ユーゴと言う歴史的人物の娘であるアデルの狂気のストーカー劇です。
目眩がするくらいに酷い。追うアデルは完全に狂ってます。追われるピンソンも人間的には破綻してる様にしか見えない事もないけれど。
会話だけでページ数とストーリー展開を稼ぐ、日本の大衆小説的な、「描写の放棄」すら感じてしまいます。
ちょっと気持ち悪かったかも。
兎に角、ワタクシには分からない世界観でした。
バルバドス島のシーンが良いです。
狂ってしまったアデルを保護した女性(黒人)が、父ビクトルへ宛てて娘の窮状を知らせる手紙を出します。
女性は、自分は字が書けないので代筆屋に頼んで書いてもらうのだけど、この手紙が秀逸です。泣けます。
このシーンだけでも見る価値ある映画‼️
ユゴーは国葬されたそうですが、この手紙の通りなら国葬に相応しいでしょう。
考えてみれば、政治家も悪くない仕事なんだけどね…
実物が悪すぎるだけで。
ガーンジー島
イザベル・アジャーニに会いに有楽町角川シネマに行ってきました。
フランスの名匠フランソワ・トリュフォー作品の同時上映月間。
1975年の作品。
ヴィクトル・ユーゴー Victor HUGO の次女アデル・ユーゴーの実話とは。
ガーンジー島。
リリー・ジェームス主演の「ガーンジー島の読書会の秘密」で、出戻りの有名人の娘さんの噂話がちょっとだけあったような気がしたんだけど、アデル・ユーゴーのことだったんでしょうね(確証はありません)。
後半のフレームの小さいメガネのイザベル・アジャーニが中嶋朋子っぽくて、つい、蛍のお父さん(田中邦衛)になったつもりで応援していました。
イザベル・アジャーニの色っぽさはポゼッションの方が衝撃度は上でしたが、とにかく清楚な美しさに愛らしさ。ポゼッションのズラウスキー監督はこの作品を見て、イザベル・アジャーニの起用を思い付いたとしか思えません。
催眠術師の楽屋に押し掛ける場面は唯一のお笑い要素あり。
バルバドス島などイギリス領の植民地の勉強にもなりました。
19歳のイザベル・アジャーニの衝撃! トリュフォーが女性視点から描いたストーカー哀話。
僕がこの映画を初めて知ったのは、中・高校生のころに関西テレビの深夜にやっていた「CINEMAだいすき!」という特集上映枠だった。やたらマニアックなセレクトで、女優特集やホラー特集、自主映画特集なんかを敢行し、あの時代の夜更かし若年層を映画の世界に引きずり込んだ伝説の番組である。覚えてられる方も、きっといらっしゃることでしょう。
そのときの特集回のタイトルは、「異常心理学入門」。
前説でかかるテーマ曲は、忘れもしないクラウス・ノミ(ゲームブック『ドラゴン・ファンタジー』に出てくる「詩的魔神」の挿絵の元ネタ)の「Wasting My Time」だった。
他のラインナップを見ると『サイコ』『コレクター』『将軍たちの夜』『まぼろしの市街戦』『ネットワーク』『ファントム・オブ・パラダイス』『ユー・アー・ノット・アイ』といったものすごいもので、いま振り返っても天才的なセレクトだったと思う。
僕はこの特集回を通しで観ることで、本格的にサイコ・サスペンスの面白さと多様性、その豊穣な沃野に目覚めたのだった。
というわけで、これまで僕のなかでは、『アデルの恋の物語』は、トリュフォーの映画としてでも、恋愛映画としてでもなく、バリバリの「サイコ映画」として分類されていた。
今回改めて観て、思ったよりちゃんとまっとうに文芸映画してたんだな、と驚いたくらい(笑)。
話としては、古典的な「安珍清姫」のフォーマットをとる、女性ストーカー映画の「はしり」といっていいものだ。
ただ、通例『危険な情事』にしても、『恐怖のメロディ』にしても、男性目線でエスカレートしてゆく女性の要求とつきまといの恐怖を描き出すのが主眼なわけだが、本作の焦点はただひとり、ヒロインのアデルだけに絞られる。トリュフォーは、あくまで「女性側の視点」に立って、ストーキングのエスカレーションを描いてゆくのだ。
彼女のひたすらに一途で狂おしい愛は、病的で傍迷惑きわまりないけれど、あまりに純でぶれないがゆえに、つい観客としても感情移入してしまう部分がある。
それは、監督であるトリュフォー自身が、アデルのことを「ただの頭のおかしい女」とは見ず、全幅の共感と慈しみをもって描いているからに他ならない。
