鉄道員(ぽっぽや)のレビュー・感想・評価
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古き良き、失われていく昭和
国鉄時代からの鉄道員として。
セリフにもあったがこの世代を生きてきた人達は、頑固で真面目で融通がきかない人が多い。
そのうちの一人、佐藤乙松。
そして、その周りの人々を描いた。
ファンタジー要素が入ってると思ってなかったのでびっくり。そんな映画だったんだ。
そこに感動ポイントもあったんだ。
あの頃の脇役たちが、今ではおじさん世代の名優として活躍してる。
そんな発見も出来ておもしろかった。
良い映画なんだけど、若い人には理解できないだろうな~
たぶん10年ぶりくらいで、3~4回目の鑑賞
余談だが、私が高校生の頃、地元のローカル線が廃止になり
最後の記念にと、終着駅発の最終列車に乗ったことがある
映画と同じく、奥さんと駅に住み込みで働いていた駅長さんが、定年を待たずに退職を選んだことを翌日の新聞で知って、泣きそうになったことがあった
映画の感想だが、
1回目の鑑賞時は、死んだ娘が自分の成長を見せに来たことが強く印象に残っていたが
何度か見るうちに、冒頭から続く小林稔侍との『男の友情』に浅田次郎作品らしさをを感じるは自分だけか?
主人公が、「自分が娘や妻を死なせてしまった」という後悔の念があるから、こういう回想シーンになったと思うが、主人公が、あんなに責められるのは不自然だと思う
志村けんがウケ狙いの演技してるところは要らなかったし、広末涼子はかわいいけどこの映画には合ってないと思う
泣いてしまった
最初は期待せず、観ていた。
健さんが観られるだけでも素晴らしい。
年齢を重ねて、さらに演技にも磨きがかかってる気がした。
健さんは最後まで江利チエミが好きだったと何かで聞いたことがあるが、
本作ではテネシーワルツがよく流れるから、健さんの本作への想いも強かったのでは
ないだろうか。
個人的には、小林稔侍、大竹しのぶ、広末涼子はミスキャストだったと思う。
それにしても、死んだ娘が、晩年を迎えた父に会いにくる。
不覚にも、泣いてしまった。
我が娘が、私に鍋を振る舞ってくれる時はくるのだろうか。
エッセンシャルワーカーの悲哀と誇り
昭和世代には、この駅長のように、住み込みで、家族ぐるみで、人々の生活を支えていた人たちがたくさんいた。駐在さん、学校の用務員さん…。
今も、人々のために働いて下さるエッセンシャルワーカーの方々はたくさんいらっしゃる。
東日本大震災でも、家族を家に残し、救助を求める人々のもとに向かった、警察官・消防士・自衛隊・行政職…。家で待っている子どもが、警察官のお父さんのことを心配して泣いていたっけ…。
コロナ禍で、家に帰ると家族にうつす可能性があるからと車中泊していた医療従事者のニュースも流れたっけ…。
昭和のTVドラマを思い出した。森繁氏が演じる医者が手術している間に、その医者の息子(鹿賀丈史氏演)が、怪我をして手術を必要とする状態になるが、他に医者がおらず手当てができず亡くなる。医者は息子がそういう状態なのを知っているのに、今手がけている手術も、中断できずー中断すればこちらも助からないからーという展開だった。命にかかわる仕事の厳しさを知ったドラマだった。
人流・物流。鉄道の力。
無人駅もあるから、駅には必ずしも駅員は必要ないのだろうとも思うが、やはり終点となると役割も違うのだろう。
都市で鉄道系が止まった時の混乱…。廃線が決まった線が第三セクターとして復活する。東日本大震災後、長らくつながっていなかった線の復旧の喜び。
やはり、鉄道もなくてはならぬ、生活を支える仕事。
その仕事と、私生活の間で、思うようには動けぬ葛藤。それが…。
自分の、後悔だらけの人生の背中を押してくれるようで、感動する人が後を絶たぬのも理解できる。
だけど…。
原作未読。
監督は何をしたかったのだろうか。脚本がグダグダ。キャスティングも…。
単なる自己弁護・自己救済・自己感傷の物語になってしまった。
