「取扱い要注意オヤジ、狂気の暴走」ゆきゆきて、神軍 garuさんの映画レビュー(感想・評価)
取扱い要注意オヤジ、狂気の暴走
戦争の狂気を映し出しているドキュメンタリー映画だが、 最近もう一度観て、「戦争の」の部分は「人間の」に変えた方が適当ではないかと思った。
奥崎謙三氏の一連の行動の動機となったのは、かつて所属した連隊の上官が、終戦後にも関わらず、敵前逃亡の罪で兵隊二人を処刑した事実を知ったことだった。 同氏は、遺族と共に、その事件の関係者の元へ赴いて徹底的に責任を追及するのだが、 最後はピストルを使った殺人未遂まで引き起こしてしまう
その理由を少しでも斟酌すれば、義憤に駆られた仲間思いの男が起こした衝動的な行動という見方になる。 戦争が生み出した悲しい事件という捉え方もできる。 が、どちらもちょっとどうかと思い直した。 同氏の一連の行動は、この作品を通して見る限り、一人の男が恥ずかしげもなく露出した、「無分別な狂気」にしか見えないのだ。
人間の生命力が狂気的なエネルギーと化し、大義を掲げ、倫理を突き破って戦争を引き起こす。 その戦争がさらに人間の狂気を煽り、焚きつける。 そして奥崎氏は、人間の起こした狂気を罰するという大義を盾にして、自分の狂気を開放した。
狂気の正体は、生命エネルギーの無分別な放出だと思う。 エネルギーの放出が下手クソな人は、 偏屈、へそ曲がり、変わり者と呼ばれ、どこにでも身近にいる。 自分だって多少はそうかもしれない。 それが害のない芸術表現なら問題ないが、暴力で放出というのは質が悪い。
注意しなければならないのは、そういう人がエネルギーを放出するために、正義という大義を手に入れた時だ。 その瞬間、その人はエネルギーを留めるストッパーを躊躇なく外してしまい、一気に暴力衝動をも開放してしまう。 自分が正義だと信じて疑わずに爆走を始めた人間は、もはや誰も手が付けられない。
正義という大義は、薬物の甘い誘惑のようなものだ。 うっかり手を出すと、分別のある人間でも、抑え込んでいたはずのエネルギーを開放し、止めどもなく垂れ流し続けることになりかねない。
悪を成敗するため、誰かを助けるため、自分の身を守るため…。
誰かの妙に積極的な行動に尤もらしい大義が掲げられていたら、眉唾で見るべきだ。
特に慎重に監視すべきなのは、それが為政者の場合だろう。 戦争を始めようとする為政者は、狡猾だ。 彼らが、どんな大義を掲げて民衆を煽ろうとしても、安易にその誘惑に乗ってはならない。
自分の中のエネルギーは、自分で意識して抑え、自分で考え、自分で整え、社会に寄与する形で、必要な分だけその都度、恥じらいながら放出すべし。
ちょっと教条臭い感想文になってしまったが、この作品を観て、そういう事も考えた。
人間が内に秘める生命エネルギーは、奥崎氏を見てわかるように、ガソリンと同じだ。 くれぐれも、取り扱い要注意なのである。