劇場公開日 2003年1月18日

「新選組の隠れた剣客をラスト・サムライとして描いた感動巨編…の映画化」壬生義士伝 kazzさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0新選組の隠れた剣客をラスト・サムライとして描いた感動巨編…の映画化

2025年4月10日
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鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

本作を〝泣ける映画〟の一つに上げる人も少なくないが、浅田次郎の原作こそが涙なくしては読めない小説なのだ。
1998〜2000年にかけて週刊文春に連載されたこの長編は、浅田次郎にとってはじめての時代小説だという。
この小説をどうまとめるかという脚色の工夫が見せどころだが、中井貴一と佐藤浩市に〝おんぶに抱っこ〟感は否めない。

史実が背景にある物語で、しかも新選組が舞台となると、誰もが知っているキャラクターが大勢いる。その中でそれほど有名ではない吉村貫一郎を主人公にしているから、有名人を出さないわけにはいかない。2時間程度の一編に彼らを散りばめつつ、激動の時代を見せなければならないのだから大変だ。
その結果、やや散漫かつ説明不足になってしまったようで残念だ。

この映画に先んじて、テレビ東京がテレビドラマ化していて、渡辺謙・渡辺大の親子に一人の主人公を演じさせて話題になった。このドラマは新春恒例のワイド時代劇(放送枠10時間=正味8時間半ほど)の長尺だったにも拘らず、新選組において武士の義を貫く吉村貫一郎の立ち位置に的を絞ったうえで、関わる新選組隊士たちも整理されていてアレンジが上手かった。
これが先にあるので、アプローチを変えなければならない制約があったとは思う。
さらに、当初監督の予定だった相米慎二が急逝したという不測の事態もあった。
(脚本が中島丈博だから、監督が相米慎二だったら『あ、春』のコンビ)

明治の末期に偶然出会った斎藤一(佐藤浩市)と大野千秋(村田雄浩)が語り手となって、斎藤一から見た吉村貫一郎(中井貴一)と、斎藤一が知らない吉村貫一郎を見せていくアイディアは良い工夫だったと思う。
しかし、残念ながら斎藤一が吉村貫一郎のどこに本当の侍を見たのか、吉村貫一郎が何をモットーとして生きてきたのか、この物語の根幹の部分に迫れていないと感じた。

映画は吉村貫一郎切腹直前のモノローグが感動の頂点で、中井貴一が一人芝居で映画を締めているのはサスガだ。
ところが、最後の最後に老人斎藤一が盛岡弁を口にしながら去っていくのが、なんとも陳腐な印象を残してしまった。

谷三十郎(神田山陽)・近藤周平(加瀬亮)兄弟の挿話は、斎藤一の闇討ちを吉村貫一郎か見抜くエピソードとして必要だったかもしれないが、中途半端に尺を食っているから、もっと大胆な削り方をしても良かったのではないだろうか。
逆に、斎藤一の情婦ぬい(中谷美紀)を絡めて吉村貫一郎と斎藤一の関係を描いたのは悪くなかった。ただ、斎藤一の人物を描くほど吉村貫一郎の人物が描ききれていないので、どこに尺を割くかは微妙なところ。映画の色付けとして中谷美紀のパートは貴重ではあった。

それにしても…
沖田総司に美剣士のイメージを定着させたのは司馬遼太郎だろうか。早逝しているからか、美“少年”的なイメージも定着している。
本作では堺雅人が沖田総司を演じているが、浅田次郎の小説では斎藤一は沖田の2歳年下の設定であり、歴史の資料から見ても沖田の方が年上か、せいぜい同い年なのだ。
堺雅人だと、佐藤浩市より10歳以上若いことになる。
もっとも、沖田も斎藤も壬生狼時代はまだ20代だったのだけれど…。

kazz
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