もうひとつ特徴的な点として、本作は必ずしも一般的なストーカーものにありがちなエンディング――男が滅びるか女が滅びるか――をとらない。
それはなぜかといえば、本作が「実話」をベースとした物語だからだ。
要するに、トリュフォーは「ストーカー女が出てくるコスチューム・プレイを作ろうとした」のではない。「刊行されたヴィクトル・ユーゴーの知られざる娘の日記を読んで、その驚くほど数奇で薄幸で報われない愛に捧げた人生に共感をいだいたから、実写化に動いた」のだ。その点では、『野性の少年』を撮ったときと似たモチベーションで挑んだ映画だといえる。
実話ベースだから、この映画は「実際にアデルに起きたこと」しか描かない。
だから、アデルの想い人はアデルに殺されたりしないし、アデルのほうが逆襲されて殺されることもない。「過去に溺死した姉を殺したのは実はアデルだった」といった、いかにもサスペンスらしい真相も出てこない。彼女はたしかに極め付きにエキセントリックな女性であるが、映画のジャンルが要請するほどの狂気や異常性を発揮しない。人を壊すかわりに、自分を壊してしまう優しさがある。
結果として、アデルは残された長い人生を、とある場所で、とある状態で過ごすことになる。
逆にいえば、この映画内で起きたことは、全て「アデルの身に実際に起きたこと」だ。
実在したのだ。このアデル・ユーゴーという女性は。
本当に、こんな数奇な人生を送った人がいたなんて。
しかも、それがあの『レ・ミゼラブル』の著者の娘さんだったなんて。
まさに事実は小説より奇なり、である。
本作がぎりぎりのところで、品のないストーカー・サスペンスに堕することなく、ある種の恋愛映画としての情感と、文芸映画としての画格を保てているのは、この「徹底的に事実だけに寄り添おうとした」製作姿勢と、「トリュフォー自身のアデルに対する全幅の共感」によるところが大きいだろう。
それとやはり、まだ当時19歳で、映画出演2本目だったイザベル・アジャーニの魅力と美しさ。なんといってもこれに尽きるのではないか。
まあ、凄い演技力だよね。本当にびっくりする。トリュフォーもびっくりしただろう。
彼女の力で、観客は否応なくアデルの応援団サイドに引っ張り込まれる。
本当に、こんなに可愛くて気品のある女性が、単身海を越えてまで自分の妄念を遂げたいというのなら、多少頭がおかしくても周囲だって応援したくなるってもんだよね(笑)。
実際、下宿の女将もその亭主も、銀行兼郵便局の窓口係も、書店員も、バルバドス島の女性も、みんなアデルに優しいし、愛に食いつぶされてゆく彼女をなじったり攻撃したりすることなく、やさしく親身になって支えようとする。
でも、アデルはひとりだ。
どこまでも、ひとりぼっちで、本当の意味では、決して誰にも心を開かない。
彼女が求めるのは、ただピンソン中尉だけだが、
その愛もまた一方通行で、ほぼ彼女のなかだけで完結している。
埋められない「あるべき自分」と「報われない世界」のズレ。
そこを糊塗するために、彼女は男を追いつづけ、噓をつきつづける。
その絶対的な孤独のなかで、彼女がすがるのが、「書くこと」だ。
彼女は書店でひたすら紙を買い、ひたすら日記を書きつづける。
口に出しながら、書いて、書いて、書いて、書いて……。
現代でも、こういう文系女子はいるよね。
なんとか書くことで正気を保っているというか、文章に軽く狂気を発散することで、ぎりぎり根本から壊れるのを回避しているというか、そういう人。
まして、アデルは、ビクトル・ユーゴーの娘だ。
文才は有り余るほど、あっただろう。
そんな彼女が理性と自我を削り取りながら書き残した日記が、やがてトリュフォーの目にとまって、伝記映画が作られる。これもまた、不思議な運命の巡り合わせだ。
トリュフォーのアデルへの共感の想いは、ロケ地の選択からもうかがえる。
アデルは、父親のいるガーンディー島を出て、カナダのハリファックス島まで中尉を追ってくる。彼女は、そのまま中尉の赴任先のバルバドス島まで彼を追いかけていくことになるから、結局まともな状態のままでガーンディー島に戻ることはなかった。