乙松は決して家族をないがしろにする人ではない。
駅長就任辞令が出たとき(駅長業務が始まる直前)は、雪子出産時に病院にいる。
ツリーの飾りつけ…。静枝と一緒にクリスマスパーティの準備。
駅に集まる人々との間でも、人への思いやりにあふれている様が描かれる。
仙次に比べて出世はしていないから、組織内での立ち回りは”不器用”なのだろうが、ふだんのやり取りでは”器用”ではないが、温かい牛乳等の細やかな気配りができる人。
そんな乙松が妻子の死に目に会えなかったのは、駅長業務の代替がいなかったから。幌舞に医療機関がなかったから。
仙次のような大きな駅の駅長なら、部下に任せて行ったはず。だが、部下もいない駅長。代わる者がなかった。だから行けなかっただけ(仙次!代われ!とツッコミ!)。
幌舞に医療機関があったなら、業務がない時間は妻の側に居続けただろう。
もし、駅が機能せずに列車が走らなかったら…。学校・職場に行けず。大切な約束を果たせず。稀ではあるが、第二の雪子の悲劇が起きるかもしれない。そうさせないために、仕事を優先せざるを得なかったため。
だのに、高倉氏を起用したことで、たんに”不器用だから”となってしまう。なんだそれ。
例えば、乙松を、人情家というイメージが強かった坂上二郎氏が演じていたら、この脚本・演出でも、家族を愛しながらも、死に目に立ち会えなかった悲哀がちゃんと伝わったであろうに。
それだけではない。静枝死去の際、仙次の妻に乙松を非難させて、職場環境のせいではなく、乙松個人の問題にしてしまっている。仙次も乙松を言葉で擁護しない。妻の口を閉じさせようとするだけ。なんだそれ。
だるまやの女将が文句を言うのならともかく、とも思うが、だるまやの女将は乙松を責めたりしないだろう。雪子を目の中に入れても痛くないほどかわいがっている様を知っているから。普段の乙松・静枝夫婦ー静枝が乙松を愛し、乙松が静枝を大切にし、静枝の想いを叶えようとするさまを見ているから。
時代。
映画の中でピンクレディーが流れる。活動期間1976年~1980年。バブル直前。TVの中は狂騒的な番組であふれており、都心では皆飛ぶ鳥落とし、世界の覇者を気取っていたころ。その同じころ、石炭で生活している人々は、敏坊の父のような状態。
他に産業もなく、廃れていく幌舞…。
国鉄から、さしたる描写もなく、いつの間にかJRに変わる。唐突に、JRの”幹部”である仙次の息子へ、乙松(≒国鉄関係者)から苦言・要望が突然語られる。
国鉄からJRになるにあたって、かなりの数のリストラが敢行されなかったか?この組織変革についての描写はない。公開当時は、自明のことだったからあえての描写はないのだろうが(実際に争議もあってうかつにふれられないのだろうが)。
有無を言わさずリストラされた人、あえて自ら外の世界に飛び出した人。組織に残った人。
スト破り。本来仲間からそしりを受ける行為(炭鉱夫は仲間から袋叩き似合う)。乙松達は「年端の行かぬ子どもの達のために」と汽車を走らせる…。自分の利益ではなく、人々の為の仕事としての気概。
そういう背景あっての、鉄道で働いてきた人・働いている人の代表としての、「ぽっぽや」「それしかできない」という言葉の連呼であろうに。
そういう歴史をチラ見させるが、乙松の生きた時代が見えない。
たんに、本人の性格として、不器用・無骨に、周りの意見にも耳を傾けずに、家族を犠牲にして、自分のやりたい仕事にしがみついてきた男に見えてしまう。
原作はそんな話なのか?
役者の演技はそれぞれいい。
高倉氏は、温かくて責任感の強い初老の男を表現する。
大竹さんはやはりうまい。病室では、死にゆく人特有の匂いまで匂ってきそうだ。
でも、この二人が夫婦に見えない。親子に見えてしまう。実年齢差26歳なのだから当然なのだけれど。特に妊娠報告時の演出。幼児?
なぜ、この組み合わせ?
文句ありのキャスティング。その中で安藤氏は新鮮。安藤氏とわからないくらいの、この毒のなさ。こういう演技もできる方なんだ。こっちが素か?
