「安易に高評価してはいけない危うい作品」愛の嵐 スクラさんの映画レビュー(感想・評価)
安易に高評価してはいけない危うい作品
1974年にイタリアで制作された映画。
倒錯した愛に溺れる男女が描かれていて、題材を無視すればストーリーは良い。ただ、取り上げられた題材、制作国を考慮すると素直にこの作品を人にオススメできないし、話題に出すのは危険な作品。
間違いなく今の世の中では制作できないし、仮に公開されたとしても非難の嵐になってしまうだろう。ホロコーストを扱い、ナチス側の人間とユダヤ人の恋愛をイタリア人が描いているからだ。
しかも、舞台はオーストリア、主人公の名前もドイツ的なので、加害者国の監督が自国は題材にしないでナチス側の人間ととユダヤ人との恋愛を描いたことになる。ついでに言うと男性側が女性に対して非人道的暴力をふるっている中で女性は愛に目覚めているので、まず今の世の中には受け入れられないだろう。
通常は愛情が芽生えない状況下での恋愛物語に観客は惹かれるのだろうか。公開当時はどんな声が上がったのか。観ながらそんなことばかりを考えていた。
日本だと軽く取り上げられ、そしてたまにそれが問題になる「ナチズム」や「ヒトラー」。ドイツ研究をしている人によると、『帰ってきたヒトラー』や『ジョジョ・ラビット』などが公開されるようになったのは、時代の転機だそうだ。一昔前ならありえない、アンタッチャブルな領域。それがナチスだった。(それ故に最近はその動向を研究している人がいて、2019年には『ナチス映画論』が刊行されている。)
1975年に国内の雑誌の特集でこの映画がベストテンに選ばれたことも驚きの一つ。
ロミジュリぐらいの架空のお話だったら(かつ暴力シーンが無ければ)、
好きになれた映画だったけど、ここまで現実を扱ってしまうと好きにはなれなかった。ただ、考えさせられるという意味では一度観て良かったと感じている。
完全に同意です。
ネットではこれだけの問題作に対して「禁断の愛」で終わらせてしまう感想が多く見られるなか、唯一この作品の問題点を明確に捉えたご意見、全文に納得がありました。
仰る通りこれが特定の国の名前を出さずナチスを連想させつつもナチスではない、といったエクスキューズがあれば支配者と被支配者のエロティシズムもファンタジーとして成立すると考えますが、この作品は思いっきり
「ナチス」
「強制収容所」
しかも監督がイタリア人、というのであちゃー……となりました。
戦争の加害国の人間による被害国の人間に対する暴力、
成人から児童に対する虐待、
男性から女性に対する性暴力、
これらの問題を扱う時に被害者側が加害者側を受容しているように描く事は現実的な弊害が多大に発生します。
被害者による加害の受容を描くとすれば、
虐待や性暴力の被害者の心理の研究が進んだ現在では
「被害者が加害者に迎合的な態度をとることは生き残るためにままあるが、それは合意とは到底いえない」
「トラウマの再演」
といった視点がどうしても必要になると考えます。
昔の映画とはいえ
そうした視点も無く加害行為をエンターテイメント化し
「禁断の『愛』」
(加害者と被害者は合意)」
として描くことは、
いったい誰にとって「得」になるかと考えると……
本人にその意識が表面的にはなかったとしても、この監督がイタリア人つまり枢軸側の人間であることが利いてきます。
(また無邪気に『禁断の愛』とエロティシズムを消費している日本の映画ファンのことも思い起こされます)
ユダヤ人差別も女性や児童に対する虐待も全く根絶できていない、リアリティーのあるこの世界で
「ユダヤ人の少女がナチス男のペットにされて禁断の愛」
という内容を扇情的に描くのは問題がありすぎます。
発表当時もシカゴ・サンタイムズの批評家は映画の主題(倒錯や異常心理など)自体に異を唱えるものではないとしつつも
「潤滑であると同時に不快であり、迫害と苦しみの記憶を利用して私たちを興奮させようとする卑劣な試みである」
と書いていますが、真っ当な意見で、批判なく賞賛すべき内容ではありません。
自分も以前はキャンセルカルチャーやポリティカル・コレクトネスに反対の立場でしたが「芸術無罪」の時代が終焉を迎えつつあるのもむべなるかな、という一作でした。
突然すいません
おそらく戦中戦後を知ってる人たちが作り、評価していたのだと思います。
それがおかしいかどうかは難しい所です。
キャンセルカルチャー全盛ですが今の業界人の唱えるポリコレはあくまでも今の価値観。
私たちの知らない”雰囲気”を映画は教えてくれます。