山の音のレビュー・感想・評価
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原作の根底にある戦争文学の要素を抜き去った中途半端な映画化
1 戦争文学としての「山の音」
川端康成の原作小説は昭和24年から29年に書かれ、29年に映画化された。第二次大戦終了から10年も経ない、戦火の記憶が生々しく、そして敗戦後の連合国軍による言論統制等で社会、時代思潮が大きく変貌していく時期に当たる。
主人公の信吾は62歳、息子の修一は若い嫁を迎えたが、すぐに浮気して女をつくったり、会社事務員の女性とダンスホールなどで遊びふけっている。嫁はまもなく妊娠するが、亭主に女がいる間は産みたくないと中絶してしまう。他方、女のほうも妊娠するが、彼女は別れてもいいから産むと固く決心している。
この事態に修一は、浮気相手の元から嫁の堕胎費用を持ち出したり、別れた後に女が子供を産もうがどうしようがどうでもいいという態度である。
信吾は彼らを非難し、女には堕胎するよう説得に行き、修一にはその良心を責める。これに対する2人の答えは、次のようだった。
女「自分たちは夫が戦争に行っても辛抱していた。死なれた後の私たちはどうなのか。戦争未亡人が私生児を産む決心をしたのだ。生まれた子供は、修一が戦争で南方へ行って、混血児でも残してきたと思ってくれればいい」
修一「浮気相手から落とし子が生まれてくるかもしれない。それと知らずに別れるかもしれないが、それくらい耳のそばを通る鉄砲玉にくらべたら何でもない」「自分の嫁だって、兵隊でも囚人でもなく自由だ」
これに対して老年の信吾は有効な反論ができないどころか、むしろ家長として息子の嫁や女の問題を解決しようとあくせくしてきた自分を反省。むしろ嫁に向かって「修一の発言は、わたしもお前をもっと自由にしてやれという意味だろう」と語り、息子夫婦と別居の決意を固めるのである。
また、修一の姉房子は子供2人を連れて実家に出戻ってきていたが、亭主は麻薬常習者であり、離婚届を送り付けてきたと思うや、そのまま別の女と心中してしまう。彼女も最後は信吾の元を離れて、店を持つつもりでいる。
要は、戦火の記憶も生々しい時代、戦争体験の影響や戦後思潮の変動で、旧来の家族が解体されていく物語が原作なのである。それを友人、知人たちの死とともに訪れる自己の死の予感や、嫁に対する淡い性的な願望などの中で、主人公は受容していく。
「川端作品は性的であっても性欲的ではない」と評したのは吉本隆明だが、本作もその典型で、信吾は嫁に性的に惹かれはしても決して性欲的にはならず、いわば生の残り火のようなものである。
総じていえば、原作小説は大衆社会が戦後をゆっくりと受容していくさまを描いた作品だといえる。
2 映画化作品について
1の映画化である本作は、その小説の柱となっている戦争の傷跡や時代思潮をすべて捨象してしまい、例えば小津安二郎作品のように普遍的な家族の物語ででもあるかのように描いてしまった。
修一とその浮気相手の背景にある荒んだ精神状況や、房子の亭主の麻薬中毒といった悲惨な時代背景が何一つ描かれていないどころか、房子の亭主は元気でぴんぴんしていることになっている。
するとその後に残るのは浮気性の息子とそれに傷ついた若嫁の中絶、それを悔やんだ息子の浮気相手との別れ、信吾夫婦、修一夫婦、そして房子夫婦のそれぞれの家族再出発――という、どれも中途半端で脈絡のない話である。そこには特に深い感慨も、再出発の希望も感じられないではないか。
原作小説を読まずに本作を見た人は、なんと出来の悪い小津作品のコピーかと断ずるだろう。その感想が正しいのだと思う。
川端文学の映像随筆にみる成瀬監督の演出美、そこにある日本人の美と醜さ
川端文学の映画化である。増村保造監督作の「千羽鶴」で感じた日本人の性の陰鬱な雰囲気が、それ以上の生きる苦しみとなって、日本人の性が悲惨な姿として浮かび上がってくる。“山の音”とは、そんな人間の心の奥底に潜む“こんなはずではなかった”という、囁きと呟きなのではないか。テネシー・ウィリアムズがアメリカ人の滲み出るセックスエネルギーを大胆に暴露した、またはイングマル・ベルイマンが北欧の突き詰めた性の破綻を描いた其々の様に、この映画で観られる川端文学の作意は、日本人的な奥ゆかしさに潜む性意識を主題として、それが成瀬監督の人間凝視に繋がる。そこには、全ての登場人物の生の存在価値を認める広い人間愛で描かれた美しさがある。しかし、それはまた、同時にグロテスクな淫靡さも感じさせる。
登場人物は古都鎌倉に住む上流階級の家柄にあり、親子二代で東京の会社に勤めている。外観では戦後復興の貧しさから遠く、この上もなく平和で静寂な日常を過ごしている。しかし、その息子は上品で美しい女性を娶りながら、夜の生活に不満を抱え東京に愛人を作り、毎日のように午前帰りをしている。と言って、それを問い詰めたり非難したりする妻ではない。両親も息子の浮気を承知していながら、咎めることも無い。そんな虚飾にある家庭の中に、娘が子供二人を連れて戻って来る。その理由が夫の浮気問題である。勝気で色気のないこの娘は、その身の上を親の所為にして兄嫁の美しさに嫉妬する。この娘の相手構わず投げやりな発言が、物語全体への挑戦であり、唯一の喜劇的要素になっている。
物語は劇的な展開もなく、父親の人生の悟りを窺わせる程に物静かに落ち着いた筆致で描き通している。映画文学に徹した成瀬監督の演出が美しく見事であった。しかし、原節子演じる妻の自我の良心を少しも崩さず、ただ苦しみを受け入れる女性像の在り方に共感は難しく、夫の自由気ままな快楽主義を許せない観方も残る。これは、映画の魅力を突き詰めたというより、川端文学の主題に添った映像随筆と言えるだろう。その長短の評価は、人によって大分別れるのではないだろうか。
1979年 9月17日 フィルムセンター
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