そうして、鉄道員というエッセンシャルワーカーとして、時代の要請の中で、家族と人々のためにやるべきことをやり、生きた乙松の生涯が、すべて乙松の性格・生き方のせいになる。
そうして、家族を顧みずに、仕事に打ち込んだ男への賛歌となる。
ここで引っかかる。
男たちは、それでよかった、仕方なかったと自己肯定し、
男を支える女の幸せを刷り込まれた女も、この夫婦を肯定する。
本当にそれでいいの?
否。と言いたい。
男は、仕事を逃げ道にし、家族のことは置き去り。
「企業戦士だったのだから」「経済的に発展させたのだから仕方がなかったじゃないか」
定年を迎えるこの映画スタッフからは、「良い映画を撮るためだったのだから仕方がなかった」という声が聞こえてくる。
全体的に経済成長は著しかった。でも、だからどうした。
終戦時からの復興には感謝するが、経済的に発展すればいいのか?
家族を置き去りにしたツケは見なかったフリ…。
エコノミックアニマルの匂いがぷんぷんしてくる…。
犠牲自慢をして、粋がる男たち。
自分勝手な男たち。
なんて、ブラックな…。
もう一つ、腹が立つのは、妻に愛され、周りからも慕われ、気にかけてもらえるような男の人生を、「何も良いことがなかった」と言い切るところ。
乙松自身は、皆に感謝しつつ「幸せだ」と言っているのだが。
確かに、家族に先立たれる不幸はあるけれど、妻の笑顔、妻が作る食事=普段の生活にも”良いこと”はなかった?雪子が授かったのが、結婚してから17年目。妻が亡くなったのは一昨年。少なくとも、静枝との生活は18年以上ある。雪子が亡くなってからぎくしゃくした可能性はあるが、静枝の最期の言葉は、乙松への思いやり。
家族を亡くした人が、自分に責がなくとも、自分を責めるのはよくあること。こうしたら、ああしたら、仮定の後悔ばかり。乙松が自分を責めるのは仕方がない。
でも、ここで「良かったことがなかった」と言い切るのは乙松ではない。なんだそれ。
映画の制作者たちは、経済発展・華やかな栄誉にばかり目を向け、
妻との、地域の人々との生活の積み重ね=小さな日々の幸せはなかったことにする。
何を”良いこと”とするかはその人の価値観だけれど。
妻に理解され、周りの人から慕われ、リストラもされずに一生と決めた仕事をやり終えることは”良かったこと”には入らないのか?
そして、個人のせいではなく、家族を犠牲にしなければいけない仕事の仕組み・働き方…。なんてブラックな…。
もっと、乙松が”そうしなければいけない事情”をちゃんと描いて欲しかった。
妻との、地域や職場での生活を描いて欲しかった。
そのうえで、乙松の、不器用ながらも真摯に、家族に、人々に向き合った人生を肯定して欲しかった。
昭和史の総括。
そしてこれからの生き方を考えてしまった。
☆
いろいろなレビューを拝読すると、乙松と高倉氏は重なるところも多いらしい。
生まれてこれなかった赤ちゃん。
お母様の死に目より、仕事を優先したこと。
離婚されていたから、江利チエミさんの死に目にも立ち会えなかったのではなかろうか。
はじめは、この映画への出演を辞退されたという高倉氏。
テネシーワルツを使うことにも抵抗を示したという高倉氏。
どんな想いでこの映画に出演されたのだろうか。
高倉氏にとって、演じることで、カタルシスが得られたとか、良い方向になったのだと願いたいが、
人が嫌がることを強要する監督のことは、嫌いになった。
それ、ハラスメントだ。
(この監督の映画、初鑑賞)
広末涼子の登場でこの映画の印象が一変した
淡々としたストーリーで、途中まではどちらかというと退屈な映画だった。
ところが最後のほうで、広末涼子の登場により、この映画の印象が一変する。
主人公はその出会いを心の奥で願っていたのだろうか。伏線としてその前に、2人の妹?が出て来た時になぜ気がつかなかったのかが不思議です。
気がつかなかったのは私だけだったのでしょうか。あえてそれまでのシーンを単調にして、気づかれないように意図していたのかもしれない。そう言えば忘れ物の人形が古すぎましたね。
彼の生き方に共感出来るか否かがこの映画の評価の分かれるところ。
日本国有鉄道と民営化
この手の邦画は、若い人の共感や感動は得られないと思う。
旧国鉄の民営化とその後の事情も模写されてはいるが。
キハの気動車を電車と言ってしまう人にはわからないこともあるか? と。
旧国鉄と高倉健さんが異様にマッチしている。