トリュフォーは、そのハリファックス島のロケ地として、なんとガーンディー島を選んでいる。
きっと彼は、アデルにガーンディー島の土を踏ませてあげたかったのだ。
せめて、ロケ地という形だけでも、彼女とガーンディー島とのつながりを作ってあげたかったのだ。
トリュフォーは、本作で古典主義に回帰したと言われる。
実際、本作において、実験性や即興性はほとんど感じられず、きわめてオーソドックスな絵作りと編集に終始している。そのぶん、イザベル・アジャーニの熱演に集中できるといえばそうなのだが、作家主義的な見方でいうと、少しクセが薄すぎて若干物足りない気もしないでもない。
ただ、作品内の「光」と、アベルの心の「闇」を反比例的に扱ってみせたのは面白かった。
すなわちこの映画においては、前半は夜のシーン、室内のシーンが多く、闇のなかでロウソクの薄明かりをあててアデルの顔を浮かび上がらせるような撮り方に専ら終始している。それが話を追うごとに作品内の光量が増していって、最後はバルバドス島(ロケ地はアフリカのセネガル)の灼熱の陽光のなかで幕を閉じるわけだ。一方、闇のなかで息をひそめて棲息していたころのアデルは「まだまともだった」。それが、陽の下に引きずり出され、眼鏡をかけて歩き回るようになると、彼女の心はいよいよ壊れてゆき、バルバドスの地で遂に●●するに至る。
黄昏と闇のなかでしか生きられない弱い夜行動物が、陽光に晒されてむしばまれていくかのような。そんな感じがした。
そういえば、インチキ催眠術師役って、このあいだ亡くなったヴァイオリニストのイヴリー・ギトリスだったのね! あまりにふつうに演技してたので、まったくきづきませんでした(笑)。
偏執的な恋の情動に燃え尽きたアデルの悲しく痛々しい物語
文豪ヴィクトル・ユーゴーの娘アデルの物語。その偉大な父の庇護の下で、偏執的な恋の情動に身も心も燃え尽きさせ送った特異な生涯を、トリュフォー監督が正面から受け止め追求した文芸映画。父親譲りの文才を持って現実から逃避した自分の空想の世界に生きたアデルの愛の燃焼は、日記や手紙の中で増幅され自己完結する。それは他者を巻き込み誘導する異常な状態まで突き進む。
愛する英国騎兵中尉アルバート・ピンソンを追いかけ、独り新大陸カナダのハリファックスに渡来し、完全無視されても彼のこころを自分のものにしたいアデルは、常人の想像を超えた行動をする。手紙で“ピンソン中尉と婚約しました”と父に伝えて、結婚承諾書を届けてもらい、それをピンソンに見せる。父ユーゴーは、かつてアデルと交際していたピンソンに対して好感を持っていなかった。それで結婚承諾書さえあれば、ピンソンの気が変わると思ったようだ。ところが、ピンソンは愛しているなら私に近づかないでくれと、アデルを突き放す。すると今度は、ユーゴーに結婚したと嘘を付き、そのことが新聞に報道されたことで、ピンソンは上官から叱責を受けてしまう。遂には催眠術師(実は偽物)を使って、ピンソンが自分に振り向くように仕向ける。この一途さ故の直情さには、唖然としながらも圧倒されてしまう。ここまで一方通行の恋愛映画は観たことないし、そもそも恋愛が成立していない一人芝居に過ぎないのに。しかし、ある令嬢と結婚したピンソンを取り戻すためその令嬢の父親に面会して、私は彼の子を宿して棄てられたとひと芝居打つまでになると、これはもう病気なのだと理解するしかない。海岸で出会ったピンソンに黙ったままお金を差し出すアデルのショットが、何とも痛々しく惨めである。
結局、ピンソンの所属する部隊がカリブ海バルバドス島へ移り、アデルもまたその後を追うが、そこでは誰が見ても精神を病んだ女性にしか見えない。おそらくアデルの気質には熱帯の土地は熱く、冷静さを取り戻すことは無かったのだろう。ピンソンに呼び止められたアデルは、無表情に何も語らず、ただ夢遊病者の様に通り過ぎていく。
