「父親と息子の嫁との異性としての想いが、今一つ明確に感じられず…」山の音 KENZO一級建築士事務所さんの映画レビュー(感想・評価)
父親と息子の嫁との異性としての想いが、今一つ明確に感じられず…
成瀬巳喜男映画を少しまとめて観てみようと
思い立ち、「めし」に続いて再鑑賞した。
初老の男性の息子の嫁への想いを
描いていたとの観点以外は、
内容をすっかり全く忘れてしまっていたが、
「めし」と同じ上原と原節子が夫婦役で、
しかも夫の想いが妻以外に向いているという
同じ構図には驚かされる。
私がこの作品で一番気になったのは、
性悪的な血筋の系図として
“母→長男と長女→孫娘”
の設定が強く感じられる違和感と、
長男の浮気相手の描写が
丁寧過ぎる点だった。
また、解説にあるような、
父親と息子の嫁との異性としての想いが
ラストシーンにこそ
感じ取れないこともなかったものの、
全般的には父性愛と思慕愛的にしか
感じられず、川端康成の原作は
もっと色濃く描写されていたのだろうか。
そして、離婚して信頼する夫の父との別れを
示唆するエンディングには、
なかなか希望を見出せない戸惑いも。
それにしても、
この時代の原節子の活躍は想像を絶する。
日本の4大映画監督と言われる、
黒澤・小津・溝口・成瀬全監督の作品に
次々と主演していたことには
改めて驚かされるばかりだ。
「共感」をいただきありがとうございます。
お返しにご疑問のいくつかの点について、原作小説の書きぶりをご紹介しておきます。
>性悪的な血筋の系図として
>“母→長男と長女→孫娘”
>の設定が強く感じられる違和感
性悪というか、主人公(信吾)は少年の頃、妻保子の姉に憧れていたんですね。「同じ腹と信じられぬほど姉は美人だった」のですが、姉は他家に嫁ぎ死んでしまう。保子と結婚して「30幾年後の今、信吾は自分たちの結婚がまちがっていたとは思っていない」ので、美人ではないものの悪妻ではありません。
しかし、長女については「房子は不器量だが、体はよかった」、その娘里子は「母親が困ったり弱ったりの時に、なお変にむづかる子供」と、かなりの書き方です。
そんな信吾の態度を保子は、さりげなく「昔から房子をきらって、修一(長男)ばかり可愛がってらしたじゃありませんか」と非難するのですが、実は保子自身も房子のことを「私もいやはいやです」と漏らす。長女は可愛がられずに育ったのでしょうね。
房子もそれを自覚していますから、親にはズケズケと嫌なことも平気で言う。それに比して菊子は「ほっそりと色白の菊子から、信吾は保子の姉を思い出したりした」とべた褒めです。
家族とはそうした感情の濃淡で織りなされた人間関係だと言っているのでしょう。
>長男の浮気相手の描写が
>丁寧過ぎる点だった。
この点は原作もかなり細かく描いています。浮気相手が戦争の傷跡の代弁者ということもあるからでしょうか。
>全般的には父性愛と思慕愛的にしか
>感じられず、川端康成の原作は
>もっと色濃く描写されていたのだろうか。
原作も基本的には義父と嫁の関係を逸脱するようなエピソードはありません。ただ、62歳の信吾にも性欲はあり、みだらな夢を見たりします。夢で女の乳房を触り、犯しかけたりしたことを思い返し、信吾はこう考える。
「夢の女は菊子の化身ではなかったのか。もし、信吾の欲望がほしいままにゆるされ、信吾の人生が思いのままに造り直せるものなら、信吾は処女の菊子を、つまり修一と結婚する前の菊子を、愛したいのではあるまいか」
しかし、その後すぐに「みだらな夢にみだらな心のゆらめきもなかった」自分の衰え、老醜を逆に自覚するのです。いわば生の衰えと裏腹の性として描かれています。
以上、ご参考になれば幸いです。