実は健さんが過去の『新幹線大爆破』にも出演していた。
ただ、当時は旧国鉄の撮影協力が得られず、作り物っぽい映画だった。
現状のJR北海道が、国の支援がないと存在しない大企業になる程危機感が強いが、それより20年くらい前のリアルさも出ていた。
定年とは何か? シニア職員とは何か? 考えさせられる映画でもあるかも。
名作には名作と言われる所以がちゃんとある。
安藤政信だけを目当てに見たがあんまり出なかった。ただ、めちゃくちゃ感動したし見てよかった。
高倉健は世代ではないため何一つ見たこと無かったが、この1作だけでも名優ということを感じた。
高倉健、安藤政信、広末涼子、志村けん、などなど豪華な出演陣に負けないストーリー性があった。
仕事第一という昔の価値観で今では受け入れられない設定でありそうだが、一昔前まではあれが当たり前だったのかなぁ
高倉健に女の子がキスするシーンとか、今だったらプチ炎上しそう。
悲しい世の中になったと感じた
【”滅びの美学”をファンタジック要素を絡めて描いた作品。 ”どこまでも、あの人はぽっぽや(鉄道員)だから・・、と亡き妻は笑顔で言った・・。】
ー映画界を長らく牽引した高倉健さんと、お笑いを牽引した志村けんさんを偲んで・・。-
■感想
・当たり前であるが、高倉健さんの圧倒的な存在感。
一途で、不器用だが、心温かき、昭和の男をこの方ほど、きちんと演じる方は、今後出てくるのであろうか。
・出演シーンは短いが、筑豊の炭鉱から仕事を求めて、北海道まで出てきた男を演じた志村けんさんの姿。
今作後、NHK朝ドラマには、出演されたが・・。
そして、今春公開予定の映画「キネマの神様」に出演される予定であったが・・。
そして、彼の子供を演じた若き、安藤政信さん。
物凄いイケメンである・・。
・高倉健演じる、佐藤乙松の機関士時代からの相棒を、小林稔侍が盤石の演技で魅せる。
・乙松の健気な妻を演じた大竹しのぶさんの姿も忘れ難い。
・生後数カ月で亡くなっってしまった、佐藤夫婦が漸く授かった雪子。
彼女が、妻を亡くした乙松の元に、”段々大きくなりながら、様子を見に”現れる、数シーン。
特に、高校生になった雪子を演じた広末涼子が、乙松のために鍋料理を振舞うシーンは、沁みる。
”俺は幸せもんだ・・”と絶句する乙松。
<降旗康男監督と、高倉健さんのゴールデンコンビが生み出した稀有な作品。
原作も素晴らしいが、今作品も素晴らしい。>
高倉健の名演が胸を打つ、ある世代への讃歌。
Huluで2回目の鑑賞。
原作は未読です。
「日曜洋画劇場特別企画」での放送(2001/01/07)を観て以来の鑑賞だったし、当時は小学一年生。観たと云ってもストーリーを理解出来ていたとは思えないので、ほぼ未見と一緒…。
それはさておき、純粋にいい映画だなと思いました。鉄道員一筋だった主人公・佐藤乙松の不器用な生き様…。その人生の最後に訪れた奇跡が、ファンタジックに描かれていました。
幼い娘が死んだ日も、妻が死んだ日も、雪の積もったホームに立ち続けた乙松。鉄道員としてがむしゃらに働いた日々に対する誇らしさと、家族を顧みなかったことへの後悔の念を抱えながら、それでも駅長としてホームに立つその姿に、演者である高倉健自身の生き様も投影されているようで、この役は高倉健にしか出来ないんじゃないかと納得させられました。
戦後間も無い頃から鉄道員として働き、今日ある日本経済の発展をもたらした世代―。日本の発展を牽引する機関車となった彼も定年間近。そして自分の鉄道員人生と同じくして、炭鉱町として賑わったのも今や昔な幌舞の町の足である、幌舞線の廃線が決定する…。会社の幹部には同僚の若い息子がいて、駅舎近くの食堂の息子も札幌で店を出すために町を出る。
老兵である自分は、ただ去り行くのみ…。本作は戦後を生きて来た“世代”の退場の物語なんだな、と…。物悲しさが漂いながらも、詩情豊かに綴られていました。
そんな乙松の元に現れた謎の少女。幼い頃に病死した娘・雪子の幽霊でした。己を責め続けていた乙松に、優しく言葉を掛ける娘…。なんて美しい親子愛なんだろうと思いました。
もしかしたらこれは、乙松のような世代の人々全員に向けられた、感謝と救済なのかもしれない…。乙松の流す男の涙につられてしまい、私の目からも滂沱の涙が溢れました。彼の魂と人生が救済されたように感じたからです…。
高倉健の名演がひたすら心に沁みました。
原作の膨らましに難があるものの…感動作!