トリュフォー監督は、この物語のエピローグにヴィクトル・ユーゴーの国葬シーンを入れた。アデルとの手紙のやり取りでは、父ユーゴーの手のアップはあるが顔は画面に出さない。誰もが知るあの「レ・ミゼラブル」の大作家を見せないこの演出は、アデルだけに集約した本編の語りをより印象付けることになる。それを証明するように、アデルを演じたイザベル・アジャーニが素晴らしい。フランス映画の女優としての存在感では、ジャンヌ・モローを受け継ぐ実力と魅力があると思った。この映画にあるのは、最後はトリュフォー監督のフランス文学者ユーゴーへの敬愛であり、女優イザベル・アジャーニ賛美である。彼女以外では、恋に燃え尽きたアデルの情念は演じ切れなかっただろうし、説得力も生まれなかっただろう。フランス映画でしか表現できない世界観を見せてくれたトリュフォー監督の傑作。
1977年 2月15日 池袋文芸坐
男性作家の文学の才能は、男の子より女の子に受け継がれると、遺伝の話で聞いたことがある。確かに、バッハやモーツァルト、ヨハン・シュトラウスでは男の子が音楽家になっているし、絵の巧さも親譲りを見聞きするが、有名な男性作家の子孫で名を成す男の人は、日本に限らずあまり聞いたことが無い。日本では、女性の作家や文筆家の父親が有名作家であることが多い様に感じる。この映画のアデルを視ると、ユーゴーの文学的才能を受け継いで溺愛されたのではないか、と勝手に想像してしまう。原作は、アデルの日記からヒントを得ているようだ。彼女の文才の想像力と表現力は優れていたが、それが人生を実のあるものにはしてくれなかった。そんなことまで考えさせる、愛と才能と人生について参考になる映画だった。
とにかく切ない恋愛映画
実話だということだが、現在ならストーカー行為として捕まり、即刻刑務所か病院送りである。 男だったら、相当に危ない暴力的なストーカーになるはずだ。 それが、ここまで上質の恋愛物語に仕上がったのは、トリュフォー監督のアデルユゴーという人物に対する思いの強さがあったからではないだろうか。
まず、 アデルを取り巻く登場人物たちが皆温かい。 彼女を心配しながら見守る人々と同じように、観客もまた、最後までアデルに寄り添いたくなる。 アデルの行動が極端になればなるほど、人としての同情心が否応なしに湧き上がってくるのだ。
個が確立された欧米人の創る恋愛映画には、日本の恋愛映画では決して表現され得ない強烈な切なさが出る。 ひとり精神を病んでいくアデルの物語には、特にその切なさが強く出ているように思う。
そしてなにより、当時19歳のイザベルアジャーニの恐ろしいほどの美貌! これが、時には醜いほどに憐れな行動をも魅力的に見せる。 アジャーニの美しさと可憐さもまた、物語の切なさに拍車をかけていることは間違いない。
女の業の悲しさを人々の優しさで包み込むように描いた時、自然と生きることの切なさが物語の中に染みだしてきたのではないだろうか。 トリュフォー監督作品の中でも、特に好きな一本だ。
失恋の傷が深い人こそ観るべき
辛い物語だ
アデル役のイザベル・アジャーニの鬼気迫る演技が胸を打つ
美術、セット、衣装、撮影、編集どれも申し分のない素晴らしい出来で流石と言う他無い
映画の中に引き込んでしまう監督の力量はものすごいものがあるとはっきり感じる
しかし救いの無い映画だ
ただただ虚しい想いだけが駆け巡る
純粋な愛とはエゴイズムと紙一重なのか
失恋の深い傷を持った人なら、本作はより痛みと虚無的な味わいを感じ取れるだろう
にんげんの執念、または情熱についての一考察
男性が見たら、きっと恐ろしいだろう。
古来、女の男への妄執は芸術になってきた。
日本なら、源氏物語から、、
純粋すぎる情念は、やがて狂気になる。
見るものは、アデルに共感しつつ、また疑問をもちつつ、人間のもつ愛の悲しさに心打たれる。
最後に南の国の砂嵐のなか、ぼろぼろの衣類をまとうアデルが歩いて行く。
もはや、ピンソンにすら気づかずに、、
いつまでも印象に残る映画だ。
女の狂気の物語
女の狂気の物語。なのに哀しく、ずっと心にゆらめき続ける余韻です。
アデルは19世紀の仏の文豪ヴィクトル・ユゴーの次女。初恋の男性へ狂おしい情熱を燃やしつづけます。
今で言う"ストーカー"ですが、海外まで追いかけ、高名な父の名も使い迫ってくる。強烈です。
徐々に心を蝕まれていく様子が、淡々と描かれて怖かったです。
アデルを演じるイザベル・アジャーニが、とにかく美しく凄まじく、素晴らしいです。
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