「川端文学の映像随筆にみる成瀬監督の演出美、そこにある日本人の美と醜さ」山の音 Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
川端文学の映像随筆にみる成瀬監督の演出美、そこにある日本人の美と醜さ
川端文学の映画化である。増村保造監督作の「千羽鶴」で感じた日本人の性の陰鬱な雰囲気が、それ以上の生きる苦しみとなって、日本人の性が悲惨な姿として浮かび上がってくる。“山の音”とは、そんな人間の心の奥底に潜む“こんなはずではなかった”という、囁きと呟きなのではないか。テネシー・ウィリアムズがアメリカ人の滲み出るセックスエネルギーを大胆に暴露した、またはイングマル・ベルイマンが北欧の突き詰めた性の破綻を描いた其々の様に、この映画で観られる川端文学の作意は、日本人的な奥ゆかしさに潜む性意識を主題として、それが成瀬監督の人間凝視に繋がる。そこには、全ての登場人物の生の存在価値を認める広い人間愛で描かれた美しさがある。しかし、それはまた、同時にグロテスクな淫靡さも感じさせる。
登場人物は古都鎌倉に住む上流階級の家柄にあり、親子二代で東京の会社に勤めている。外観では戦後復興の貧しさから遠く、この上もなく平和で静寂な日常を過ごしている。しかし、その息子は上品で美しい女性を娶りながら、夜の生活に不満を抱え東京に愛人を作り、毎日のように午前帰りをしている。と言って、それを問い詰めたり非難したりする妻ではない。両親も息子の浮気を承知していながら、咎めることも無い。そんな虚飾にある家庭の中に、娘が子供二人を連れて戻って来る。その理由が夫の浮気問題である。勝気で色気のないこの娘は、その身の上を親の所為にして兄嫁の美しさに嫉妬する。この娘の相手構わず投げやりな発言が、物語全体への挑戦であり、唯一の喜劇的要素になっている。
物語は劇的な展開もなく、父親の人生の悟りを窺わせる程に物静かに落ち着いた筆致で描き通している。映画文学に徹した成瀬監督の演出が美しく見事であった。しかし、原節子演じる妻の自我の良心を少しも崩さず、ただ苦しみを受け入れる女性像の在り方に共感は難しく、夫の自由気ままな快楽主義を許せない観方も残る。これは、映画の魅力を突き詰めたというより、川端文学の主題に添った映像随筆と言えるだろう。その長短の評価は、人によって大分別れるのではないだろうか。
1979年 9月17日 フィルムセンター