NHKBS放送を録画して、
ロードショー以来の再観賞。
結末を知った上での再観賞だったため、
冒頭の多連結車両SLから
1両だけのディーゼル車の走行への
変遷シーンだけでも、
過ぎた時代への感傷と共に、
乙松の運命ともオーバーラップして
冒頭から涙腺が緩み、
またその後の展開でも、少女のカラクリを
知っていた故に、涙腺が更に緩んだ。
列車のような機械は時代変化の中で
換えていかざるを得ないが、
生身の人間は簡単にはいかない。
乙松の生き様は変化に対応出来ない愚直
なようで、しかし、ある意味、
時代の変化にも媚びない絶対的価値観での
実直な生き方でもあるのだろう。
そして、娘との奇跡のシーン、
現実的に考えれば、ホームで倒れた乙松の
雪の中で死を待つまでの
夢や幻影と考えるのが自然だろうが、
私は神様による乙松への実体的プレゼント
と思いたい。
一般的にリアリティを欠いた奇跡の描写は、
荒唐無稽にも成りかねず、
下手をすると作品世界から視聴者の気分
を遠ざけてしまうものだが、
ここでは乙松に成長して行く娘を見させる
ことが彼への最後のはなむけとして、
そして、それが彼に最期が訪れるからとの
予感を観客に与えることで納得させている
のだと思える分、この非現実的な描写
を受け入れることが出来た。
この映画は「駅 STATION」と並ぶ、
降旗監督の大好きな作品だが、
必要無さそうな吉岡秀隆役の登場、また、
志村けんと安藤政信親子のエピソードの
本筋との希薄性、
そして、ラストでの小林稔侍のアップ描写
などには感動を薄められてしまった。
高倉健と大竹しのぶは
言わずもがなの名演技だし、
せっかく小林稔侍も良い味を出していたのに
最後に彼を使い過ぎた感じに思える。
ラストはサラッと乙松の帽子にかぶり直す
シーンで切って欲しかった。
短編の原作を無理に膨らませ過ぎた脚本
ではあったと思うが、しかし、
撮影技術やメインキャストの演技力
に支えられたと思える感動作だった。
開始40分で見るのを辞めた。 0歳児の一人娘を亡くし、 妻(大竹しのぶ)を病気で亡くし、 なんて理不尽な話だと思った。 映画大好きで、途中でギブアップすることなんて めったにないが、 これはもう
NHK,BSプレミアムで映画「鉄道員(ぽっぽや)」を見ようとした。
劇場公開日:2020年11月6日
1999年製作/112分/日本
配給:東映
日本初公開:1999年6月5日
高倉健
小林稔侍
大竹しのぶ
広末涼子
奈良岡朋子
田中好子
安藤政信
志村けん
吉岡秀隆
平田満
きたろう
本田博太郎
木下ほうか
田中要次
石橋蓮司
開始40分で見るのを辞めた。
0歳児の一人娘を亡くし、
妻(大竹しのぶ)を病気で亡くし、
なんて理不尽な話だと思った。
映画大好きで、途中でギブアップすることなんて
めったにないが、
これはもう見たくないと思った。
浅田次郎原作の映画は「壬生義士伝」も見たが、
終盤は悲惨だった。
満足度は5点満点で0点です。
高倉健はハマり役
後半を除いてだいたい想像通りの映画でした。
後半は「えっ!?ぽっぽやってこんなファンタジーな映画だったんだ」という感じですかね。
ストーリーとしてはあまり濃い内容ではありません。全体的に起伏が少なくて淡々と進行します。
高倉健の渋い演技が光る良い映画だと思います。雰囲気を楽しむ映画ですかね。
【「なーんも」】
ありがとうとお礼を言われても、
「なーんも」
ごめんなさいと謝られても、
「なーんも」
心配されても、
「なーんも」
この短い言葉に、さまざまな意味や、気持ちや、感情を込めて生きてきたのだ。
そして、去る…逝く時も、悲しむ人に
「なーんも」と、
さよならの代わりに、きっと、言っているのだ。
…やっぱりいい映画です
4Kで放送されていて久しぶりに観ました。
映像の美しさもさることながら、豪華な俳優陣の皆さんの演技に、久しぶりに泣きました。
本当にいい映画です。
終点
20数年前の映画。
こんな話だったのかと、少し驚く。
物語は廃線が決まっている終着駅の駅長の話。
回顧録とでも言えばいいのだろうか?
ノスタルジックに物語は進む。
もう今の若者達はこの話に共感などしないのだろうなと思う。働き方改革や終身雇用制度が崩壊した今の日本に、乙松の居場所はない。
自らの仕事に人生すら捧げる生き様を、彼らは「馬鹿」と蔑むのだろうか?
雪深い山の人口200人程の駅の駅長。
映し出される仕事の内容は、たわいもない物ばかりだ。電車を迎えて送り出す。
まぁ、つまらない。やりがいなどどこに見出せというのだろうか?
だけど、乙松の背中は丸まりはしない。
自らを卑下する事もなく、虚勢を張る事も威張る事もない。自然体で…とてもとても大きく見える。
定年を控えた乙松は言う、親父の言葉を信じていると。
戦争に負けた日本をデゴイチがキハが牽引し、前に進むんだと、だから俺は鉄道員になったんだ、と。
昔の人はどんな形であれ国を背負ってたのかなと思う。だからあんなに強いのかなと。
今とは人間の強度が違うように思う。
乙松は再三に渡り言う「後悔はしてない」と。
嘘なんだと思う。
泣き言を言えないのだと思う。
自分と自分の仕事を後押ししてくれてた妻の面目が立たないのだと思う。娘を送ってやれなかった事へ申し開きが立たないのだと思う。
彼が寂れた駅の駅長に執着するのは懺悔でもあったのだろうと思う。
そんな複雑な哀愁を健さんは見事に演じて見せた。
本当に素晴らしいと思う。
電車を見送る目の奥でだけ芝居をしてたように感じる。健さんは佐藤乙松の何に感銘を受けたのだろうか。
佐藤乙松を介して何を語りたかったのだろうか?
一役者が仕事として作品に臨む以外の何かがあったように思えてならなかった。
広末さんも素晴らしく…ナイスなキャスティングだと思う。彼女が天使に見えるのはどおいう事なのだろうか?監督はどんなマジックを使ったのだろう…。
そんな彼女の料理を食べる健さんに泣かされる。
「うめぇなぁ」
特別美味い料理でもないんだと思う。
でも、やっぱり乙松には、乙松の人生には格別な料理だったのだろうと泣けてくる。
そして、全く受身にならない大竹さん。
お見事でした。
日本特有の気高き精神性を、この映画に見たように思う。
その気高き精神は、今はきっと廃れているのだと思う。だからこそこの映画を尊いと思えてしまうのだろう。
雪国と高倉健
北海道のローカル終着駅の駅長は、鉄道の仕事一筋。定年を迎えると同時に廃線も決まる。
若いときから一緒にやってきた同僚との会話と、死別した妻と娘の回想が織りなす。そんなある日、娘の蘇りと会う。その後、独りその駅で亡くなる。死を描くことで生の惜別を感じる。
高倉健、小林稔侍の重しの効いた演技、当時ブレイクした10代の広末涼子は爽やか。
志村けんも酔っぱらい役で出ていてシリアスな役柄なんだけどなんだかコミカル。
全64件中、21~40件目を表示